緖美 Beginning ~邂逅~

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緖美 Beginning ~邂逅~

「それでは行ってきます、お爺さま」  玄関先で恭しく頭を下げ、来るはずのない返辞をまち、一呼吸してから家を出る。    黒塗りのセダンが玄関前に停車していた。  古いだけの家柄。  人のために家があるはずなのに、家のために人が動かされる不思議な家。    私は世間一般的にはお嬢様と呼ばれる立場の人間なのだろう。  お金持ち、由緒正しい家のお嬢様、エトセトラ。  私と私の家を形容する言葉は枚挙に暇がないけれど、私はこの家の住人であることに息苦しさを感じている。 「お前はこの家の悲願を達成できる力を持っている。だから家のために尽くすのだ」  物心ついたときから、毎日言われ続けた言葉を思い出す。  守藤家の悲願。  それが何かは詳しくは知らされていない。  ただもう何百年にも渡り、ずっとこの家が望み続けた未来。  それを実現するために必要な2つの鍵のうちの1つが私なのだと、お爺さまは事あるごとに言う。  正直……そんなモノは知ったものではないというのが、私の本音。  生まれる前から続く、家の悲願とか宿願なんて知ったことではないと思う。  だけど私もやはり、家に縛られた存在で、家の庇護なく生きていくことすら出来ないことも事実。  だから私は今日も与えられた日課をこなして、与えられた役割を演じ、本心を隠してあるべき孫娘として振る舞う。  そこに私の意思なんてないけれど。  唯一の救いは、私がその宿願をはたしたとき、お爺さまの言う【ヒナミ】という存在になったときに、私はこの宿命から解放されて、守藤の家の中で自分が思うままに振る舞うことを許されるという約束。  その【ヒナミ】というモノにさえなることが出来るなら、私は初めて私として生きることが出来る。  それが私の希望であり、縋るべき糸であり、折れそうな心を奮い立たせる唯一の(よすが)でもあった。 「あ……守藤さま、おはようございます」  学校の校門の前で車から降りる私を、めざとく見つけた数人の生徒が、足早に私の方へをかけより、頭を下げる。  星陵大付属黎浪学園(せいりょうだいふぞくれいろうがくえん)  お金持ちや名家の子女達が通うと言われている私立の高校だ。  もちろん一般の生徒もいるけれど、私のように小学校から内部の人間は、間違いなく名家や金持ちの家の子供だ。  だから内部進学者同士はこう言って、マウントを取り合ったり誰に取り入るかを常に計算している。  この町では……、いやこの地域では一番の名家であり、権力を持っている守藤の家の娘となれば、こうして常に取り入ろうとする人間に囲まれてしまう。  それはもう小学校の頃からずっと変わらないことであり、私ももうそれを普通なことと受け入れている。  灰色だ……  誰に聞かせるわけでも無く、ぽつりと零す。  私の世界から色が消えて、もうどのくらいの時間が経過してしまったのだろうか。  この世界に色はなく、食事も飲み物も味などなく、私はただ生きているだけ。  感動も、感情が大きく動くこともなく、ただ息をしているだけ。  自分自身の世活を、人生をそのように感じるようになって久しい。  目的のためだけに生かされる私。  目的を達成する為に道具として必要とされる私。  自分たちの身の安全、安泰を欲する故にすがりつくべき依り代としての私。  すべて他の存在のための私でしかなくて、本当の私は当の本人ですらもう解らなくなってしまっている。  だから世界に色はなく、花に香りはなく、景色に感動することもない。  ヒナミになることが出来れば、コレも変わるのだろうか……などと、とりとめのないことを考える。  そんなことを考えながらでも、長年の習慣の染みついたこの身体は、かってに笑顔を貼り付けて口角を最も好感が持たれる角度に保ち、中身のない会話を無意識に続けられるようになった。  その事実を認識して、ため息がまた1つ。  最近こうして、自分の嫌なところを数えて、その数だけため息を吐くことが増えた。  不思議と今まで感じたことがなかった、自分が生きる意味や自分とは一体何かと言うことを、ふと考える時間が増えてきていることも自覚している。  その変化が何故いま、自分に訪れたのかは解らないけれど、だけど自分が確実に変わった事だけは理解できる。 「緖美さま……そろそろ式が始まりますよ、一緒に体育館に行きませんか」  中学の頃からよく見かける顔の女子がそう言って私に笑いかけてくる。  私は相変わらずの微笑を浮かべて、それに肯いて歩き始める。  体育館へと続く道、グラウンドを大きく横切ってゆっくりと歩く。  その時、不意に世界に色が戻った。  その余りに急激な変化に、戸惑いを隠せずに思わず足を止めてしまう。 「緖美さま?」  怪訝そうな顔をして、少女が私の方を振り返っている。  いつもなら名家の女子としての振る舞いを心がけて居る私だけど、いまはそんな余裕すらなくしていた。  余りに突然の出来事に、何が起こったのかと困惑し、とるべき行動の1つも思い付かずただ呆然と立ち尽くす。   「陽奈美……」  不意に声が聞こえた気がして、辺りを見回す。  そして私はそこに見つけた。  何の変哲もなさそうな男子生徒がひとり、ぼんやりと空を見上げている姿を。  思わずその男子を凝視してしまう。  理由なんてわからない、ただ見なければならないと言う気持ちがわき上がり、そして1度見てしまったら視線を外すことが出来なくなってしまっていたのだ。  私の視線に気がついたのか、空を見上げていた男子の視線が下りてきて、私の視線とぶつかる。  その時、突然に私の心臓が暴れ出した。  身体が熱を持っているように熱くなる。  そして色づいたはずの世界が、更に鮮やかに輝き始める。 「なに……これ……、こんなの……私、し、知らない……」  声にならないほどの小さなつぶやきが、無意識に口から漏れる。  男子は私の方を数秒ほど見た後、小さく首をかしげて、そして再度私を見つめると、体育館のある方向へと歩き始めた。 「緖美さま……式が始まってしまいますよ、急がないと……」  女子生徒の声で我に返る。  私が呆然としていたのは、多分私が思うよりずっと短い時間だったのだろう。  だけどそれはとても長い時間に感じられた。  あの男子と視線を交わした時間は、永遠のようでもあった。  気になる。  あの男子が誰なのか、そして何故私にこのような変化が起きたのか。  とても気になる。  だから私は、あれほどに嫌っていた家の力を使うことに決めた。  あの男子が誰なのか、どうすればもっと近づくことが出来るか。  そればかりを考えてしまう。  あの時の一瞬からそれは始まった。  それがどういう感情だったのか、そしてどういう関係を望んだのか。  そんなことは今でも解らない。  だけど私も知らない運命の歯車が、ゆっくりと彼の歯車にかみ合い、動き始めたことだけは無意識に理解していた。  コレは私……守藤緖美の物語。  そしてもう一人の私の長きにわたる因縁の物語。  私が私であり、そして私ではない何者かに変わる物語でもある。  この時1つだけ解っていたこと。    今この瞬間から、全てが変わってしまうと言う予感。  
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