背伸びの満月

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 深夜0時過ぎ、二段ベッドの上をのぞくとミユちゃんはすやすやと眠っていた。少しものフェイクとして、ぬいぐるみのこうさちゃんを自分のベッドの中に押し込み掛け布団を少し立体的にさせておく。  私は懐中電灯代わりのスマホを持って、自分の部屋を抜け出した。  廊下の奥でぽつんと光る非常灯が、なんだかアンバランスだった。息をひそめて裏庭を目指す。  ――寮の裏庭には、今はもう使われていない井戸がある。満月の晩に井戸を覗き込むと、あなたの見たいものが見れる。  この話題になったのは、先月、食堂での夜ご飯の時間だった。同じ部屋のミユちゃんは情報通で、学校や寮のいろんなウワサを知っている。 「ねえねえ、みんななら何見るー?」 「えぇ、なんだろ。というかそんなに見たいものなんてある?」 「あ、わかった! 好きな人の気持ちとかじゃない?」  隣の部屋のサキコちゃんもリホちゃんも盛り上がるなか、私はぼんやりと考え込んでいた。  見たいもの。今の私が知りたいもの。   「ちょっとー、アオイ! 何ぼんやりしてるの」  みゆちゃんにつつかれ、なんでもないってーと笑顔で返す。次の満月はいつだろうと考えながら。  裏庭に続く非常口を開けると、空には満月がまるく輝いていた。  庭は手入れされていないから雑草だらけで、パジャマから出た足首にちくちく刺さる。裏庭のすみっこに井戸があり、蓋を開けると水が溜まっていた。  水面が見事に満月を映している。 「……お父さんの今が見たい!」  とりあえず声に出してみると、井戸のなかの月が震えた。  肩にぐっと力がかかりバランスが崩れる。突然のことにびっくりしていたら、目の前が真っ白になった。 「いたっ」  コンクリートに勢いよく尻もちをつき、つぶれた声が出る。その場に座り込んだままあたりを見回すと、知らない住宅街にいた。  月だけは変わらず、まんまるのまま光っている。   「こんばんは。いい夜だね」  振り向くと、チェックのワンピース姿の同い年くらいの女の子がいた。ハーフツインの片方には、黒いリボンをつけている。  どこかで会ったことある気がするけれど、整った顔といい華奢な手足といい、こんなかわいい子知り合いにいない。ああそうだ、どこかのアイドルに似ているのかもしれない。 「あなたのそのセーラー服、静心(せいしん)学院の中等部のでしょ。似合ってる」 「あれ、さっきまでパジャマ着てたのに……」 「あなたが見たいものを見るには、その格好が最適ってこと。ほら、行こう」  住宅街の歩道をすたすたと歩いていく女の子のあとを、私はあわてて追いかけた。 「あの、私葵っていうんだけど」 「知ってる」 「あなたの名前は」 「秘密」 「……。今日ね、寮の井戸に」 「お父さんの今の様子が見たくて井戸にお願いしたんでしょ。見るだけじゃなくて、ちょっとだけ会って話せると思う。今日はただの満月じゃなくて中秋の名月だから、サービス」 「本当⁉︎」 「本当、本当」  不思議な時間だった。知らない道を知らない女の子とふたりきり、しかも相手はなぜか私のことを知っている。でもなぜか警戒心は抱かなくて、むしろすごく落ち着いた。  しばらく歩くと、こうこうと明るいコンビニが住宅に混じって見えてきた。よく見るコンビニチェーンだ。  そこに入っていくスーツの後ろ姿のシルエットに見覚えがあった。女の子がくいとあごで指す。  私はうなずき、小走りでコンビニへ駆けた。 「お父さん!」  カゴを持ってスイーツコーナーの前に立っていたお父さんは、振り向くと目を瞬かせて固まった。  困り眉とか、体の線の細さとか、そのままだ。しわは少し増えたかもしれない。 「葵? どうしてここに。しかも今、もう十二時過ぎ……」 「いいじゃないですか。今日は満月ですし、十五夜ですし。十五夜って満月とは限らないのでラッキーですよ」  いつのまにか追いついてきた女の子がとなりで微笑む。 「そっか。そういうものか」  説明になっていないのに、お父さんは納得したようにうなずいた。こういうところ、お父さんっぽい。 「ところで君は?」 「葵の親友ですよ」  女の子はしれっと、値引きシールがついた串団子二本入りのパックをお父さんのカゴに放り込んだ。 「そうか、葵が静心かあ。