三 横浜の夜

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「光子。紹介する。こいつはすぐ上の緑郎兄貴だ」 「こいつって言うな」 「いいじゃないか。っていうか、ここで何をしているんだよ」 「……どうもこうもないよ」 緑色のネクタイの緑郎は力なく彼女の隣のベンチに座った。 「彼女は婚約者の竹子だ。実は、俺達。今夜のお祝いの席で、婚約のお披露目をするつもりだったんだ」 緑郎の話によれば、彼女のことは両親に話しており婚約もしたが、一部の親戚から反対する声が出ていると言うことだった。 「だから、今夜の席で堂々と挨拶をして、それで結婚を認めてもらう予定だったんだ。でも彼女が」 「ごめんなさい。来る途中で足を挫いてしまって」 「まあ。見せてください。これは」 腫れた足を見た光子は、椅子に座っているのは良くないと言った。 「足を下ろすと痛みますでしょう?横になっている方がいいですよ」 「でも、でも私、夜会に参加しないと」 「兄貴。今夜は諦めて、次回にできないのか」 これには彼女が涙で首を横に振った。 「実は今までもその機会があったんです。でも一度は事故で遅刻してしまって。その次は風邪で熱が出てしまって」 「もういいよ。諦めよう。別に親戚の許しはいらないよ」 「緑郎さん?でも、でも……」 絶望の彼を見て竹子は泣き出した。 この光景が痛々しかった赤司は、兄に彼女を部屋で休ませるように説いた。この時、光子は同行し彼女を休ませていると、緑郎と赤司が白也を連れてきた。 「話は聞いた。竹子さんはとにかく安静にしなさい」 「休んでいろ、あとはこっちでやるから」 白也と緑郎の言葉に竹子は、悲しく謝った。 「ごめんなさい、本当に」 「あの、私看護しています」 「そのことだが、ええと、光子さん。ちょっと話があるんだ」 光子は彼らについて行った。そこには赤司と、彼の両親の黒也夫妻と、長兄の黄一が待っていた。緑郎とやってきた白也は咳払いをして話し出した。 「さて。まずは突然だが、光子さん。竹子さんの代わりをしてくれないか」 「え」 一同は光子を見つめた。しかし一人だけ聞かされていなかった赤司は白也に詰め寄った。 「伯父貴?!光子がそんなことできるわけないでしょう?う、モゴモゴ」 「赤司は黙れ。おい。お前も抑えろ」 「おう!伯父貴。どうぞ続け」 長兄と次兄に抑えられた赤司が、悔しそうにしているのを白也は頷いた。 「よし!そのままでいろよ。ええと……」 「いや、ここは私が話す。光子さん。私は赤司の父親で黒也という」 二人の兄に抑えられた赤司の前、今度は黒也が話した。 「君のおかげで赤司が元気になったと聞いている。それで今回の頼みだが、どうか引き受けてくれないだろうか。我々もこの結婚には賛成しているんだ」 親戚は集まるこの日で決着つけたいと黒也は光子に頼んできた。しかし隣の席の赤司の母の藤子は面白くなさそうだった。 「でもあなた。こんな看護婦に務まるのですか?それに返って緑郎の恥になるのではないかしら」 扇子を広げた藤子は意地悪く光子を見た。白也は、まあまあと制した。 「藤子さん。心配はもっともだが、親戚や関係者に顔を知られていないのは光子さんだけなんだよ」 「そうだぞ。藤子。それにこのことを我々は知っているんだ。親戚に挨拶だけしてもらって、それで部屋に下がって貰えばいいじゃないか」 白也と黒也の説得はこうして続けられた。兄達に解かれた赤司も作戦に参戦し、でも、しかし、と柳下一家の論争は続いた。 そんな中、話の外の光子は、ふと出されたお茶を両手で握りしめて、見つめていた。 ……竹子さんは、悲しそうだったな。 湯呑みのお茶の色を見た光子は、竹子の気持ちを思うと、気の毒になっていた。 「君、あの」 「緑郎さん」 必死の彼の顔は、赤司の顔に似ていた。光子は思わず立ち上がった。 「うるさくてすまない。だがどうだろう?僕と一緒に挨拶だけしてくれればいいんだ」 「でも、ご親戚に再会した時が問題だと思うのですが」 「問題ない。僕らはこの後、東京で仕事をするんだ。今回の親戚には、当分会うことはない」 ……奥さんのために必死なのね。 そして。自分を見つめる緑郎が赤司に見えた光子は、覚悟を決めた。 「わかりました。ご挨拶だけ」 「本当かい?