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Ⅰ
エマはとても気分が良かった。
空には大きな満月が【ぽっかり】といった様子で浮かんでおり、パリの町を淡く、そして黄色に包み込んでいる。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
「こちらこそ」
路地裏にひっそりと佇むバーを出て数分。アルコールで火照った身体に、夜風がちょうど心地良く、エマはゆっくりと歩を進めていた。
「あの日もたしか、今日と同じように満月が出ていたわね」
立ち止まり、夜空を見上げる。
隣を歩いていた青年、ガブリエルも立ち止まり【うんうん】と二度首を上下させ、
「ふふふ、そうだったね」
と、エマの鼓膜を優しく揺らした。
ずっとこの時間が続けば良いのに。と、エマは思う。
「アナタと出会えて本当に良かった」
「僕もさ」
遠くのほうから犬の鳴き声が聞こえる。
出会いは昨年。ナンパだった。デブやブスだの言われ続けた人生を送ってきた彼女にとって、それは人生で初めて起こった、俄かには信じることができない出来事だった。
家族や友人には話していない。
話したところでどうせ、詐欺だの騙されているだのと言われるに決まっている。
『アナタがナンパなんてされるわけないじゃない。そんなに丸々と太っているのに』
そう言われてからかわれるのが関の山だろう。
エマ自身、最初はそう思っていた。
しかし。
「アナタは毎日連絡をくれた。本当に感謝してるわ。だって疑いで凝り固まっていた私の気持ちを優しくほぐしてくれたんだもの」
出会ってからの1年間、ガブリエルは休むことなくエマを気遣い、毎日メールを送り続け、電話をかけ続けていた。
いわく『キミは僕が出会った中で一番素敵な女性だ』や『キミのようにふくよかな女性が僕はタイプなんだ。食べてしまいたいほどに魅力的さ』など。
ガブリエルは、エマの容姿をことあるごとに褒めたたえた。
「それもしっかり心を込めて。メールは読むのに毎回5分以上かかったし、電話だって1時間以上してくれた」
「迷惑だったかい?」
「いいえ、むしろ逆よ。そうやって向き合ってくれたからこそ、今のままで良いんだって自信も持てたし、私も自分の気持ちに素直になれた」
「なるほど。そう言ってもらえて僕も嬉しいよ」
「アナタはとても積極的な男性なのね。最初に声をかけてくれたこともそうだし、電話でも……その、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまうようなことをたくさん言ってくれた」
「ハハハ、まあ男は狼、だからね。恥ずかしくなること? たとえばそれは『僕の●●●がとても大きい。キミにも見てもらいたいよ』って言ったことかな?」
「……もう!」
エマはガブリエルのほうへ身体を向けた。周囲には誰もいない。
大きな満月を背にしたエッフェル塔が、ガブリエル越しに見える。
見つめあう二人。
ガブリエルのブルーの瞳が、エマを真っ直ぐ見つめている。
「私……、まだ帰りたくない」
彼女は言った。
心臓は喉から飛び出しそうなほど高鳴り、後ろに組んだ手は【ぶるぶる】と震え、呼吸は【ハアハア】と荒っぽい。
それでもエマは言った。
「このまま朝まで一緒に過ごしたい」
と。
そして。
「嬉しいなあ。僕もだよ、エマ」
微笑みをたたえ、ガブリエルがそう答えた。
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