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一 燃える悲しみ
「……ん、ごほごほ」
寝ていた光子はせき込んで目が覚めた。真夜中のはずなのに部屋のドアの向こうは明かりが点いているようにすき間から光りが漏れていた。
……あ、でもこれは。
気が付けば足元には煙が彼女を絡めるように侵入していた。そしてドアの向こうからはパチパチという音が寝間着の彼女の心に汗をかかせた。
……逃げないと!
必死の光子は窓から外に出た。裸足で芝生を歩いた光子が見た屋敷は、漆黒の闇の中、炎に包まれていた。この時、彼女は咄嗟に弟が寝ている部屋の窓を屋外から必死に叩いた。
「起きて!起きて信孝!火事よ!」
……ダメだわ。起きない。
起きない弟に業を煮やした光子は庭の石を拾い窓ガラスを破った。そして必死に窓から入り、弟を起こした。
「姉さん?……え、火事って、お父さんとお母さんは?」
「きっと大丈夫、さあ、早く外へ」
弟を助けることに必死だった光子は、屋敷を脱出すると広い庭から燃える屋敷を見ていた。日本家屋の屋敷は絶望的に炎に包まれていた。
「姉さん。これは」
「大丈夫よ。きっと。お父様もお母様も逃げだしているわ」
光子は助けが来るまで弟を抱きしめていた。落ち葉が嵐のように舞う秋の夜は恐怖の炎に包まれていた。
やがて半鐘が鳴らされ消防関係者が火消しに当たってくれたが、二人は生きている両親に会うことはなかった。
◇◇◇
それから数か月後。光子と信孝は父方の実家の桜井家の本家に身を寄せていた。この日、女中姿の光子は応接間で父の兄である桜井団十郎に呼び出された。
「光子、お前に話がある」
「はい」
「まずはお前の実家の売り先が決まったよ」
「本当ですか」
……良かった。
ホッとしている光子に暖炉の薪はパチパチと温かい音で包んだ。
安堵で胸を押さえた姪を団十郎は冷たく頷き、葉巻に火を点けた。
「これでお前の両親の借金は帳消しになったからな」
「お世話になりました」
頭を下げた光子に団十郎は葉巻の煙を吹きかけた。
「少し金額が余ったが、それは今後の信孝の養育費に充てることにする。お前の分はないが、借金がないだけありがたく思え」
「はい」
「そして、お前達、姉弟の今後だが」
団十郎は光子を見つめた。
「信孝は桜井家の名を継ぐ大切な男児だ。よって私の元で養育をする」
……ああ、良かった。
「ありがとうございます」
「だがお前はここには置いておけない」
「承知しております」
父は伯爵であったが、母は一般人であった。そんな二人の結婚は親戚中から反対された過去があった。
結婚後も本家と壁があったが弟の信孝は父親似であったため幼い頃から親戚に可愛がられていた。しかし光子は母親そっくりであったため、親戚には冷遇されて過ごしてきた。
火事で両親と家を失いこの屋敷に身を寄せていたが、光子は女中服を着せられ慣れない家事をさせられていた。
弟の幸せだけを望む光子はこうなると思っていたが、その目は伯父をまっすぐ見ていた。
「伯父様 、信孝だけは、どうかよろしくお願いします」
「わかっている!まあ、それでだ」
伯父はテーブルに書類を広げた。
「それはお前の勤務先だ」
「上野病院、これは?」
「見ての通り、病院の看護の仕事だ」
伯父はそうに葉巻を灰皿に置いた。
「だいたい、お前は仕事などした事が無いだろう。だから病人の世話の仕事を探してやったんだ」
「看護……私が」
「別に嫌なら構わんぞ。自分で他を当たればいい」
……そうね。今の私に選択肢などないわ。
実家の火事の後始末と弟の養育だけが心配だった光子は、書類を胸に抱いた。
「いいえ。こちらに行かせていただきます」
「その前に、一つ条件がある」
彼は面倒そうに髪をかき上げた。それは光子に桜井家を名乗らせない事が条件だった。
……そこまでして私を排除したいのね。
