三 横浜の夜

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三 横浜の夜

柳下屋敷のある日、白也が赤司の様子を見にきていた。病が改善してきた赤司に、白也が重い口を開いた。 「赤司よ。実は母の白寿のお祝いをすることになったのだ」 「茶子(ちゃこ)婆さんですか。そう言えばしばらく会ってないな」 茶子とは、白也の母であり、赤司の祖母である。赤司の父と暮らしている彼女のお祝いをすることになったと白也は話した。 「そこに親戚全員が集まる。お前も呼ばれているが、面倒なことに全員、宿泊せよ、言い出してな」 「用意する方も大変だな」 「あのな。俺が心配しているのはお前のことだ」 白也は、赤司の夜の奇行が出たら困ると言い出した。 「そこでだ。光子さんに同行を頼もうと思う。雪子も行くし」 「光子ですか?そ、それは」 恥ずかしがる赤司に、白也は真顔を向けた。 「あのな、俺は近いうちにお前を養子にしようとしている。昔からその話をしていているので、今さら反対するものもおるまいが、今回の集まりで、光子さんの顔を見せておきたいと思う」 光子の身辺調査を確認する意味もあるが、白也はまだ赤司に告げずに隠密に進めたいと思った。 「……そうですね」 ……光子のおかげで奇行は治ったと、母に言うと良いかもしれないな。 「わかりました。その方向で進めます。でも、光子に何と」 「そのままだ。宿泊があるので看護婦として同行を頼むと言えばいい。今、頼もうか?」 そして白也は部屋に光子を呼んだ。光子は了解した。 「はい。しっかり努めます!」 「ふ。よ、よろしく」 「お。おい光子。お前、顔に髭があるぞ」 「え」 白也は笑うのを堪えるように背を向けた。笑顔の赤司は部屋の鏡を指した。光子はおずおずと鏡を見た。 「まあ?これは、墨の跡だわ。顔にこんなについていたなんて。どうりで御用聞きの人が笑うはずだわ」 鼻の下に髭のような黒い墨をつけた光子は、自分の顔に驚いた。そんな彼女を二人は笑った。 「ふ、はははは」 「伯父貴。そんなに笑っては可哀想、あ。光子、その顔で俺を見るな!フハハハハ」 「……失礼しました」 あまりに笑う彼らに光子は頭を下げた。そして悲しそうに退室した。 「ああ苦しい……だが。ちょっとやりすぎかたな?」 「いいです。俺が、謝っておきます」 もう帰る時刻だった白也は帰った。白也を見送った赤司は屋敷内に消えた光子を探した。 「おい!光子。どこだ、あ」 赤司が廊下に出ると、彼を見た光子は背を向けて全速力で逃げるように廊下の奥に走った。 「待て!おい」 しかし、光子は話も聞かず廊下の角を曲がった。赤司がそこに行くと、静けさだけがそこにあった。 「……光子。どこだ?出てこい、謝るから」 しかし。光子は隠れて出てこなかった。この時間、坂上は外出であり、使用人の二人も昼寝の様子で静かだった。 「お前がいないと謝れないだろう……いい子だから出てこい」 そう言いながら忍足の赤司は、集中するように目を閉じた。 「こっちだな、俺の部屋にいるな。どれどれ」 扉を開けると、そこは赤の世界の部屋であった。自分の部屋を彼はゆっくりと彼女を探した。 「……ここかな。いや?こっち!」 ……カタ。 ……ふふふ。あそこか。 物音で光子がベッドの下にいると思った赤司は、どかっとベッドに腰掛けた。 「ふう。それにしても。この俺から逃げるなんて。お前は大したやつだよ。なあ。光子?あれ」 ベッドの下を股の下からガバッと覗き込んだ赤司は、そこに彼女がいないことに首を傾げたながら体勢を戻した。 「あれ、おかしい……」 「わ!!!」 「ぐああ!?」 突然、背から声を掛け赤司を驚かせた光子はにっこり笑った。 「ふふふ」 「び、びっくりした?お前……いつの間に」 「ふふふ……私、ベッドの下にいたのですが」 赤司が余裕でベッドに腰掛けた時、彼の背後のカーテンに移動したと笑った。光子が笑うその顔にはもう墨が消え、可愛い顔しかなかった。 「それにしても……あんなに驚くなんて……ははは、おかしい、ふふふ……」 「くそ」 「きゃあ?」 赤司は面白くない、と彼女をベッドに押し倒した。 「仕方がないだろう、驚いたんだから」 「でも、でも……ぐああって」 まだ涙を流して笑っている光子の両手首を赤司は押さえた。 「ああ、おかしい」 「うるさい!黙れ、さもないと」 赤司はそっと光子の耳元に唇を走らせた。光子はくすぐったいと暴れ出した。 「ははは!だめ!赤司様。くすぐったい!」 