1話

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1. 佳純(かすみ)は腰を立てて座り、手元にあるステーキを一定の大きさに切ることに集中した。 逃げ出したい気持ちを抑え、来ようと決意したのだから、なるべく目の前にいる人々に注意が行かないよう気を付けて行動した。 「最近学校はどうだ?」 正面に座って静かに食事をしていた父親の柳原一樹(やなぎはら かずき)が、布ナプキンで口元を拭きながら聞いた。親子ならいたって普通にできる質問だ。しかし、彼女はそれですら負担に感じたのか、ぎこちない表情で短く返事をした。 「楽しいよ」 佳純はこれ以上会話を続けたくなかったため、一樹の視線を避け俯き、ステーキを口に運び入れた。 むしろ寂寞さが押し寄せる雰囲気の方がましだった。たかがうわべだけの家族の集まりなのだ。各自自分の食事に集中すればいいこと。そうすれば、少なくとも大きなトラブルもなく、この時間を過ごすことができるのだから。 いつもそうであったように、今日も無事に時間が過ぎることを心から願った。しかし、この後に聞こえて来る継母の恵子(けいこ)が放った皮肉交じりの一言で、彼女の願いはガラスのように割れてしまった。 「大学の学費にお小遣い。何から何まで出してもらってるんだから、楽しくないわけないじゃない」 「お前、もう少し優しく言えないのか?」 一樹の剣突にも恵子は気にもせず目を剥き、佳純を睨みつけた。砂漠よりも荒涼で、南極よりも冷たい雰囲気。鋭い刃の上に立っているかのように、危なっかしい食事の時間が続いた。佳純は恵子の冷ややかな視線に怯え、テーブルを見つめた。 家にいる時はあんなにも早く過ぎていく時間が、定期的に開かれる家族の集まりではどうしてこんなにものろのろと過ぎていくのだろうか。燃える心を代弁するかのような喉の渇きに、佳純は水が入ったグラスを掴もうとしたが手が止まった。続けざまに飲んだせいで、水はすっかりなくなっていた。 「お前も一杯飲めよ」 佳純は急に聞こえてきた重低音の声に軽く体を震わせ、振り向いた。豪華な光を放つシャンデリアの下で、長く鋭い黒褐色の目が彼女を見つめていた。彼の細く大きな手にはワインボトルがあった。無意識に目で追ってしまうくらい素敵な姿だが、佳純はそんな彼が気に入らない様子で、仕方ないという表情でグラスを差し出した。 「隼人、私のグラスも空いてるけど?」 二人の姿をじっと見つめていた恵子は、嫉妬心に満ちた眼差しで佳純を睨み、負けじと隼人にグラスを突き出した。彼は無言で恵子にもワインを注いだ。その間、佳純は隼人に気付かれないように持っていたグラスを置いた。 その姿を追っていた隼人はせっかく注いであげたワインを口にすることもなく、そのままグラスをテーブルの上に置いた佳純の姿を見ては、眉間にしわを寄せた。 「今日デパートに行く約束、忘れてないわよね?」 恵子が期待に溢れた眼差しで聞くと、隼人は佳純に留めていた視線を外し、返事をした。 「悪いけど今日は…」 「また忙しいなんて、つまらない言い訳するつもり?」 「……」 「やっぱりそうなのね。それじゃあ今日は、私の好きなようにするから」 普段冷たく偉ぶった表情を維持していた恵子の口元からは笑顔が滲み出た。これ以上、返す言葉がないと思った隼人は小さく頷いた。冷ややかな雰囲気の原因であった二人から明るい光が漂った瞬間、凍り付いていた空気が少しばかり解けたようだった。その瞬間を逃さまいと、ステーキを食べていた一樹が彼らを順番に見てはゆっくりと口を開いた。 「デパートに行くなら佳純も連れて行くがいい」 急な一樹の提案に恵子の瞳はかすかに揺れた。 「この子も連れてけですって?」 「そうだ。佳純も立派なお前の娘なんだ。デパートくらい一緒に行ってもいいだろう」 一樹の言葉に恵子の表情は一瞬で冷え切ったものになった。すぐにでも何かが起きてしまいそうな冷たい空気が彼らの周りを囲い、その間に取り残された佳純はどうすることもできずにいた。  誰ひとり望んでいない状況の中、佳純は今すぐにでも父親にデパートなんか行きたくないと、叫びたかった。しかし、爆破寸前の時限爆弾のような荒々しい眼差しで睨みつけている恵子の目に怖気づき、口を紡ぐことしかできなかった。 「連れてくよ」  隼人がその瞬間を待ってたかのように口にし、驚いた恵子の表情はゆがんだ。 「隼人…?」 