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 最近、妻の頭がおかしい。  結婚して早五年。今年三十二歳とは思えない童顔に、すらっとした長い脚。物腰柔らかでありながら一本筋の通った強さも兼ね備え、何より、聡明だ。  彼女は俺の誇りであり、たった一人の大切な家族だった。  そんな妻が、おかしくなった。 「それじゃ行ってくるけど、美亜、戸締まりだけは気を付けてな」 「分かってる。今日も遅くなるの?」 「少しだけ残業あるかも。でも夕飯までには帰るようにするから」 「そっか、無理はしないでね。行ってらっしゃい」 「行ってきます」  玄関の扉を閉めた後そのまますぐに庭へと回り込む。居間と外界を隔つ窓の端からそっと中を覗くと、妻はすでにそいつと戯れ始めていた。 「待たせてごめんねぇ。なんか今日は彼、いつもより家出るのが遅くって……」  何も無いフローリングの床に向けて猫撫で声を出す妻の姿に肌が粟立つ。  遅くて悪かったな。本当は今日、有給取ってて会社は休みなんだ。お前の家での様子を見るためにな。 「ほら、こっちおいで、ソラ。いーっぱいなでなでしてあげる」  妻は床に向けてにっこりと笑いかける。繰り返すが、何も無い床だ。生物の類はもちろん、小さな埃の一つさえ落ちていない。彼女自身が毎日欠かさず掃除している綺麗な床。  その床に向けて彼女はソラ、と話しかけたのだ。  結論から言えばソラというのは、妻が脳内で創り出した架空の生命体である。  たまに「お手」だの「待て」だの言っているところを見るに犬なのではないかと予想しているが、俺には見えないから分からないし、分かりたくもない。  妻はソファに座り、おへその前あたりの空気を両手で愛おしそうに掻き回し始めた。「良い子でちゅねえ」という声が窓越しでもハッキリと届き、鼓膜にこびりつく。  今、(ソラ)は彼女の膝の上に居るのだろうか。  傍目には一人にしか見えないのに、頬の肉をだらしなく緩め大股開きで手をシャカシャカ動かす今の妻は、虫唾が走るほど下品で、不気味で、気持ち悪い。  俺はふぅっと息の塊を吐き出し、痙攣しかかった胃を辛うじて宥めた。  ところで俺の聡明な妻はなぜ急におかしくなってしまったのか。キッカケはおよそ検討が付いている。  三ヶ月前、妻が暴漢に襲われた事件だ。  その日俺は珍しく仕事を定時で上がり帰宅した。鍵を使わずともガチャリと音を立てたドアに、全く不用心だななんて呑気に思っていたところ、家の中からドン、ドンという異様な音が聞こえた。続けて「助けて!」という切羽詰まった妻の声。 「美亜!」  叫んだ俺は土足のまま家に上がり、取るものも取り敢えず居間へと走って……そこから先は正直、あまり覚えていない。  ただ涙でぐちゃぐちゃになった半裸の妻の姿を見、我も忘れて暴漢に殴りかかったことだけは朧げながら記憶している。  その後、事が落ち着いたタイミングで俺は「間に合ったのか」とおそるおそる尋ねた。妻は一瞬言葉に迷うような素振りののち、「身体を少し触られただけ」と答えた。  確かに俺の朧げな記憶の中の妻も、お気に入りのピンクのレーススカートこそ無惨に破かれていたものの、下着はちゃんと身に付けていた。  浅はかな俺はその言葉で十分安堵した。良かった、俺は妻を守り切れた。恐ろしい目に遭わせはしたが、大事なものは何も失わずに済んだぞ、と。  しかしたぶん、そうじゃなかったのだ。  約一ヶ月前。職場に向かう途中で忘れ物に気付き、止むを得ず家に引き返したことがあった。その時偶然見たのが、今のように奴とイチャつく妻の姿だった。  居間の扉越しに甘い声色だけ聞こえた時は浮気かと思った。むしろ、そうであったらどれだけ楽だっただろう。  何もない空間を、まるで我が子にするようにウットリと見つめる妻の姿を見た瞬間俺は初めて、彼女がおかしくなっていることに気付いた。きっとあの事件の日、彼女という人間を構成する大事なパーツが壊れてしまっていたのだ。  俺は何も守れてなどいなかった。  それなのに俺は配慮のない質問で都合の良い言葉を引き出し、傷付いた妻を置いて一人安堵していた。  そんな自分が一番、気持ち悪い。 「そろそろ散歩に行きましょ。ソラ」  妻は立ち上がり、部屋の隅の古びたタンスの元へと向かった。そしてその一段目、通帳など大事な物を仕舞う場所から何か、おそらくは犬用のリードと思われるものを取り出す。  いつの間にあんなものを。濃いブルーのリードを恍惚とした表情で眺める妻の姿に、ウッと嘔吐感が込み上げる。  さらに続く妻の言葉で、俺は絶望の淵に突き落とされた。 「今日もオウスケさんに会えるといいね」  ウキウキと音がしそうな様子の妻の口から出た、知らない男の名前。思わずえっと声が漏れ、慌てて窓枠の下に頭を引っ込める。  まさか、浮気? 確かに浮気であったらどれだけ楽だっただろうとは思ったが、本当にそうとあれば話は別だ。俺は妻を愛している。どんなにおかしくなっても、愛している。他の男になんて渡したくない。  玄関のドアの開く音がした。決心した俺は息を潜め、妻の尾行を開始した。
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