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化かされている?
「へえ、両親は、西洋音楽の舞踏家と演奏者なんだ。今でもそうだけど、戦前なら随分ハイカラだったんだろうな。そんな人が此処らに住んで居たなんて、聞いたこともないし思いもよらなかったな。でも、分かったよ。」
「あんた、何が分かったのよ。」
「お前、戦争間際の頃を思い出してみろ。演劇場や遊戯場なんか、片っ端から営業停止にされたじゃないか。文化統制ってやつだ。まして敵の音楽なんか口ずさんだだけで密告されて、警察にしょっぴかれた者もいたって話だ。」
「大変な思いをされたんだよね。それじゃあ、お二人もそのフラメンコっていう音楽をやるの?」
「ええ、今、藍子ちゃんのお母さんがやってる店でお客に披露しています。彼女も踊り子なんですよ。」
「本当に、そりゃ凄いな、まだ若いんだろう、専門の音楽家なのか?」
「あんた、フラメンコってどんなもんなの?」
「ん~、俺もよく知らん。フラメンコって、言葉には聞いたことあるんだけどな。いったいどんな音楽なのか踊りなのか見たことないんだけどね。」
「雑誌で載ってたN劇場でやってるダンスの様なものなの?」
「でも、このお嬢さんがあの派手な衣装を着けてか?、ちょっとそれは違うんじゃないか?」
「ええ、おっしゃる通りですね。フラメンコの舞踏や演奏は、見せる聴かせるというよりは、感情を表したり、気持ちを伝えると言った方が良いですね。」
「気持ちを伝えるって?」
「フラメンコは、演奏や踊りで自分とその場にいる人達とで、楽しさや嬉しさ、ある時には悲しみや悩みを共に分かち合わせるところに本当の中身があるんですよ。平たく言えば、皆で共に居ることを楽しむための余興(よきょう)だと思ってもらえれば良いんです。」
「ふ~ん、でもさっきの九州弁じゃないけど、何と無くとしか分からないよ。専門家の演奏や踊りなのに、宴会の余興ねえ。」
「なんだったら、ちょっとだけでもやってもらうことできないかい?」
「えっ?、今、此処でですか?・・・。」
藍子は、いきなりのお願いに少し躊躇(ちゅうちょ)する様子を見せた。すると、すぐに尚正が返事をした。
「ええ、大丈夫ですよ、やりましょうか?」
「えっ、でも尚正さん、ギターが無いでしょう。尚正さんのトケが無くて、踊ることなんか出来ないんじゃ・・・」
「大丈夫、大丈夫、僕のカンテとパルマに合わせていつものようにやれば良いんだよ。すみません、これからやりますけど結構大きな声と音が出ますよ。」
「本当かい?、もちろん、良いよ、良いよ、是非やってくれ。此処は、母屋から離れているんでね、ぼうずと爺さんには聞こえないよ。先祖代々から、若夫婦はこっちの座敷の寝床を使っていることになっているんだよ。」
「そうなんですか?、どうしてですか?」
「そりゃあ・・・まあ、なんだ。」
「あんた、若い娘さんだよ。」
「藍子ちゃん、僕等には、これからのことのようだね。」
「青年さん、分かりが早いねえ。」
“アハハハハ・・・”
そして急遽(きゅうきょ)、座敷で演舞会が開かれることになった。
突然舞い込んできた若者達に、夫婦は不思議なことが起こっている気がして、何かに化かされているのじゃないかと思っていたかもしれない。それは、神様のおふざけか魔物の悪戯(いたずら)なのか。
「それでは、演舞はそこの広縁で行いますので。それから奥さんにお願いがあるんですけど、布団の敷布を一枚貸して頂けますか。」
「ええ良いわよ、それ何に使うんだい。」
「フラメンコの衣裳(いしょう)は、丈の長いスカートなんです。」
「ああそれを敷布で代用するんだね。それじゃあ折角見せてもらえるんだから、酒と肴(さかな)も用意しましょうかね。」
「おお、良いね良いね、今日は、思いも付かない驚きの連続だ。盆と正月が一緒に来たぞ。青年さん達は、本当に‘人さま’なんだよね?、後で、狐や狸にならないでくれよ。」
そうして、思いがけないという宴が始められる。畏(かしこ)まったものが無いほど、親しみの密度は濃くなるというもの。元々、音に合わせ歌ったり、踊ったりし始めたのは、親しい人同士の触れ合いの手段だったのかもしれない。
「随分、お酒もらいました。それじゃあ酔いがまわって勢いがあるうちにやりますよ。藍子ちゃん、始めよう!」
「おお、待ってました、二枚目!」
藍子は、それに頷くと、腰を落とし、即席の衣裳のスカートの裾を両手で摘み上げ、いつでもバイレに入れる体勢をとった。
# パチパチパチ・・・
やがて、ゆっくりとした調子で尚正のカンテが始まった。
♪ クワンド フィステ ノビアミア~・・・
生まれてから体験したことのない光景を目の当たりにしているからだろう。その映像の流れの前では、手にぐい呑みを持ったまま、さいばしも両手で掴んだまま、何がどうなるのかと瞬きも出来ない。
そして、繊細なリズムではあるが躍動的な勢いでパルマが打たれ始める。
♪ ポラ プリマベラ ブランカ・・・
# タンタンッ タタンッ・・・
巧みな動きで打たれる鮮烈な拍手音が響き渡った。
アグレリアス。座敷中が歓びの空間に変わる。そして広縁の板張りを歯切れ良く踏み鳴らし、尚正のパルマに合わせた藍子のサパティアードが絶妙な拍音と踏音のアンサンブルへ移行する。
♪ クワンドデ ノチェ メ アブラザン・・・
# ダンダン、タタン、ダダン、タタ、ダッ・・・
まるで激しく心臓が脈打っているように、二つの鼓動が足元から突き上げるように心に伝わって来る。そして、しなやかなブラッソに併せて軽やかにバイレが始まった。狭い広縁であるが、それ故に曲の節目に見せる身体の捻りにひるがえるスカートが何とも迫力がある。
藍子は、華やかな曲に対する踊りには長けていた。特に優れた技術を持っている訳でも無く、踊りの腕としては並の力量ではあったが、観る者を和やかにさせる不思議な魅力がある。尚正はこの藍子の特徴をよく理解していて、演奏曲の編成は、フラメンコでは派手さのあるアグレリアスを主にやっていた。更には実に息の合った二人の間合いである。藍子の踊りの癖を承知しているから、いや、生活を共にしているからこそその性格まで把握しているからである。
♪ オーラ、ビエン、オーラ、アイー、オーラ・・・
# ダンダン、タタン、ダダン、タタ、ダッ・・・
サパティアードとブラッソのコンビネーションで身体の向きが変わる。そのタイミングの瞬間に合わせてハレオを絶妙に入れ、踊り調子に躍動感を加える。世話になった手前ということも無く、即席とは言え、二人はいつも通りプロフェッショナルとして手抜きの無い演舞を繰り広げていく。しかも、よくある不必要な緊張感を煽(あお)るようなことも無い。終始楽しく、そして魅惑的な大人の演出であった。
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