実の姪を結果として追い出す伯父の気持ちを思えばそれも致し方ないと光子は唇を噛んだ。
「承知しました、伯父様」
伯父の最低限の恩に対し、光子は立ち上りしっかり伯父を見つめた。
「本当にありがとうございました。これからは信孝を、どうぞよろしくお願いします」
頭を下げじっと伯父を見つめる瞳は真剣だった。この覚悟の姪にさすがの彼も思わず息を呑んだ。
「ああ」
「失礼しました」
そう言うと光子は部屋を出た。そこには伯母がいた。
「これでやっとお前の顔を見ずに済むわ」
「伯母様。信孝をどうぞよろしく」
「言われなくてもやります!ああ、それにしても何てお前は憎らしいのでしょう」
伯母は憎々し気に光子の胸元に扇子を突き付けた。
「信友さんは元々私のお友達と結婚する予定だったのよ!それをお前の母親が横取りをして、挙句に二人でこんなに早く亡くなるなんて」
……またその話。
光子を見れば父の昔話を繰り返す伯母は鬼の形相だった。それでも光子は弟のために頭を下げた。
「すみませんでした」
「その態度!全然悪びれていないじゃないの」
「う」
伯母は光子の首元に扇子を当て、顎を押し上げた。
「火事を起こしてこっちに迷惑かけて……」
「すみま」
「この疫病神!」
伯母は扇子で光子の頬を打った。
「こいつめ!謝れば済むと思っているんでしょう!ちっとも反省していないくせに」
伯母は何度も何度も光子を打った。光子は思わず手を顔を防御した。
「申し訳ありません、伯母様」
「はあはあ。早く出て行ってちょうだい!お前の顔なんか二度と見たくないわ!」
堅い扇子は光子の瞼や頬を切った。薄く血線が流れる光子はそれでも伯母に会釈し、顔を整え弟の部屋を訪れた。
「姉さん、その顔どうしたの」
仲良しの従兄妹から譲られた本を読んでいた信孝は姉を不安顔で見つめた。
「ああ、これ?猫に引っかかれたのよ?それよりも信孝。姉さんはこの屋敷を出ることになったのよ」
「え、僕も一緒に行くよ」
「信孝。それはできないの……」
不安そうな弟は十二歳。光子は傷と涙顔を隠すために弟を抱きしめた。
「姉さんは病院の看護婦さんをする事になったの。できるかどうかわからないけれど、人の役に立つのなら姉さん、頑張るわ」
「でも、僕だけここにいていいの」
「もちろん。伯父様も伯母様も優しいでしょう」
「うん」
父親似の弟を伯父夫婦と従兄弟達は可愛がってくれていた。この唯一の心を光子は胸に抱きしめた。
「ここからだと学校に近いし、姉さんもいつだって会いに来るわ」
「本当?」
「ええ。だからお前はこの屋敷で頑張って欲しいの」
光子は涙をこらえ弟に頬寄せた。
「天国のお父様もお母様も、応援してくれるはずよ」
一緒に暮らしたい気持ちももちろんあったが、伯父夫婦は信孝を可愛がっている現状を見ると、この選択が今は最良だと光子は悲しい選択をした。
「わかった……僕、ここで頑張るよ」
姉の覚悟を知ったのか、弟も姉を抱き返した。両親を失った二人は互いの絆を確かめるように抱き合っていた。
「いい子ね。大丈夫よ」
光子はそっと少年の頭を撫でた。そして夜、彼女は何とか伯父に許しをもらい、弟の横で眠った。健やかに眠る弟を目に焼け付けた光子は、翌朝、桜井家の人力車にて紹介された勤め先へとやって来た。
◇◇
「光子様。ちょっと停まります」
「はい」
人力車の担当の男は誰もいない道で停車した。彼は汗を拭い光子に向かった。
「お嬢様。今回の事、私は力になれず申し訳ありません」
「いいのよ。佐助」
彼は光子の屋敷の人力車係りの男だった。彼は火事で仕事を失った後、桜井家の本家の人力車係りとして雇用されていたが、仕えていた光子が追い出されることに胸を痛めていた。それは光子も良く分かっていた。
「しかし、自分だけが本家に残るなんて」
「本当にいいのよ。あなたには家族がいるじゃないの」
光子は俯き膝を付く元従者に笑顔を見せた。
「それよりも、信孝をお願いね」
「もちろんです。それとですね」
