【二章】番いのαから逃げた話

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(海だ…!) テレビの画面じゃなくて、晴れ渡る空と同じくどこまでも広がる海、それと潮のにおいを纏う風がある。 生まれて初めて見た景色に、まだ釣りは始まってもないのにワクワクしてきた。 「天気も良好、風もいい。今日はいいのが釣れるぞって釣り師匠からのお墨付きだ」 「…?(師匠とは?)休日なのに漁港って案外人は少ないんですね」 「そりゃ釣りスポットはいくらでもあるし都会の混雑とは違うからな。これでも車は停まってる方だぞ」 こっちのが静かでいいだろ?と、確かに間違いない。 そして車から荷物を降ろして準備を終えた芦屋さんの姿は、…すっかり海にも地元にも馴染んで様になっている。 「あ、芦屋さん。今日は道具の準備とか運転までありがとうございました。弁当は作ってきたけどタッパーが足りなくて…良かったで」 今朝の支度を終えてハッと気づいた。 しまった、いつも家で食べてたけど今日は外だということを失念していた。男が用意した弁当なんて嫌かもと不安だったけど「朝早いのに作ってきてくれのか、めっちゃ嬉しい!!」だ。芦屋さんの笑顔に一蹴されて安心した。(タッパーとラップが足りなかったのは本当)。 「あ、まさかそんなこと気にして車ん中で暗い面してたのか?」 「っ、…だって今日は芦屋さんも休みなんだろ?ライフジャケットまで用意してくれたのに、俺ばっか浮かれてて」 「…… あ?」 なんでこの人口に手を当ててエッ!?みたいな驚いたリアクションしてんだ? 相変わらず過剰な反応する人だ。 「そんなに俺が気を遣うのヘンですか?」 「驚いたのはそっちじゃねぇけど……ま、細いことは心配するな。それに俺は今無職だ」 ーーーーーーーーは? ちゃぽんと海に落とした釣り餌と、近くだと少し濁って見える深い緑色の海面。 「なぁ、俊哉とデートはどこ行った?」 デート?たまに先生がスーパーについてきてくれて荷物を手伝ってくれたっけ。あとは近所のレストランや喫茶店とかで食事もしたけど、先生の奢りだから時々遠慮して… 「いや待て、デートだぞ?よくある映画館や動物園とか遠出や旅行はどうした?」 「俺には十分でしたよ。出掛ければ金もかかるし、俺が嫌がるので新野さんも無理強いはしませんでした」 元々俺はインドアだ。ランニングは健康と気分転換に始めただけで自分がΩと分かってからは遠足も修学旅行も、集団で何かをする行事は欠席してきた。 ―――俺は、いつ発情するかも分からないし… そうでなくなってからも先生の隣に俺みたいな地味なヤツがいるのに気が引けて…。 「それより芦屋さんの…、仕事を辞めたってのは」 「あぁ~さっきのか。ダチの番いを攫って隠したのに、いつまで経っても事情を知らされてなかったからな」 じっーと海よりも遠い先を見つめるような横顔に、なにを言えばいいのか悩んでしまった。 「それは俺のせい、」 「ストップ、重い話は後な。それに八木君の竿、引いてるぞ?」 「え!?あ、嘘、引いてッ、どうすれば…!?」 どうしたらいいの芦屋さん!!と、情けない声で助けを求める俺と、愉快そうに笑いながらも釣り上げるのを手伝ってくれた芦屋さん 俺が生まれて初めて釣った魚はアジだった。 「おー、アジ以外にも色んなのが釣れたな」 朝が早かったから昼手前の弁当タイム。芦屋さんはうまいうまいとおにぎりを頬張っている。 大量というほどではなかったけど二人で分けるには丁度の数が釣れた。 なにより人生で初めての釣りは、何度か逃げられてしまった悔しさもあるけど釣れた瞬間の嬉しさは半端なく、楽しくて夢中になっていた。 「楽しかったか?」 「はい、いい思い出になりました」 「そりゃよかった」 無言になれば海と風の音くらいしか聞こえない。 そのBGMを消したのは、芦屋さんの方からだった。 「タケは……なんつーか価値観が極端な奴でよ、中学の頃から俺と俊哉以外の人間は得意じゃねぇんだ。覚えてるか?初対面の時に真っ先に八木君に話しかけられなかったのも人見知りが原因だ」 「え、佐伯さんが人見知り…?」 そんな流れには見えなかった、俺も緊張してたから余計に。 「どうしてタケが協力してくれたと思う?」 「……それは、手切れ金?的な」 薄々感じてはいた。 俺相手に払い過ぎだと思うけど、後々の事を考えると佐伯さんにとっては妥当な金額だったのかもしれない。 言い方はかなり悪いけど、俺が遠くに消えてくれたことで二人は結婚できたんだから…。 「まぁ普通そう思うよな。止められてないから話すけど、タケは……大学の頃に俊哉を襲おうとしたんだ」
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