開運の『アパート』

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開運の『アパート』

 『スパイさんの晩ごはん。』 第一章:敵の国でも腹は減る。 第四話:開運の『アパート』 あらすじ:「ああ。それがここの味だ。(キリッ)」 ------------------------------ 頼りになるチキン先輩は軽やかな足取りで先導してくれるのだが、私はぜいはぁと息を切らすくらいに疲弊していた。先輩の背負子には私が背負っている倍以上の荷が積まれているのに足元が揺らぐ気配さえ無い。さすがは配達屋と言ったところだろうか。 「こっち、こっちッス!頑張るッス!」 「ぜぇ、はぁ。」 先輩は配達先で私の荷物から降ろせるように分配するほど気遣ってくれているのだが、辛いものは辛い。もともと私は文官で、肉体労働は得意では無いのだ。 いや、そもそも先輩の手伝いをする必要はあったのか?いやいや、昨晩は一文無しの私に酒を奢ってくれたし、当面の資金も貸してもらった。おかげでリーダーのオックスに借りを作らずに済んだのは幸運に違いない。 良くあることだが、命令を下す者に借りを作ってしまうと、借金を盾に面倒な仕事を押し付けられかねない。死と隣り合わせのこの仕事での面倒は命に係わるかもしれないのに。 「着いたっス。ここッス。ここがラディッシュのアパートっス。」 「ぜぇ、はぁ。」 数軒の配達先を回って私の背負子が空いた頃、チキン先輩は少女が掃除をしている5階建ての建物に案内してくれた。1階で雑貨屋を営んでいるこの建物の主人はチキン先輩の得意先のひとりで、空いている3階以上を独身向けのアパートとして貸しているそうだ。 「マートンは運がいいッス。ここは人気があって、すぐに埋まるッスよ。」 少し洒落た建物は日当たりが良く、落ち着ける部屋を提供してくれるのが人気の理由だそうだが、出て行く理由の大半が結婚や昇進と、目出たいものが多いことも人気に拍車をかけているらしい。 独身向けなので部屋は狭いが、街の中央に近い割に手頃な家賃。2階にはアパートの大家の一家が住んでいて、共用になる階段の掃除や修繕などと世話をしてくれるのも独り身には助かる配慮だ。その代わり、大家の一家は私達が敵国の人間とは知らない一般人である。当たり前だが。 色とりどりの雑貨が並べられた間口を掃除していた少女が、チキン先輩の声に気付いいたらしい。ホウキで掃く手を止めて花が綻ぶように微笑んだ。 「チキン。その人が朝に言っていた人?」 私が長旅の疲れで寝坊している間に、チキン先輩は仕事の手配を終わらせた上にアパートの口利きまでしてくれたらしい。 「そッス。後輩のマートンッス。これから王宮で働くッスよ。」 「あら、ちゃんとした仕事の宛てあるの。私はここの大家の娘、ターニップよ。よろしくね。」 ターニップと名乗った少女は手を差し出す前にゴシゴシとエプロンで手をぬぐったが、小鳥をあしらった黄色い生地は汚れる事は無かった。毎日、掃除をして清潔に保っている証拠だろう。汗だくだった私は清潔さに自信が無いので手に浄化の魔法をかけたのだが、嫌がられないだろうか。 「ああ、マートンだ。これから世話になる。」 「チキンが保証人だから心配していたけれど、王宮で働けるほどの人なら安心ね。」 「どういう意味ッスか?」 「だって、あなたって何でも拾ってくるじゃない。犬も猫も、人間も。」 聞けば、チキン先輩の家には拾ってきた捨て犬や捨て猫が10を超えて住んでいるらしい。それどころか実際に人間を拾ってきたことも何度かあり、その度に部屋の空きを聞かれるのだとか。私もチキン先輩に拾われたようなものなので、大家の娘である彼女が気を揉んでも仕方ない。 「だから、マートンさんも油断しないでね。念のために父さんと面接はしてもらうから。」 面接の話は聞いてないぞとチキン先輩を睨むと、童顔のふっくらとした唇から赤い舌をぺろりと出して、「じゃあ、後はよろしく」と逃げていった。重い荷物を背負っているとは思えないほど素早いのはさすがと言うべきか。 だが、残された私は困ることになる。私がここに来るまでのカバーストーリーは完璧に頭に叩き込んでいるのだが、それでも抜き打ちとなると準備が足りない。 特に昨晩の『千鳥足の牡牛亭』に辿り着き、チキン先輩に出会うくだりだ。 