いい学校だよな、あそこは」 「そうなの! お父さんの中高のときの話聞いてて楽しそうだなって思って、受験したんだ」  ついてくる満月を見上げて、夜の道を歩く。ちなみに、私と女の子は串のお団子をかじりながらだ。 「というか、静心なら学費とか寮の分とか……」 「あ、それは平気。お父さんが送ってくれてるお金もあるし、お母さんもバリバリ働いてるし」  お父さんが言いたいことを見越して、手のひらを突き出して制する。女の子が口をもぐもぐさせながら少し笑った。 「よくできた娘さんで」 「本当だよ。僕に似ずしっかり者だ」 「オトウサンはあれじゃないですか、しっかりしてないっていうより優しすぎて結局自分も周りもダメになるタイプでしょ」 「わぁ。おお。葵、この子は占い師かなんか?」 「ん? んー」  私も、さっき会ったばかりのこの女の子が何者かわからない。  今私が体験しているこれはとっても不思議な状況だけれど、夢ではない気がする。 「お母さんと離れてて、ホームシックにならない?」 「さみしくなるときもあるけど、基本にぎやかだし、あと家からあのこ持ってきたんだ。こうさちゃん」 「ああ、あの、ぬいぐるみのこうさちゃん。生まれた時から一緒だもんなあ」 「そういえばオトウサン、いつもこの時間に帰ってるんですか? 社畜?」 「いやいや、今日は飲み会あって。酔っ払った後輩送ったらこの時間」 「うわ、お父さんらしい」  この時間が終わってしまうことが惜しくて、たくさん話したくなってしまう。お父さんの手元にあるエコバッグからは四人分くらいのコンビニスイーツが見えて、ちょっとだけ胸が痛んだ。   「あ、オトウサンの名字の表札。家ここですか」  女の子が一軒家の前で立ち止まる。お父さんは緊張した面持ちでうなずいた。  暗いなかでもわかる、あかね色の屋根の家。私たちとはマンションで住んでいた。  お父さんには、私とお母さんとは別の『あっち』の家族がいる。世間からすれば、あっちの家族がホンモノで、私たちはニセモノの家族らしい。  あの人が悪いとかその人が悪いとかごたごたしていて、事情についてはよく知らない。聞きたくないから知らんぷりだ。 「……じゃあね、お父さん。会えて嬉しかった」  お父さんから一歩離れて、手のひらを見せて振る。  「うん。じゃあね、葵」  お父さんはもっと何か言いたげだったけど、同じく手を振るだけにとどめた。  お父さんが家の中に入った途端、パチパチッと明かりがつく。寝たふりをしてずっと待っていたのだろう、この家の『お母さん』と『子ども』たちが。  そして『お父さん』は、ごめんごめんと言いながらスイーツを掲げるのだろう。   「うん、望み通りお父さんに会えた。じゃあ行こう」  女の子が後ろから肩を引く。必要以上に体が傾いて、そしてまた視界が白くなった。  ぼんやりと聞き覚えのある声がする。 「アオイ、アオイー!」 「ミユちゃ、ちょ、痛い痛い痛い」  顔を往復ビンタのように叩かれて、草むらからはね起きる。ミユちゃんとリホちゃんとサキコちゃんが不安そうな顔で私を囲んでいた。  さっきまでのことを思い出し、服を見るとそれはただのパジャマで場所も寮の裏庭だった。 「のどかわいて目覚めたらアオイいなくて、焦ったんだよ⁉︎ 隣の部屋にもいなくて、だから三人で探してたら、ウサギのぬいぐるみと井戸の近くで倒れてて、焦ったんだから」 「でもよかった、なんともなくて」 「体調平気?」  矢継ぎ早に言葉をかけられ、それだけ心配させてしまったのだと痛感する。  言われた通りとなりにはベッドに入れたはずのこうさちゃんが転がっていて、土をはらって持ち上げた。  チェックの服を着て、耳にリボンをつけたこうさちゃん。  ああ、なるほど。本当に不思議なことなのに、私はすんなり受け入れられてしまった。  そしてそれと同じくらいに、私とお父さんの世界線がもう交じわることがないことも受け入れられた。 「ごめんね、心配かけて。ちょっと満月の井戸、行ってみたくなっちゃったの」  こうさちゃんを胸に抱いて、満月に引っ張られるように立ち上がる。 「部屋戻ろう。もし私探して目冴えちゃってたら、おわびにキッチンでミルクティーでも用意するよ」  さびしくなる日はまたいつか来てしまうかもしれないけれど、でもきっと、今の私なら大丈夫だ。  背伸びをして満月を見上げると、優しく笑うように輝いていた。
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