「これはお返しだ……」 そして彼女の首筋を愛しく顔で擦る赤司に、光子は身悶えた。 「キャハハ!お願い。やめて!なんでもしますから」 足もばたつかせ、くすぐりに耐える光子に、赤司はにっこり微笑んだ。 「本当だな?よし、じゃあこれで」 「ハハハ……ああ、もうだめ」 最後に光子の首筋にキスマークをつけた赤司は、やっと彼女を解放した。そんな赤司は光子にお茶を頼み、二人で飲むことにした。 庭が見える部屋で二人はやっと落ちついてお茶を飲んだ。 「ところで、なぜ顔に墨がついていたのだ」 「張り紙を書いていたからです。本当に困ってしまって」 光子は、ため息まじりで話し出した。それは屋敷で留守番をしている時の問題だった。 「押し売りが来るのです。私が断っても、買ってくれるまで帰らないって粘るんですもの」 「そう言うやつにはキッパリ断れば良い」 「言ってもダメなんです。だから私、押し売りお断りって書いて玄関に貼ってみたんです」 しかし、それはキイに逆効果だと指摘されたと光子は悲しく語った。 「それはつまり。気弱な人がいる屋敷だって、相手に見くびられるって」 「確かにな。して、貼り紙はやめたのか」 「いいえ。それでも何かしたいじゃないですか」 光子は諦めきれず、他の文を考えたと目を光らせた。 「ええと。『猛犬注意』にしようとしたんです。でも犬が好きな人もいますよね。だから私、みんなが嫌いな動物を黒川さんに相談して」 「で、何にしたんだ」 「はい!『へび、放し飼い中』にしたんです!赤司様、これなら誰もこないと思いませんか?」 両手を拳に握り、生き生きしている光子に赤司は笑みをこぼした。 「ふふふ、光子よ……」 赤司は紅茶のカップをテーブルに置いた。 「すまない。ちょっといいか?」 「何でしょう」 笑みを称えた赤司は光子を自分に向かせた。 「お前を抱きしめるぞ?」 「え」 「そう言う意味じゃない。ああ、お前って本当」 赤司は可愛い光子をギュと抱きしめた。 「赤司様?あの、これは」 「……最高だよ」 「え。あの、その」 「楽しすぎだよ……なあ、光子。早く俺を好きになれよ」 耳元で囁く赤司の甘い声に、光子はドキドキした。しかし、部屋にノックの音がした。赤司はそっと光子から離れた。入ってきた坂上は血相を変えていた。 「旦那様。大変です!我が家にへびが出ました!」 「あ?貼ったままだった」 「ふ?ハハハ……いいんだ?ハハハ……」 光子のおかげで赤司の屋敷は笑い声が絶えなかった。 ◇◇◇ そして数日後、赤司の実家にて祖母の白寿の祝いの会が開らかれた。赤司は仕事の帰りに寄ると言うので、光子は白也夫妻と一緒に来ていた。白也は車中で説明した。 「光子さん。我が柳下家の簡単な説明をしておくが、私は長男であるが、早くに軍に入隊したので、実家は弟が継いだのだ。弟は黒也と言ってね。赤司の父親になる」 この話を雪子が補足した。 「それでね。私たちは子供がいないし、私も長女だから白也さんは私の両親の面倒を見てくれていたの」 そんな雪子の両親は他界し、現在の屋敷は雪子の実家だと話した。白也はさらに続けた。 「黒也は鉄の輸入の仕事が忙しくてね。まあ、今は赤司の兄の、黄一(きいち)。と、緑郎(ろくろう)が跡を継いでいるのだ」 「皆さん、名前に色が入っているのよ」 「もしかして、黄色と緑ですか?すごいですね」 「私もお嫁に来てびっくりしたのよ」 驚く光子に白也は微笑んだ。 「私も最初は金太郎になるところだったんだよ。まあ、それはさておいて。さあ柳下家に……到着だ」 大きな屋敷に着いた光子は、玄関前の車の数に驚いた。 ……たくさんの人が来るのね。ん。 一緒に車を降りた光子は、雪子がとても緊張している事に気がついた。そんな雪子と白也が駐車して降りてくるのを待っていた。すると他の親戚がいることに気がついた。 「おばさま。雪子です。お久しぶりでございます」 「あら。誰かと思った雪子さんでしたか。お元気でしたか」 「はい」 玄関前にいた親戚は、挨拶をした雪子を上から下までジロジロ見つめた。 「まあ、元気でしょうね。だってあなたは長男の嫁でありながら、次男の嫁に何もかも任せて実家住まいですもの。良い御身分ですこと」 「そうですね。本当に申し訳なく思います」 謝る雪子をそばで光子は、考えた。 ……そうか。雪子様はそう言う目で見られているのね。 長男の嫁のくせに何もしない、と老齢の親戚たちは雪子をヒソヒソと陰口を話していた。白也は他の親戚と挨拶していており、雪子は冷たい視線を一人で浴びていた。 ここで光子は動いた。 「あの、雪子様、贈り物はちゃんとありますか」 「え、あ?