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第一章『ツツジの花みたいな日常』
子どものいないアナタに分かるの――?
永い人生を歩んでいくのが前提としても、まさか自分が面と向かって言われるとは夢にも思わなかった。
他所へ就職した友人も、そんな無神経な言葉を浴びせられた事は一度や二度ではないらしい。
今なら尚のこと、友人の嘆きと怒りを我が事として理解できる。
何の事情も知らない相手には、まったく悪気がないだろう。
それにしたって、想像力というものが欠落しているのではないか。
子どもを産んで育てたことのない人間に"保育士"は務まらない――。
不合理な極論を抱く保護者ばかりではない事を頭では理解しても、心の波紋は一向に鎮まらない。
私だって叶うのならば――。
幽寂な菫色が遠ざかっていく夜空の下を、私は一人で駆けていく。
背中と肩には、"持ち帰り仕事"を大事に収めた鞄の重みを感じながら。
保育会議を終えて帰路へ着いた頃には、既に時刻は夜の七時を回っていた。
保育所勤めには当たり前のような話だが、慣れそうで慣れない勤労習慣に、心身の疲労は蓄積されていくばかり。
しかも梅雨は終わりを迎えたものの、六月の初夏特有の湿っぽい暑さに額から汗露は次々と浮かぶ。
「遅いよ」
最寄り駅から近いマンション『アザレア』まで、徒歩で残り数分となった頃。
そう遠くない場所から響いたのは、淡々と澄んだ声色。
条件反射で気付いた私は、空を仰ぐ勢いで視線を上げた。
すると、街灯の薄明かりと仄闇の狭間に溶け込む朧な人影を見た。
「来てくれたの?」
街灯に仄照らされた塀壁へ背を預けた姿勢で佇むのは、或る"少年"の姿。
濡烏色の柔らかな髪は、瞼上と耳元で綺麗に切り揃えられている。
月のように白い顔は、真っ直ぐな鼻筋で端麗な線を描く。
ぼんやりとした黒い瞳に、同年代よりもやや小柄で華奢な体躯は、少年の"あどけなさ"を強調している。
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