◆1.霧浜

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◆1.霧浜

 あの恐ろしい出来事があった当時の者で、生きている者は、(わたし)めくらいしかおりますまい。ご要望とあれば、詳しくお話し申し上げましょう。  数十年前、鳥居左門(とりいさもん)という浪人者が、旅をしており、この村のそば、霧浜という所に通りかかりました。左門は、時刻が遅くなってしまい、次の宿場まで間に合いそうになく、民家に宿を借りることも、考え始めておりました。  そこで、左門は、赤ん坊の泣き声を聞いたのでございます。  もうすでに、太陽が、遠くで海に沈もうとしていました。そこで、左門は、ふと、女が砂浜に立っているのを見つけたのでございます。  霧浜は、左門が歩いていた道に面している海と砂浜であり――その砂浜に一人の女が、海の方へ向かって立ってて後ろ姿が見えておりました。  女は子どもを抱いている様子で、赤ん坊の泣き声は、そこから聞こえるのでした。  時刻も時刻なので、左門は女の事が大層、気にかかりました。 (つま)は どこかへ行ったのか (とと)を食う子は 大きくなりて 人を食う子は、歩いて泳ぎ 牛に乗る子は 永遠(とわ)永遠につく と、女は奇妙な子守歌を歌い、海の方へ歩いていくのでございます。 これは、身投げかと思い、左門は走って呼び止め、女の肩をつかみました。 こちらを向いた女が抱いていたものを見て、左門はぎょっといたしました。  それは、まったくの異形(いぎょう)のものでした。体は黒く、頭からは角が生えて、蟹のような足がたくさん生えています。異形のものは、一声叫ぶと、左門に飛びつこうとしました。  左門はとっさに脇差を抜いて、異形のものを刺し貫くと、異形のものは悲鳴を上げて、浜辺に落ちて息絶えました。しかし、奇妙なことに、異形のものを抱いていた女も、口から血を吐いて死んでしまったのでございます。  左門が事の異様さに、驚いていると、小さな鯨でもいるように海面が盛り上がるのに気がつきました。そして、海から、さきほど殺した異形のものの百倍もの大きさの同じ形をした化け物が、現れました。  頭から出た二本の大きな角、黒い頑丈そうな体、蟹のような四対の足、光る両目と大きな口と牙。その怪物が、左門に襲い掛かったのです。  左門は、これは敵わぬとみて、脇差を捨てて、逃げ走りました。 が、異形のものの足は、さほど速くないのにもかかわらず、左門に追いすがってきて、左門は不思議に思いました。左門は、速駆けには自信があったからです。  左門は、ふと気づきました。化け物の足が速いのではなく、自分の足がもつれて速く走れていないのだと。  左門は腰の大刀も捨てて、必死に逃げ、霧浜から離れた岡に辿り着くと、異形のものは、もう追ってきておりませんでした。  左門は岡に座り込みましたが、泥のように体が重くて動けません。ふとみると、飛びついてきた小さな化け物に引っかかれた爪痕が、左腕にあり、腫れておりました。さては、毒爪(どくづめ)かと思いましたが、左門は気を失ってしまいました。
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