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10月 竹村真昼は田村家の座敷の畳に指を突いた。 「お義父さん、お義母さん、龍彦さん。これまでありがとうございました。」 生後3ヶ月をやや過ぎたは白羽二重、祝着を羽織り、生後100日のお宮参りに向かう。そしてもう2度とこの田村家に戻る事はない。 「たっちゃん、6年間ありがとう。元気でね。」 龍彦と真昼は離婚し、娘の親権はにより竹村真昼が勝ち取った。呆然とする田村家の義父母、龍彦を振り返る事もなく、真昼はその敷居を跨いだ。 あれほど後継をと固執していた母親はようやく授かった孫を抱くことは許されず、龍彦は妻と娘を失った。 11月 やがて鰤起こしの雷が鳴り、重苦しい鉛色の雲が冬空を覆った。 真昼が娘を連れて家を出て行き1ヶ月と少しが過ぎ、その頃の田村龍彦は日々仕事もせず酒を浴びる様に呑んでいた。 「・・・・・橙子先生。」 妻と子を失った龍彦の心の拠り所は石畳の小径、ドウダンツツジの垣根の平屋の日本家屋だけだった。 「先生、先生。」 ところが赤いポストに(凪橙子)の名前は無く、雑草が腰丈まで伸び、脇道は枯れ葉が醜く積もる廃屋となっていた。酒に酔っていた龍彦は玄関のガラス戸をガタガタと揺らし、やがてクルクルと回すだけの古びた鍵がカチャンと音を立てて外れた。 「先生、橙子先生。先生。」 三和土で黒いスニーカーを脱ぐ事もなく茶の間に上がり込んだ龍彦は辺りを見回したが電化製品も、見慣れたちゃぶ台も、あの籐の椅子も無く、座敷の仏壇に在った忌々しい凪厳夫の位牌も無かった。 「先生、橙子先生。」 俯き加減で千鳥足の酔いどれは、ヨロヨロと凪橙子と初めて交わった奥の和室へと向かった。 少し離れた往来をけたたましくパトカーのサイレンが鳴り響き、通り過ぎた。 「橙子先生、橙子さん、何処ですか、橙子先生。」 そこにも凪橙子の姿は無かった。 ささくれだった足元を見つめていた龍彦は何かの気配を感じ視線を上げ、ポロポロと剥がれそうな土壁を凝視し愕然となった。 (宿題じゃありません。) (じゃぁ、何。) (ぷ。) (ぷ?) (・・・・・。) (ぷって、何!) (プレゼントです!) 薄青と灰色の濃淡。 淡い黄土色で縁取られた白い花、灰緑に萌黄の葉脈。 「な、凪の海。」 それは龍彦が「好きです。」と凪橙子に告白した26歳のあの日、彼女に贈った縮緬の染め物だった。凪橙子はそのタペストリーを持たず、田村龍彦との12年間などまるで無かったかの様にその前から忽然と姿を消した。 「と、橙子先生。」 空になった鳥籠は嗚咽し畳の上に力無く崩れた。 了
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