美亜

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美亜

 その人と初めて会ったのは秋も深まり始めたとある朝。日課の散歩をしている時だった。  暴漢に襲われた後も私の日常はさして変わらなかった。変わったことといえば、夕方にしていた散歩の時間を朝の八時前後に変更したことと、大好きだったスカートを履かなくなったことぐらい。  そう。夫から見ればそれぐらいの些細な変化に違いない。最悪の事態はなんとか回避し、以前と変わらない日常を取り戻せたときっと彼は思っている。  実際は最悪(それ)よりずっと、酷いことになってしまったのだけれど。  全部私が不用心だったせいだ。私のせいだ。これ以上、夫に心配をかけるわけにはいかない。  玄関を出て家の前の道を左手へと歩く。駅前通りとは逆の、より人気(ひとけ)がない方面だ。  しばらくすると反対側から見知らぬ中年男性がやって来た。天然と思われる不恰好なパーマヘアにだらしなく弛んだお腹周り、散歩用のぴっちりした黒ジャージを着た姿は、シルエットだけで言えばあの暴漢とよく似ている。  脚がひとりでに震え出した。だけどこんな何処にでも居るおじさんを怖がっていたら日常生活にも支障が出るだろうと、なんとか歩みは止めず進み続ける。  軽く会釈をしてすれ違おうとした時、男の方から「おはようございます」と声をかけられた。ビクッと肩を震わせた私には気付かぬ様子で、男は喜色満面に言葉を続ける。 「可愛いワンちゃんですね」    ……何を言っているのだろうと思った。私は犬など連れていない。何かの冗談だろうと一旦判断し、曖昧に笑ってやり過ごそうとする。  が、次の瞬間ギョッとした。男は私の下半身へと顔を向けながら、落ち窪んだ小さな目をニタァッと三日月型に変えたのだ。見られている場所から冷たいものが、背筋へと一気に駆け上がった。  ふと、あの事件の夜の警察の言葉を思い出す。彼ら曰く、私を襲った暴漢は生粋の変態だったそうだ。女性の脚に異常な執着を示す、前科二犯の性犯罪常習者。  暴漢の手が太腿を這い回る生々しい感触までもがリアルに蘇り、身を守るように膝と膝を擦り合わせる。  男はもう一度、ゆっくりと繰り返した。 「可愛いワンちゃんだなぁ。本当に」  その時気付いた。男の視線は明らかに私の膝下、それどころか、地面に近いところまで下げられていた。脚を見られているわけではない?  しかもよく見ると、眼球がチラチラと左右に振れている。何かを目で追っているようだ。何を? 今、私の足元に動いているようなものは何もない。せいぜい風に舞う枯葉ぐらいだ。  だけど男は確実に何かの動きを見ている。  可愛いワンちゃん、って何……? 「失礼」  そう言って男は去って行った。呼び止めようかとも考えたが、恐怖の余韻が残るせいかそれはできなかった。  その日を境に、私は散歩中例の男とよく出会うようになった。 「ふふっ。今日も可愛いですね、ワンちゃん」  基本的には礼儀正しく、人好きのする印象の男だった。ただ出会うたびに鳥肌の立つようなことを言われ、足元にねっとりとした熱視線を送られるのだけはどうにも堪え難かった。無論、犬などどこにも居ない。  日に日に話しかけられることが憂鬱になり、また散歩の時間を変えようかとも考えたが、日中はパートに出ていることが多く、そうすると結局夕方以降の時間になってしまう。それだったら、変な男に会う可能性があってもまだ明るい朝の方がマシだ。  それに最初から、もしかしたらという気持ちもあったのだ。この男の言う「ワンちゃん」とは、もしかして。 「あの!」  ある日、私は勇気を出して自分から男に話しかけた。男はいつも通り微笑しながら私の足元を視線で舐め回していたが、呼びかけに応えて「なんでしょう」と顔を上げた。 「ワンちゃんって、何のことですか?」 「え? もちろん、あなたのワンちゃんですよ。今も連れてるじゃないですか。茶色い毛の」  男の視線が再び下に移る。脚の周りをぴょんぴょんと跳ね回る視線は相変わらず不快なはずだが、今は気にならなかった。男の言葉で予感が確信へと変わったのだ。  足元の地面に向け、私は叫んだ。 「ソラ、あなたなの!? そこに居るのね!」
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