前編

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 河原は一帯が草むしていた。  屋台には木製の丸椅子が三つ並び、なぜか店主の姿はなかった。客が引けたのをしおに、席を外しているのだろうか。  男は素性が知れない人物だ。警戒から呑みの誘いを辞そうかとも考えたが、酒は好きなほうであるし、珍しい屋台というのにも興味をそそられた。 「これもなにかの(えん)ちゅうことで」  最後は男のその言葉に流された。  流されたからには酒を(たの)しむつもりである。  男は三つの椅子の真ん中に、女はその左隣に腰をおろした。空いている右隣の席に腰かけると、隅田川の流れゆく音がそっと耳に染みた。  屋台は外観どおりに小ぢんまりとしていたが、そのつくりにはこだわりが感じられた。木目の美しい目の前の天板は、(けやき)とおぼしき立派な一枚板だ。()しているこの丸椅子も、素朴な意匠であるものの、尻のおさまりがやたらといい。上等品と思われる代物(しろもの)である。  店主は未だ不在のままだった。ところが、半透明の一升瓶と三つの湯呑みが、いつのまにか目の前に調(ととの)えてあった。今の今まで天板にはなにも乗っていなかったというのに。 「まずは一杯」  男が一升瓶を手にして、こちらに差し向ける。そうしながら尋ねてもきた。 「君は(まよ)()っちゅうのを知っとるか?」  ――ええ、知ってます。  訪れた者に富をもたらすという幻の家だ。主に関東と東北地方で伝承されてきた。 「この屋台に店主がおらんのは、迷い家のひとつやからや」  迷い家であるこの屋台には意思があるそうだ。屋台自体が客人の世話をするため、店主がいないのだという。 「とはいえ、()っこい迷い家やさかい、残念ながら富はもたらしてくれんが。ただ――」  男はさらにぐっと一升瓶をこちらに寄せた。 「代わりに酒をふるまってくれるんや。だからほれ、まずは一杯」  ――ありがとうございます。では、遠慮なく。  湯呑みを手にして、男の酌を受けた。  そのあと、こちらも一升瓶を手にして、男に酌を返した。 「おおきに」  男の生業(なりわい)は民俗学者らしいが、商人のような口ぶりである。  男は片手に湯呑みを持ったまま、もう一方の手で一升瓶を女にも差し向けた。 「さ、あんたも」  女は微笑んで酌を受けたが、相変わらず口は効かなかった。  もしかして発語に不自由があるのだろうか。こちらのその考えを察したかのように男が言った。 「彼女は無口やが()いのええ奴や」  発語に不自由があれば、無口とは言わないだろう。どうやら、口数が少ないだけで、話はできるようだ。 「それより()よ呑みい」  男に(うなが)されて、つがれた酒に口をつけた。  きりっとした舌触りがあり、()えた香りが鼻に抜けていく。  ――辛口の酒ですね。とても(うま)いです。 「ほうか、そりゃよかった」  ――こんなに美酒は何年も口にしていません。 「ほうか、ほうか」  男は自分が称賛されたかのように、満足そうな顔をしながら頷いた。  そのとき、近くでガザガサと音がした。屋台の周囲に茂る雑草を、何者かが踏み鳴らすような音だ。  河原に誰かがいるのだろうか。  しかし、あたりを見まわしても人の姿は認められず、すぐに音がやんだのもあって、気のせいだろうと深くは考えなかった。
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