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前編
除夜の鐘にも似た重い音が、どこか遠くから響いてくる。
ごおぉぉぉん……
草木も眠る丑三つ時だ。隅田川の土手に延びる砂利の小道に、人影が見あたらないのも道理かもしれない。しかし、静謐なこの時刻においても、秋を生きる小さな虫たちは賑やかだ。
鈴のような声を引きも切らずに震わせている。
それにしても……
改めてあたりを見まわしてみると、やはり今夜はどうにも妙だった。ちょくちょくこの界隈を散歩しているが、慣れた夜道がいつになく明るいのだ。どこかもしこもが青白く冴えて、近景が濡れて見えるほどである。
いったいこれはどういうことなのか。
思惟しつつ首を傾げたとき、ふと頭上に違和感を覚えた。夜空を見あげて、ようやく明るさの訳に気がついた。
ああ、なるほど……。
黒く澄んだ夜空に白い満月がふたつ浮かんでいる。
どおりで明るいわけである。
隅田川界隈には月見の名所という一面もあるが、それでも月がふたつというのは稀有なことだ。少なくともここ数年の月は常にひとつだった。
せっかくの機会だ。
月見に興じてみようか。
ぶらぶら歩いているだけの散歩である。なにか目的があるわけではなし、夜空を見あげて足を止めた。
そのとき、背後でカランと音が響き、ついで男の低い声がした。
「片目を隠し忘っせとるのや」
声につられて後ろを振り返ると、見知らぬ男と女が立っていた。今しがたまで側に誰の姿もなかったというのに。
男は灰茶色の着物を着ており、眼鏡がよく似合う理知的な顔だった。カランと聞こえたさきほどの音は、この男の下駄が鳴ったものに違いない。女のほうは紺矢絣の着物で、口もとに微笑みをたたえている。緑なす豊かな黒髪が美しく、白い肌が夜道に映えていた。
男が片目を手で覆い隠して言った。
「普段はこんな具合に片目を隠しとるが、今夜は忘っせとる」
播州生まれの知人が〝忘れる〟を〝忘っせる〟と言う。男はその知人と同郷と思われるが、いったいなにを言っているのか。
怪訝に思いつつ男に尋ねた。
――なんの話です?
「ほやから、あれや」
男はふたつの月を指差した。
「頭の天辺が雲まで届く巨大な魍魎がおってな、ダイダラボッチっちゅうやつなんやが、月はそいつの目えなんや。普段、ダイダラボッチはそこら辺に座って片目を隠しとるが、なんでか今夜は隠し忘っせとる。ほんで月がふたつ出よる」
女は播州訛りのその話に頷いているものの、口を挟んでくるようすはなかった。微笑むばかりである。
「にかわには信じられんか? けど、僕の生業は民俗学者でな、日本津々浦々に出ばって、あれそれと見聞してきた。ほうやって得た知識や情報から、月はダイダラボッチの目えやと断言でける」
男は自分の話に相当自信を持っているようだ。しかし、
――その話が本当のことだったとして、どうして片目を隠しているんです?
「そんなもんは知らんがな。人間同士であっても相手の考えはわからんやろ? ましてや相手が魍魎やったら、さっぱりわからんわ」
どこか投げやりな口調で応じた男は、急になにかに気づいた顔をした。
河原をじっと見おろして呟く。
「あれは……」
男の視線を追って河原を見れば、小体な屋台がひとつ、赤提灯をひっそり燈していた。隅田川の河原には頻にきているが、はじめて目にする屋台であった。
「これも目えがふたつある影響か……屋台が出よる」
男は手の平で顎を撫ぜつつ呟いたあと、こちらに向き直って尋ねてきた。
「あの屋台が出るのは珍しい。せっかくやし一緒に呑まんか?」
女もこちらを見て微笑んでいるが、やはり口を開くようすはなかった。
再びどこか遠くで鐘の音が重く響いた。
ごおぉぉぉん……
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