そうね」 笑顔の光子の声に雪子はハッとした。光子は雪子に寄り添った。 「さあ。ここでは邪魔になるので、あちらで待たせていだだきましょう。皆様、失礼いたします」 光子は優雅にお辞儀をし、意地悪な視線を避けて白也を待った。そして合流した三人は白也夫婦が使う部屋に移動した。ここで雪子はよろよろとベッドに腰掛けた。 「ありがとう……それにしても、光子さんってすごいのね」 「そうですか?それよりも、ご家族の方にご挨拶ですね。さあ。雪子様、お髪を直しましょう」 全く気にしない鋼の心臓の光子に勇気をもらった雪子は、白也の励ましも受け、黒也夫妻と、茶子が待つ部屋に向かった。 「はあ、いつもながら緊張するわ」 「雪子。大丈夫か」 腕を組みながら進む彼らの背後で、光子は微笑んだ。 「雪子様。こういうのは早く終わらせた方が気が楽ですよ。さあ参りましょう」 「そうね……うん!行きます」 「助かったよ。光子さんがいてくれて」 どうぞと執事が扉を開いた。そこには柳下家の家族が勢揃いしていた。 「おお、兄貴。それに雪子さんも。本日はようこそ」 こちらこそ、と白也夫妻は頭を下げた。 「それにしても黒也。すごい人数になったな」 「ああ。ここまで来るとは想定外だったよ。そして、そちらのお嬢様は?」 「あ、ああ、ごめんなさい、彼女が赤司さんの担当看護婦の光子さんです」 雪子の紹介で、光子はすっと会釈した。 「私、上野病院の看護婦の佐藤光子と申します。本日は、赤司様のお婆様の白寿のお祝いと伺いました。本当におめでとうございます」 「ありがとう」 「あなたが赤司の看護婦なのね」 「はい」 赤司の両親の声に、そばにいた兄達は光子に注目した。顔を上げた光子は、その中に椅子に座った老齢の女性を見つけた。 「……あの、こちらは白也様と雪子様からの贈り物でございます」 「そうだった?母さん。雪子と私で選んだんだよ」 「お義母様。おめでとうございます」 「白也……雪子さん、ありがとう」 老齢の彼女は長男夫婦に目を細めて嬉しそうにうなづいた。そんな光子が手にした包みは、黄色のネクタイをした男性が受け取った。 「君が、赤司の看護婦か」 「あいつは来るんだろうね」 緑のネクタイの男性にも問われた光子は、目をぱちくりさせた。 ……お二人とも声が赤司様にそっくり。それに顔も。 「は、はい」 「……君のことは聞いているよ」 「それよりも。赤司が来たら教えてくれ」 「はい」 冷たい態度であったが、部外者の光子はお辞儀をして後にした。ふと見ると、雪子は親戚と仲良く話を始めていた。 ……よかった。私はこれで、部屋で休めるわ。 親族の集まり。部外者の光子はひとまず白也夫妻の部屋に向かった。 「お母さん。この娘が例の看護婦よ」 「貧弱じゃないの。こんな娘が赤司様の側係なの」 「南田さん……」 光子が進む廊下の先には女中の南田が、母親の南田と仁王立ちしていた。 「ね?図々しいでしょう。親族の集まりに来るんなんて」 「全く。白也様もどうかしているわ」 「あの、私は赤司様の看護で参りました。集まりには参加しません」 「出た?!得意の口答え」 南田の言葉を受けた母親は憎悪の顔で光子を見た。 「生意気とはこのことね。いいこと。とっとと出て行きなさい!」 「あ?ちょっと」 しかし、光子は玄関から追い出されてしまった。施錠までした南田母子に光子はため息で玄関外に腰を下ろした。 ……でも、お庭から声がする。 そして庭に回ってみた。何とか屋敷の室内に戻ろうと思っていた光子は話す声を耳にした。 「大丈夫だよ。な、何とかなるさ」 「でも……今日、挨拶しないと」 「その足じゃ無理だろう」 ……さっきの緑のネクタイの人だわ。相手は奥様かしら。 女性は椅子に座り、泣いていた。彼はイライラしながら、歩いていた。 「ううう、ごめんなさい」 「泣くな。くそ、なぜこんなことに」 深刻な男女の様子を目撃してしまった光子は、思わず隠れた。 ……とにかく。ここにいてはいけないわ。向こうに。 移動しようと茂みを出た時、それが動いた。 「見つけたぞ!光子!」 「きゃああああ」 庭の茂みから出てきた光子を、赤司は嬉しそうに背後から抱きしめた。 「隠れていたって俺にわかるんだ。ん。あれ」 「赤司……」 「緑郎兄貴、何してるんだ」 「何って。お前……」 「兄貴って。そうか、この方はお兄様ですか」 柳下家の庭には、夏の風が吹いていた。 続く
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