「どうせ俺も一緒に行くんだし、佳純も一緒に行ったっていいだろ?」 隼人の言葉に一樹は満足げに小さく頷いた。 男二人の反応にこれ以上意地を張る状況ではないと直感した恵子は、怒りに震える唇を強く噛んだまま佳純を睨みつけた。 頭の先からつま先まで、何もかも気に入らない。 自身を恐れているあの眼差しでさえ、誰かを思い出させ、じっと見つめるだけでも怒りがこみ上げてきた。同じ空間にいることですら虫唾が走るあの娘のせいで、せっかく隼人と二人きりの時間を過ごせるチャンスがなくなってしまった恵子の怒りは頂点を達した。しかし、久しぶりに過ごす隼人との時間を台無しにできないと思った彼女は、怒りを抑え冷静に答えた。 「わかったわ」 恵子の口から予想外な答えが出た瞬間、佳純の顔に暗い影が差した。 まさかと思った。いくら隼人が言ったことだとしても、恵子なら当然この状況に猛反対するはずだ。しかし、今回もまた佳純の思いとは裏腹に物事は進んでいった。 「わ…私は…」 佳純はこの世で一番気まずい二人と一緒に過ごすのなら、思い切って断る方がましだと思い、口を開こうとしたが、それは何者かによって邪魔された。テーブルの下で感じる隼人の手。大人しくしなければ痛い目に遭うぞと言わんばかりの無言の圧力に、佳純は喉まで出ていた言葉を飲み込んだ。 「それじゃ、俺はスケジュールの調整してくるから、先出てるよ」 隼人は冷たい視線で佳純をちらっと見てから、身なりを整えた。予期せぬ状況に佳純は焦った顔で両手をぎゅっと握った。 「うむ」 一樹の返事を最後に、席を立った隼人は警告するように佳純の肩をぽんと叩き、扉の方へ足を運んだ。 佳純は今すぐにでもその場を飛び出したかったが、何とか気持ちを落ち着かせ、泣き出しそうな感情を押し込んだ。 この全ての状況を避けられるのならどんなにいいだろう…。しかし、現実は佳純の味方にはなってくれなかった。回し車のように、止まることのない過酷な状況をいつまで耐えなければならないのか。考えるだけで気が遠くなった。 * * * 「いらっしゃいませ、お客様」 デパートの店員特有の媚びた声で恵子と隼人、そして佳純を笑顔で迎え入れた。VIP顧客ということもあり、店員の態度からは慎重さが滲み出ていた。 恵子は当然のように店員にハンドバッグを渡し、慣れた足取りで店内の奥へと進んだ。明るい照明に照らされた広い空間には、数体のマネキンが並んでいた。その正面には、燃えるような赤色が印象的なソファーとテーブルがあった。 「こちらは新作が載っているパンフレットと雑誌でございます。お先にお客様がお好きなデザイナーの品からお見せいたしましょうか?」 いつものようにソファーに腰かけた恵子は店員の問いに頷き、隼人と佳純に視線を移した。気に入らない目つきで佳純を横目で睨みつける時とは違って、隼人には笑顔をこぼしていた。 「隼人、何してるの?」 恵子が横に座りなさいと言わんばかりに、ソファーを軽く叩いた。隼人は少しためらったが、しょうがないなと彼女の隣に座った。独り取り残された佳純は、おどおどと二人の様子を伺った。 彼らに佳純の居場所はないも同然だった。このまま呆然と立ち尽くすのなら、一人で時間を過ごす方がましだと感じ、彼女は静かに口を開いた。 「あの…私は他を見てきます」 恵子は彼女をちゃんと見ることもなく答えた。 「そう」 佳純は彼女の無関心な返事にも許してもらえたという事実にほっとした。隼人の強い視線が感じられたが、佳純は知らないふりをした。それから佳純は彼らの場所を離れ、店内の隅の方へ足早に移動した。 数時間ぶりに得た自由だった。佳純は片隅に置かれていたソファーに深く腰掛け、額に手を当てて静かに目を閉じた。 ありとあらゆる力を全て使い切ったかのようにぐったりした。 佳純は息苦しい感情を吐き出すかのように深く息を吐き、ぼーっと遠くを見つめた。すると、目の前に立っている派手な服で着飾られたマネキンが目に入った。彼女は冷笑した。自分の姿を見ているようだったからだ。 他人によってしか動けない人形と変わらない人生。この上なく哀れだ。 「やっと笑った」 佳純は耳の奥に響く悪魔のささやきの方へゆっくりと顔を動かした。彼女の視線の先には隼人がいた。背筋が凍り付くぐらいの冷たい視線。佳純の体は震えていた。 「お兄ちゃん…」 「ほら、立てよ」 急に立てと言われ、理解ができなかった佳純は言葉を失ったまま座っていた。そんな彼女に隼人は、手に持っていた何着の服を佳純の横に放り投げた。 