なにせ、あそこはこの街で暮らしている住人でさえも滅多なことでは行かない裏路地の裏の裏の裏だ。初めてこの街に来た私が、どうしてあの店に辿り着いたのか、上手く話しを作れるだろうか。 「ほう、それはご苦労でしたな。」 財布を掏った犯人を捜して裏路地に迷い込み、困った所をチキン先輩に助けられたという作り話を、このアパートの主、ラディッシュはすぐに受け入れてくれた。後はチキン先輩が彼らに会う前に、口裏合わせをする算段を考えるだけだ。また、『千鳥足の牡牛亭』に行けば会えるだろうか。 しかし、作り話さえ終わってしまえば簡単だった。なにしろ私には本物の貴族からの紹介状がある。王宮で働く事は簡単に信じてもらえ、怪しい人間だと思われずに済んだ。世の中には部屋をめちゃくちゃにしたり、家賃を踏み倒して夜逃げする者もいるのでラディッシュも警戒していたのだ。 尋問のような長い世間話も終わり私が人心地をつくと、ドアが開けられターニップが入ってきた。彼女の持つトレイから流れる小麦の焼ける香りが鼻をくすぐった。 「スコーンが焼けたわよ。あら、すっかり紅茶が冷めちゃっているじゃない。」 すっかり話を作ることに夢中になってしまって、振舞われた紅茶に口をつけることも忘れていたが、嘘を吐いた緊張で喉はカラカラだった。それに、寝坊した私は珈琲を飲んだだけで朝食を食べ損ねている。トレイから漂ってくる香りで騒ぐ腹の虫を抑えるのに必死になるくらいに。 「やあやあ、すっかり話し込んでしまったね。マートンさんも小腹が空いただろう。」 「さあ、熱いうちに召し上がれ。」 ターニップは私達に新しい紅茶と皿を給仕すると、ラディッシュの隣に座った。給された皿にはゴツゴツと硬そうな2つの大きな小麦色の塊が乗り、隣には昨日食べそこねた『勇者の雲』と赤いジャムが添えられている。 間近で見る『勇者の雲』は本物の白い雲のように、窓から差し込む陽の光で輝いていた。本当にこれが食べ物なのだろうか。 それに、スコーンと呼ばれるこの塊の食べ方が解らない。昨日の『クレープ』なら他にも食べていた者がいたので真似をすればよかったが、目の前に用意されたのは赤子の手ほどもある歪な塊は一口では収まりそうにない。 この塊と『勇者の雲』は別々に口に運ぶべきなのか。それとも、パンにバターを塗るように、この塊に塗ってリンゴのように噛り付けば良いのか。どれくらいの量が最適なのか。そもそも、この国ではスコーンは当たり前に出てくる物なのか? 当たり前に出てくるものの食べ方を知らなければ、私の出自が怪しまれる可能性がある。 紅茶を飲んで時間を稼ぎ、ラディッシュかターニップが食する姿を観察したい。いや、自分が焼いたのだと誇るターニップが、私が口にするのを期待の眼差しで待っている。冷や汗が背筋を伝った。 「おや、マートンさんはスコーンの食べたことが無いのですか?」 迷いは顔に出さなかったはずだが、時間をかけすぎてしまったらしい。ドキリとした私は観念した。こういう時は正直に話すに限るのだ。 「はあ、まあ。お恥ずかしながら。」 「まあ、独り身の男では、なかなか洒落た菓子に手を出しにくいですよね。特に勇者アマネの広めた菓子は可愛らしいものが多いですから。」 私も普段なら高い甘味を食べるくらいなら量を選んで腹を膨らませるし、古臭いと言われればそれまでだが甘い菓子を男が好むのを恥と考える人も近くにいた。女子供が騒いで集まるような流行物を、男が追いかけるのは軟弱だとか。 もちろん、昨日の私を嘲笑った馬車に同乗していた男のように普通に食べる者も増えてはいる。 あの顔は絶対に忘れない。 曖昧に頷く私に見せながら、ラディッシュは手慣れた仕草でスコーンを半分に割り、『勇者の雲』をスプーンで盛り付けて口に運んだ。私もラディッシュを真似て同じようにスコーンを割り、『勇者の雲』にスプーンを入れたのだが、本物の雲と思えるくらいふわふわとしていて軽い。 驚きを隠しながら口に入れると残ったスコーンはサクサクと歯ごたえを楽しませてくれるのだが、『勇者の雲』はほのかな甘さを残して消えていった。 「美味い。」 私が感動の言葉を漏らすと、ターニップは嬉しそうに微笑んで満足そうに頷いた。 ------------------------------ 次回:引っ越しの『買い物』
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