ありがとう……ああ、父さん、母さん、光子さんが良いって」 嬉し声の緑郎であったが、今度は赤司が怒って光子に向かってきた。 「光子。なぜ引き受けた?お前は俺の看護婦だろう」 「竹子様が気の毒ですもの。それに挨拶だけですし」 「だが……」 ここ白也が赤司の背をむんずと掴んだ。 「赤司。これも緑郎のためだ。光子さん。すまないが頼んだよ」 こうして光子は緑郎の妻とし夜会に参加し、挨拶をして回ることになった。 赤司の実家の祝いの席は、大作戦が始まることになった。 ◇◇ 「まあ、ドレスの大きさがぴったりです」 「よかったです。でも、ごめんなさい私のせいで」 「いいのですよ」 竹子に心配しないでと小首を傾げた光子は、彼女のドレスを借り支度を進めていた。竹子は足が痛むため、座りながら光子にドレスを紹介していた。 「ええと。このリボンはってどうつけるんだっけ」 「竹子さん。これはこういうふうに付けるんですよ。私、一人でつけられます」 子爵令嬢だった光子は、慣れた手つきで身支度をしていた。そして化粧品も借りた。竹子の顔を鏡越しで見ていた光子は、彼女に少し似せて化粧をしていった。 眉の形を似せて描くと、輪郭を似せるために若干暗めの白粉を頬に叩き、竹子の輪郭に近づけた。他にも目元の化粧を同じようにしてみた。 「口紅も……こんな感じで」 「すごいです。光子さん」 竹子の方が少し口が大きかった。このため光子は自分の唇よりも大きく紅を引いた。 「あとは手袋だけですけれど。どうでしょうか」 「お似合いです!っていうか、光子さん。私もよりもお似合いです……」 竹子は光子よりも年上だった。これのせいもあり、今夜の光子は大人っぽく変身した。 「そんなことないですよ。あ。誰か来ましたよ」 ノック音に返事をすると、扉からは緑郎と赤司が入ってきた。 「え」 「こ、これは……」 ドレスを着こなしている光子に、驚いた緑郎は密かに竹子に確認した。 「竹子。これはお前のドレスだよな?」 「そうです。これはお義母様からいただいたドレスで、豪華すぎて私はちょっと苦手だったのだけど」 光子の着こなしに驚く緑郎夫婦をよそに、赤司は他の部分を気にしていた。 「光子。それは背中が空きすぎだろう。いいか?この腰のリボンをもっと上で縛って」 「ええ?せっかく綺麗に結んだのに」 「うるさい!じっとしろ。俺が縛り直してやる……こうしてリボンを大きく結べば」 「キツイです」 「くそ。何をしてもダメだ。このドレスめ」 光子の肌が見えないように必死に直している赤司に緑郎は、まあまあと肩に手を置いた。 「赤司、それは俺が隠すから」 「だが……ん?」 ここで光子がじっと赤司を見つめた。 「赤司様、ご心配しなくても光子は寒くないですよ」 「え」 「背中が空いていても、今日は暑いくらいですもの」 「え?光子さん。赤司が心配しているのはそこじゃ」 「し!緑郎さんは黙って。赤司さん。本当にすみません。私のせいで」 謝る竹子に恥ずかしさを隠し、赤司はやれやれで頭をかいた。 「わかった。とにかくお前は挨拶だけしたら消えろ、約束だぞ」 「はい」 「赤司。それは俺が守るから。ここは堪えてくれ」 こうして三人は竹子を置いて、部屋を出た。 廊下に出ると早速、親戚らしき老女がいた。 「まあ、緑郎さん。それに赤司さんも。久しぶりですね」 「はい。おば様」 「お元気そうで何よりです」 緑郎と赤司の社交辞令に微笑んだ彼女は、ふと。光子に視線を向けた。 「そちらの方は?」 「ああ。これは私の妻です。竹子」 「は、はい、お初にお目にかかります。竹子と申します」 緑郎と赤司を背に光子は丁寧にお辞儀をした。これを受けた彼女は、ジロジロと光子を見た。 「あなた、確か下町生まれだそうね。お父様は何の仕事をなさっているの」 「おば様。それは」 「ええと、それは我々が」 緑郎と赤司が狼狽える中、光子は平然と答えた。 「……恐れ入ります。私は柳下家に嫁いだ身です。実家の父は私を送り出してくれたので、今は緑郎さんの事しか考えておりません」 「え」 素直に話す光子に、老女は絶句していた。これを緑郎が庇うように光子を背にした。 「お、おば様。すみません、妻は緊張しておりまして」 「失礼します。行くぞ」 光子を囲い、逃げるように後にした兄弟はまた、他の親戚に会ってしまった。 「やあ。緑郎君。