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カラっぽのソラ
「おかしいな……どこへいったんだ?」
変わり者の同居人が、聞こえよがしに呟いた。
窓際のデスク、いつもの彼の指定席で、彼は空っぽの小瓶を頭上にかざしてはじっと見つめていた。そんなにじっくり眺めても、瓶に何も入っていないのは明白で、しばらくしてから諦めたように小瓶を置く。そして今度は、床に落ちてはいないかと億劫そうに背中を丸めてデスクの下を覗いている。
「シロウ、」
「なんだい」
「小瓶の中身を探してるんですか?」
「そうだよ」
「……冗談ですよね?」
私の記憶が正しければ、彼の小瓶はデスクの端にいつも置かれていたが、何かが入っていたことなどない。真面目な顔をして探している彼に、私はため息をついた。
「いやいや、とっておきを入れておいたんだよ」
「とっておきの、何を入れてたって言うんです」
「空だよ。それも、夕暮れの一番良いやつでね」
ソラ、と言われて自分が呼ばれたのかと驚いたがどうやら、彼が言っているのは本物の空の方らしい。魔法使いじゃあるまいし、何を言っているんだと思ったが彼は、私を見てにんまりと笑っている。まるで、私がそれを問いかけるのを待っているかのように。
「……空なんて、どうやって瓶詰めに出来るんです」
「そりゃあ、僕のお得意の魔法で、だよ」
自分で聞いておいてなんだが、彼の言葉に口角を下げ、不快そうな顔を見せてしまう。余裕のない自分にも苛立ちつつ、私はそうですか、と相槌を打って背を向ける。
彼は、そんな私の態度を気にも留めず、独り言のように話を続ける。
「いや、ね、良い空だったんだよ。本当に。深い紺色と、鮮やかなオレンジ色でな。君の好きそうな色味だろう?」
「……そうですね」
「そうだろう?だから、あの空をとろっとキャンバスに垂らして絵を描けば、いい感じになって、君の気も晴れるかと思ったんだ」
変わらず小瓶を振りながら、残念そうにそう言う彼を横目に私はふっと鼻で笑う。そんなことができればさぞ、楽しく絵も描けるだろう。乾いた絵筆もそのままの、私の作業席に腰掛けながら、相変わらず笑みを絶やさない彼と向き合う。
「出来るわけないでしょう。魔法なんて、ありはしないんですから」
「魔法がない?どうしてそう言い切れる?」
「ないものをないと言ってるだけです。冷蔵庫にあった私のプリンがないのと同じ、事実です」
彼はハッとした顔を少しだけ見せ、すぐに取り繕うようにまあまあ、と大げさに両手を振る。彼はいつもこうだ。
調子が良くて、人を食ったような態度でいつもヘラヘラとしている。素直に話を聞いている方が、馬鹿を見るような会話ばかり。
「プリンの話はさておき、魔法なら君だって使うじゃないか」
「私が?まさか。使えませんよ」
「いやいや、今まさに、そこに魔法をかけているだろう?」
彼はこれが言いたかった、と言わんばかりに私の前にあるキャンバスの背に立ち、こんこんと小瓶で縁をノックする。キャンバスには、描きかけの空の絵。完成の目処が立たないのは、偏に私の実力不足が原因だ。
「君の絵はまさに、本物の空をキャンバスに垂らしているようじゃないか。ひょっとして僕の小瓶の空を、こっそりここへ塗りたくったのかい?」
「……何言ってるんですか。いつも目の前で描いていたでしょう。それにさっき言ってた話と、色味がまるで違う」
さっき彼が口走ったのは、深い紺色と鮮やかなオレンジ色。私が描いているのは、朝焼けだ。淡い紫が暗い黒の帳を溶かし、朝陽を呼び起こす空……の、つもりだ。目の覚めるような夜明けの空を描きたいのに、筆は思ったように動いてくれない。何度も色を重ねては、黒に塗りつぶされていくキャンバスに苛立つ。そんな空に、紺もオレンジも、どこにもない。
眉間に皺を寄せる私をよそに、彼はあれ?といった顔ではっと何かに気づくような、大げさな素振りを見せる。そしてすぐに、うんうんと頷いてまた、にんまりと笑みを浮かべる。
「それもそうだった。それに、こんな小さな小瓶に入っていた程度の空じゃあ、キャンバスをここまで塗りつぶすのに到底足りないだろうね」
「それは知りませんけど。この空の絵はただの絵具でできた、まがい物の空ですよ」
「それはどうだろう。実は僕の知らない魔法の絵具か、本物の空を口説いてそこに腰掛けてもらってるんじゃないのかい?」
「ハァ、ただの絵の具ですってば。臭いでわかるでしょう」
「あいにく、僕は魔法の絵の具の臭いを知らないもので」
彼はどうやら、私を魔法使いだということにしたいようだ。
つまりは私の絵が、まるで魔法のように綺麗だと。本物のように美しい空を描けているのだから、自信を持って描けば良いよ、と言いたいらしい。
遠回しでわかりつらい彼の励ましに、私はハッとまた鼻で笑う。素直に褒めれば良いものを、人を空泥棒呼ばわりするところから始まるのだから、彼は本当に変わり者のプリン泥棒だと思う。
「随分と、使い勝手の悪い魔法ですね」
「そうかな?イタズラには持ってこいじゃないか」
「例えば?」
「例えばほら、僕が空を小瓶に詰めようとしたこの窓自体を、君の絵と取り替えてしまうとかね」
「誰がひっかかるんですか、それ」
くいくい、と己を指さしてにんまりする彼に、私もつられて笑う。
窓の外はすっかり暗くて、紺色と黒の帳を、真っ白に見える星々が留めているばかりだ。
「そろそろ君のために、朝焼けがモデルをしに来てくれる頃じゃないか?」
「まだ早いですよ。時間はあるので、それまでプリンでも食べてゆっくりしたいなあ」
「そうか。それはちょうどいい。実は僕は、プリンを呼び出す魔法の練習中なんだ」
「それはぜひ見たいですね」
「ちょっと待ってて、タネやら仕掛けやら魔力やらがいるものだから」
そう言って重い腰を上げ、玄関へと向かう彼を見て思わず吹き出してしまう。彼の後を追って、私たちは街灯の眩しい夜へと繰り出した。ビカビカとやかましいコンビニの灯りに吸い寄せられ、涼しい店内の空気にふっと息を吐く。
「あ、新商品ですって。これにしましょう」
「こらこら、値段が倍違うじゃない。いつものにしときなさい」
「プリンの魔法使いなんでしょう?」
「お金の魔力を甘く見ちゃいけない」
日が昇るまで、あと5時間ほど。
2つのプリンをビニール袋に下げ、私たちは夜風を切って歩く。か
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