「着いて来いよ」 ネックラインにユニークなデザインが施されたブラウスと、シックなスカート。過去にデパートに連れて行かれ、一方的に自分の好きなスタイルの服を強制的に着させられた記憶が彼女の頭をよぎった。 相変わらず嫌な思い出だが、わざわざ恵子がいる状況で、あの時と同じことを繰り返そうとする隼人が気に食わなかった。 「イヤ」 佳純は思わず口走ってしまった自分に驚き、目を丸くした。 私ったら、何言ってるの? 普段から隼人が毛嫌いしている言葉の一つが「嫌だ」だということを彼女は十分知っていた。しかし、疲れといら立ちのせいか、彼女の口は本能的に我慢していた言葉を放ってしまった。 隼人の顔はたちまち凍り付いていった。佳純はすぐさま視線を下に移した。 「わ…分かった、着る」 冷たい隼人の眼差しに縮こまってしまった佳純は無造作に置かれた服を手に取り、すぐさまその場を立った。 普段から感情的に行動する隼人ことを考えれば、今のような状況はかなり危険なものだった。少しでももたもたすれば、何が起こるか分からないという不吉な予感に、彼女はそそくさと試着室へ向かった。 試着室のドアを開けたその時だった。急に誰かに手首を捕まれ、驚いた佳純は後ろを振り向くと、そこには険しい表情の隼人がいた。彼の目は静かにしないと容赦しないと言ってるようだった。 ガチャッ。後退りをして抵抗する佳純を押さえつけ、試着室の中に閉じ込めた。困惑する佳純をじっと見つめ、ぶっきらぼうにこう言った。 「着ろ」 「お、お兄ちゃん?」 小刻みに体を震わせ驚く佳純の姿には見向きもせず、隼人は一気に彼女を更衣室の壁に追い詰めた。ぞっとするほど冷ややかな眼差しに、佳純は怖気づいた。壁に体が触れたのを感じた佳純は、いつの間にか近づいた彼との距離にびくりとし、自分の手を握った。 誰ひとり想像できない姿。 「まさか、着せてもらいたいと思ってるのか?」 面白くないと思ったら決まって相手を茶化す彼に、佳純はとっさに首を振った。今すぐ彼の言葉を聞かなければ、もっと最悪な状況になってしまうかもしれないと思った。 結局、佳純は隼人の顔色を伺い、ブラウスのボタンを外した。キャミソールを着てはいたものの、露わになった華奢な体がドアにある鏡に映った瞬間、羞恥心が押し寄せるかのように、彼女の目は涙で滲み始めていた。 彼女の哀れな姿に隼人は顔色一つ変えず、佳純にゆっくり近づいた。彼女の唇を片方の手で覆い、もう片方の手で壁をついた。反射的に手に持っていた服で上半身を隠した佳純は、甘いムスクの香りと共に近寄った彼の息づかいに、思いっきり肩をすくめた。 「言ったよな、目障りなことはするなって」 隼人の言葉に佳純の目に溜まっていた涙が頬を伝った。 「逃げれば何もかも解決するとでも思ってんのか?勘違いすんな。お前が下手な真似をすればするほど、状況は悪くなるだけだ」 熱く感じる彼の呼吸が首筋に触れる瞬間、佳純は手にあった服を力いっぱい握りしめた。 「こんな姿を誰かに見られたくないなら…俺の言うことを聞くんだな」 隼人はまるで警告でもするかのように鼻で笑いながらそう言い、彼女は燃え上がる怒りを抑えつけるように下唇を強く嚙みしめた。 「早く着替えて来いよ」 佳純は返事をしなかった。ただ抜け殻のような瞳で小さく頷き、更衣室を出ていく隼人の後ろ姿をじっと見つめるだけだった。 抵抗することだって、どんな文句だって言わなかった。なぜなら、彼の気に障る真似をした代償には、恐ろしい何かが待っていると誰よりもわかっていたからだ。 佳純は隼人が試着室から出てようやく緊張がほぐれたのか、その場にへたり込んでしまった。彼女は溢れる涙を手でぬぐい、思わず唇からこぼれそうな嗚咽を出さないように奥歯を強く嚙みしめた。 地獄のようなこの状況を、今まで耐え抜いてきたのだ。ここで逃げ出せられない。佳純はゆっくりと立ち上がった。鏡に映った自分の姿は情けなく惨めだった。 しかし、佳純はすぐに現実を受け入れ、何事もなかったかのように隼人が渡したブラウスとスカートに着替えた。そして、鏡に映った自分を睨みつけ、自分への戒めとして低い声でつぶやいた。どんなにもがいても、絶対に抜け出せない沼。 「耐えられないなら死ぬしかない」 自身にしか分からない決意が込められた佳純の目は、鋭く光った。
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