そちらが例の嫁さんか。私の娘との縁談を断ったんだから、さぞかし素晴らしい女性なんだろうね」 「おじ様。恐れ多いことです」 「それよりも良い天気ですね」 緑郎と赤司が誤魔化したが、彼は光子を見下ろした。 「君か……港の船会社の事務員だったそうだね。玉の輿に乗れた気分はどうだい?」 「おじ様!あの、それは」 「こっちで酒でもどうですか」 緑郎と赤司が狼狽える中、光子は目をパチクリさせて答えた。 「玉の輿との事ですが……そうですね。私が乗る、というよりも、私が緑郎さんを担ぎたいと思っています」 「え。緑郎君を?」 「はい。微力ですけれど」 「ははは。竹子は人見知りで」 「おじ様。ではまた!」 誤魔化した柳下兄弟は、やっと誰もいない廊下の隅にやってきた。 「それにしても。ふふふ」 「担ぐって……お前は」 笑う二人を光子は真剣に見ていた。 ……そんなにおかしいかしら。 自分が妻だったら夫を支えたいと思っていた光子は、笑われたことが腑に落ちなかったが、この後も多くの親戚に嫌味を言われた。 「あなた。そんなことも知らないの?」 「そうなのです。奥様、ぜひ教えてください」 「ちょっと。あなたね、緑郎さんと結婚できたからと良い気にならないでよ」 「……『良い気』というのは良い気分ということですか?でも緑郎さんが優しいので、毎日良い気分になってしまいますね」 「よろしいですか。竹子さんとおっしゃいましたね」 「はい」 緑郎に見合いで断られた経験のある親戚の娘は、美しく飾っていた。そんな娘は光子を見つめた。 「先ほどから聞いていますけれど。私たちを馬鹿にしているの?」 「決してそのようなことはありません」 「その態度よ!偉そうに」 彼女は光子に迫った。 「私はね。昔から緑郎さんを知っているのよ。途中から来たあなたなんかに緑郎さんの何がわかるって言うのよ!」 「……それは」 「何よ」 「そうですね。わからないです」 光子は彼女に向かった。 「確かに私は全く何もわかりません」 「え?」 「だから。これから知っていきたいと思います」 真面目に返す光子に、相手の女性はぎりぎり怒り出した。 「それが生意気だと」 「もういいだろう」 ここで緑郎がやっと入ってきた。 「皆さん。改めてご紹介します。妻の竹子です」 光子は流れで頭を下げた。この言葉に参加者は注目した。 「僕達は、このように未熟者です。ですがこれから二人で学び成長していきたいと、今宵の席で、強く思いました。これからもどうぞ、僕達をよろしくお願いします」 この若い二人の挨拶を、白也が拍手した。すると他の者も拍手した。こうして偽の二人は腕を組んで会場を後にした。 「竹子さん。ただいまです」 「光子さん。どうでした」 「なんとか、終わりましたよ。ね?緑郎さん」 「……光子さん。本当にありがとう」 緑郎は改めて光子に頭を下げた。光子はこれを制した。 「いいや、今夜は君じゃないときっとダメだったと思う。本当に、本当にありがとう」 「光子さん。私からもお礼を言います」 「緑郎さん。竹子さん」 ……二人とも、お互いのために。 支えあう緑郎夫婦に感動した光子こそ、涙をぬぐい礼をした。そして二人きりにしようと部屋を出た。 「あ。いた」 「赤司様……私」 「こっちに来い」 赤司は誰もいない部屋に涙の光子を連れてきた。 「なぜお前が泣いているんだ?」 「ううう……お二人に感動して」 「お前な」 長椅子に座りドレス姿で泣いている光子に、赤司は呆れていたが、微笑んだ。 「まあ。ともかく。お前はよくやった」 「そうでしょうか……途中、怒った人がいましたけれど」 「気にするな。それよりも」 「はい?」 赤司は光子を立たせた。 「誰にも触られなかったろうな」 「は、はい」 ……よし。俺のつけた後も残っているな。 光子は気がついていないが、赤司がつけたキスマークがうっすら首筋に残っていた。これを付けたことで光子が自分の物のようになっているようで彼は安心していたが、それでも光子の細い腰が気になった。 「緑郎兄貴もか」 「腕は組みましたけれど」 不機嫌な顔の赤司がいるこの部屋に、ふと音楽が溢れてきた。大広間ではダンスが行われているようだった。 「踊れるか?」 「少しなら」 「踊るぞ」 「ここでですか」 「ああ。少しは俺の相手をしろ」 こうして二人は踊り出した。