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8月の下旬。 その夜は”放課後ゼミ”の6名が、課題の締め切りが迫る者、急遽アルバイト先のシフトの都合でと、早々に席を立つ者ばかりで20:00をすぎる頃には会合はお開きとなった。後に残されたのは飲みかけのビール瓶やコップ、焼き鳥の串、油まみれの小皿、大皿と散々な状態だ。 特に予定の無かった田村龍彦はその場に居残り、ちゃぶ台から洗い物をキッチンのシンクに運び、飲み掛けのビール瓶の後始末をし、玄関先のケースに片付けた。スポンジに食器用洗剤を、洗剤・・・洗剤とは・・・彼は初めての食器洗いに手間取っていた。 「先生、洗剤はどのくらい付ければ良いんですか?」 「あぁ、適当よ。適当、チョちょっと垂らしてゴシゴシよ。」 「は、はぁ。そうですか。」 凪橙子は縁側に腰掛けて溶けかけた氷にトプトプと琥珀色のウィスキーを注ぐと色気のない指先でカラカラと混ぜた。 自分では無い誰かがキッチンに立ち、手を動かす、部屋の中の空気が揺れる、皿を洗い終わったスポンジの泡が排水溝に流れてゴボゴボと音を立てている。 (また詰まったのかしら、いやぁね、もう。) そう心の中でゴボゴボと音を立てる配管に愚痴を溢しつつ、他人の気配、しかも恋人がそこに居る心地良さに酔い痴れる。 コオロギの鳴く声が止み、薄暗くなり始めた空からはシトシトと秋の初めを感じさせる雨粒が夏蜜柑の枝葉を濡らしては雫となり、猫の額の様な庭の水溜りへと落ちて波紋を作った。縁側に腰掛けて脚を伸ばすと、屋根から滴り落ちる雫が皮膚の上で弾いて伝い落ちる。 「先生、足・・・・濡れますよ。」 「ええ、そうね、ボーっとしてたわ。」 凪橙子は庭を見渡せる”籐の椅子に身体を預け、細くて青いストライプの長袖シャツを肘まで捲り上げて洗い終えたコップを布巾で拭う背中に声を掛けた。 「田村くん、飲みすぎたわ、水。」 「はい。」 龍彦が体の向きを変えて水道の栓を右に捻ったところ思いの外、勢いよく水が出て、手にしたコップに注ぐどころかシンク周りだけではなく、キッチンが水浸しになってしまった。 「う、うわっつ!」 足が冷たい、龍彦の素足もびしょ濡れでそれは床にまで広がっていた。 「あ!床、すみません!」 明らかに慌てた表情で手元にあった付近を手に取ると、床を拭き、吸い取った水気をシンクで絞っている。 「田村くん、それ、お皿を拭く布巾なの。」 「あ、すみません!」 「良いのよ、雑巾、そこにあるから。」 「あ、ど、どれですか。」 「いいのよ、気にしないで。」 ふと見遣ると、龍彦は頭の先から爪先まで水浸し、水も滴る良い男とはまさにこの事だ。 「それより着替えなさい。」 「で、でも着替えが。」 凪橙子は茶の間続きの座敷にある立派な桐の箪笥を指差した。 「そのタンスに夫の作務衣が有るから、サイズは・・・・合うと思うわ。」 すると龍彦は驚いた顔をして身を乗り出した。 「せ・・・先生、旦那さんいらっしゃるんですか?」 「何、不倫だとか心配してるの?」 「え、いえ。そんな訳では・・・・無い・・・んですが。」 「あぁ、話して無かったわね。」 凪橙子はヒョイと右手の人差し指で、龍彦に天井を見るよう促した。 「・・・・に、2階、2階にいらっしゃるんですか?」 「見て来たら?」 玄関先を指差すと、慌てた表情の龍彦はボールを投げられた犬のように黒いクロックスを足に突っ掛けて外に飛び出しドウダンツツジの垣根の向こう側で背伸びをした。 「先生、2階なんて無いです!」 「馬鹿ね、うちに2階なんてないでしょ。」 「は、はい!」 「そこの郵便受け、表札見てご覧なさい。」 龍彦は赤いポストに目を近付けるとその部分を凝視した。どうやら極度の近眼の様だ。何かを納得した様にクロックスを土間の三和土に揃えるとポタポタと雫が垂れるキッチンに向かい水栓を閉めようともう一度シャツの袖を捲った。 「お名前が、ありません。」 「そうよ、夫はあちらの世界に逝ってしまったの。良い人だったからきっと天国に居ると思うわ。」 「そうなんですね、知りませんでした。」 「言ってないもの。」 「はぁ。」 凪橙子は籐の椅子に座り直し、少しはだけた黒い膝までのタイトスカートを指先で直した。龍彦の視線がその指先に付いて動いた。 「3年くらい前にね、交通事故で亡くなったの。」 「・・・・はい。」 「少し歳が離れていてね、地元の岡山で知り合ったのよ、あなたと私みたいに。」 「どういう、意味ですか?」 「美大の教授と教え子だったの。偶然ね。」 「そう、ですか。」 「そう。」 「あの、旦那さんのお名前を聞いても・・・良いですか?」 「良いわよ、厳夫(いつお)、厳しいと書いていつ、夫で厳夫。でも優しかったわ。」 「そう、ですか。」 凪橙子はグラスをちゃぶ台に置くと、そのスラリとした脚を組んだ。一瞬、その隙間が見えた様な気がした龍彦の喉仏がゴクリと上下する。 「子どもが居れば寂しくは無かったと思うの。」 「はい。」 「でも無理だったの。」 「ど、どうしてですか?」 凪橙子は人差し指を下腹辺りでぐるりと円を描くと溜息を吐いた。 「病気でね。」 「だ、大丈夫ですか。」 「今は何とも無いわ、大丈夫。」 「そうですか。良かったです。」 「子宮がんだったの、全部取ってしまったの。」 「何を、ですか。」 「子宮が無いの。」 龍彦は思わず水道の栓を右に回してしまった。再びシンクに勢いよく水が流れ出て、洗い残しの大皿の泡が排水溝に消えた。
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