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でも声だけでわかる。フロアの隅にある専用の休憩室から漏れるふたりの甘い息遣いや衣擦れの音。
聞きたくないのに聞こえてしまう。これ以上聞きたくないのに、五感は研ぎ澄まされていてやけに甘い声が耳につく。ショックからくるものだろうか、足はすくんで動けない。
今、彼らはこの室内で肌を寄せ合っている――
悔しさが体中を支配し、切なさが胸を締め付ける。いつまでも休憩室のそばに突っ立って、中の様子を盗み聞きしていると誰かに見つかってしまう。わかっていてもショックで足が一歩も前に出ない。
「でさぁー」
「そうなのぉ?」
廊下の向こうから楽しそうにおしゃべりをしながら歩いてくる女性社員がふたり。彼女たちの声で我に返り、私は誰にも気づかれないようにその場を後にした。
いけない、今は勤務中。自分の仕事を全うするのが先決よ。
私は社長室に戻った。仕事中なので花のアレンジを再開する。心がざわめき立つ中で作業に取り掛かるが、そんな状態ではいいものができるはずもなく――
「椿さん、今日のお花は元気がありませんね。あなたの向日葵のような笑顔も見られません。どうかなさいましたか? なにか困ったことや悩みごとでもありましたか?」
まるで私の心を見透かしたかのように、私の傍に立った男性が語りかけてきた。思わずドキリとする。
「社長、あれ、いつの間に……?」
私は作業に没頭していたようで、社長がこの室内へ戻ってきていたことも気が付いていなかった。
「あまりに集中なさっているから声をかけるのを迷ったのですが、でも、椿さんの様子が気になったのでつい声をかけてしまいました」
今、私の目の前にいる彼はこの会社――SNSのターゲット広告などの代行業を中心に、独自の開発アプリや便利なサービスに特化したソフトなどを手掛けるITベンチャー企業『Y2サイバーエージェンシー』の代表取締役社長(CEO)、八神悠斗(やがみゆうと)さんだ。
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