二人だけで踊るのはどこか滑稽で、そして楽しかった。 「ところで。あの嫌味攻撃をよく交わしたな」 「嫌味でしたか?私、必死でしたのでわかりませんでした」 それにしてもスラスラ言葉が出たと踊りながら赤司は笑った。 「考えてあったのか」 「いえ……でも。私、緑郎さんがずっと赤司様に見えていたんです。だから、赤司様だと思って、頑張りました!」 「俺って?お前な」 ……俺の嫁になった気分で答えたと言うことか?くそ、嬉しすぎる。 「あのな、光子。それはつまり」 「失礼!お、光子さん、よくやったな」 「白也様」 部屋に入ってきた白也に二人はダンスを止めた。白也は上機嫌だった。 「ありがとう。黒也も君に感謝しているんだ。ん。赤司は何をしている?」 「……別に。それよりこれで終わりですか」 ダンスを中断させられた赤司は膨れていたが、白也は赤司に顔を出さなければならないと告げた。 「だが、光子はこれで終了だ。ゆっくり休んでくれ」 「はい。わかりました」 「伯父貴は先に行ってください」 せっかく踊っていたのにつまらなくなった赤司は、ふと光子を見た。 「どうした」 「ドレスを脱ごうと思うんですけど、このリボンが外せない……」 「俺が結んだせいだな。どれ」 光子の背後の回った赤司は、背のリボンを解いた。その際、そっと背中に口付けをした。 「赤司様?くすぐったいです!」 「俺が部屋を出たら鍵をかけろよ。俺以外は開けるな……わかったか」 「はい」 そして赤司が親戚の集まりに戻ると、ダンスは終わり何やら話が盛り上がっていた。 「お。赤司」 「黄一兄貴。やっぱり今回は」 失敗だったかと赤司は不安顔であったが、彼は首を横に振った。 「違うんだ。みんな彼女をほめている」 赤司の長兄はワインを飲み、そう語った。 「俺の嫁だって未だに嫌味を言われて泣いているのに。お前の看護婦は凄いな」 「……ああ。そうなんだ。俺も全く敵わないんだ」 「へえ」 肯定した赤司は、嬉しそうに兄からグラスを受け取った。 「でも、ただの看護婦なんだろう」 「今、はね」 「そうか……それは楽しみだ」 弟が頬染める様子に長兄はグラスを掲げた。こうして誕生日会は終わった。 「おい、光子。ここをあけろ!俺だ」 「どうした赤司」 「伯父貴。光子が中で寝てるみたいで」 仕方なく鍵を借りてきた赤司と白也が部屋に入ると、光子は確かに部屋のベッドで混々と眠っていた。 「ん……すみません。夜ですね。私。寝ずの番をします」 「いいから寝てろ。今夜は起きてるから」 「そうは参りません……ええと」 しかし。寝ぼけている光子は無理だと判断した彼らは、このまま光子を寝かせることにした。赤司は一晩中、兄二人と酒を交わし、朝まで過ごしていた。 ◇◇◇ こうして実家を過ごした赤司は、茶子祖母に挨拶をし、帰りは白也の車で送ってもらうことになった。 「光子さん。本当にお世話になりました」 「こちらこそ竹子さん。それよりも足をお大事に」 「僕からも礼を言わせてほしい。というか、今度、東京に遊びにきてほしい、赤司と」 「私がですか?どうしましょうか。赤司様」 「お前な……」 困惑している光子に、赤司は頭を抱えた。 「俺と行くのは嫌なのか」 「いいえ?でも私は看護婦だから」 「赤司は黙れ。あのね、光子さん」 緑郎は妻を隣に光子に微笑んだ。 「赤司は君が好きなんだ。だから君さえ良ければ、仲良くしてやってくれないか」 「それは私たちもです。またお会いしたいです」 「緑郎さん、竹子さん……それは、光栄です」 ……挨拶をしなくちゃ。 光子は緑郎夫婦に、思わず一歩さがり丁寧にお辞儀をした。 「緑郎様。竹子様。この度は本当にありがとうございました。ぜひ、またお会いしましょう」 綺麗な挨拶に一堂はハッとした。 「こちらこそ、赤司、気をつけて帰れよ」 「わかっている!光子、帰るぞ」 赤司は後部座席に光子と乗った。運転する白也は、出発するぞと、後ろを振り返った。 「え。もうかい」 「はい。このままで大丈夫です」 光子の肩に甘えるように赤司は眠っていた。光子は彼の重みを嬉しく受けていた。 ……ああ、やっと赤司様のお世話ができたわ。 横浜の夏、坂道の先の海は青く、光子に眩しさを湛えていた。 完
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