佐助は人目が無いことを確認して話し出した。
「実は旦那様と奥様は、お嬢様を表に出さないために病院の仕事を紹介したようなのです」
佐助は、本家に雇用された妻のマミからの情報を話した。
「当初、旦那様はお嬢様に女中の仕事を紹介しようとしていたのですが、そうしてしまうとお嬢様を追い出したことが世間に知れてしまうと奥様は反対したそうで、それで旦那様が閉鎖的な病院にしたそうです」
「そうだったのね」
桜井家の令嬢として女学校や夜会に参加していた光子は、伯父夫婦の考えに悲しく納得した。
「それで、あの」
「佐助、もうそれはいいのよ」
「お嬢様」
……それに、この方が都合がいいもの。
もし華族の屋敷の女中の場合、自分の知り合いの屋敷になる可能性もあった光子は、今はこの病院で良かったと思っていた。
「女中だってうまくできるとは思えないし。それに看護婦の仕事は向こうがきっと教えてくれると思うから」
自分に言い聞かせるように話す光子に、佐助は一歩前に進んだ。
「お嬢様。私達夫婦で考えたのですが、やはりこのままうちの家内の実家に行きませんか」
「え」
佐助は必死に訴えた。
「ここに地図があります。それに電車賃もあります。マミの実家は農家でお恥ずかしいですが」
「佐助」
彼が差し出した地図は粗末な紙に書かれていた。そんな彼が差し出した紙幣は、古く汚れて彼の手も傷だらけだった。
「これしか用意できませんでしたが。これなら田舎までの切符が買えますので」
「佐助」
必死の彼の目に、光子は心が震えた。
……使えないわ。こんな大切なお金を。
実家で過ごしていた時は家族同様の付き合いをしていた佐助夫妻の温情に光子は涙がでた。しかし彼女は彼の差し出した手を、そっと返した。
「佐助。ありがとう。気持ちだけ頂きます」
「お嬢様?だめです、どうか使ってください」
「本当にいいのよ、それにね」
逃亡したら弟に会えなくなると、光子は哀しく目頭の涙を拭った。
「だからいいのよ」
「お嬢様……」
「さあ。行きましょう。ね?」
涙の佐助は光子を乗せて人力車で目的の病院に到着した。
「着きました。お嬢様、本当に良いのですね」
「ええ」
光子は彼に手を取ってもらい車から降りた。
「そんなに心配しないで。佐助、マミにもよろしくね」
「……お嬢様。せめてこの地図だけでもお持ちください」
余りに熱心な佐助の手前、光子は地図だけ受けとった。
「わかったわ。そうだわ。お守りに入れておきます」
「本当に、何かあれば言ってください」
「……佐助、ありがとう。では、行ってきます」
案ずる佐助に笑顔を見せた光子は、覚悟を決めて病院のドアをノックした。
風呂敷包だけの光子の病院勤務はこうして始まった。
◇◇
上野病院は総合病院であった。人手が足りないという看護婦長は、若い光子を小児病棟の担当に配属させた。資格がないため助手としての仕事であったが、弟を持つ光子は、両親と離れ入院する幼い子供の相手をして行った。
そんな光子の礼儀作法や仕事が丁寧な様子を見た看護婦長は光子の素性を即座に見抜き、本人から事情を確認した。秘密を約束した光子は事情を話すと、看護婦長は看護師の試験を受けるように勧めてくれた。温かい言葉を胸に光子は仕事と勉強を両立させ、看護婦の試験に合格した。
「信孝。元気だった?」
「うん!それよりも姉さん、おめでとう」
合格した春の休み。光子は弟と逢える日を迎えていた。伯父夫婦の屋敷で過ごしている弟は背が伸び、子供から少年になっていた。
光子も看護婦の仕事も慣れ、外出を許された二人で食事に来ていた。
「ここよ。ハヤシライスのお店なのよ」
「いい匂いだね。あ。あの席にしてもらおうよ」
子爵家で暮らす弟は頼もしく姉をエスコートしてくれた。光子もまた給料で買ったワンピース姿で弟と席に座った。
料理が来るまで弟は学校の話をしていた。
「すごい?また試験で一番だったの?」
「でも社会だけが二番だったんだ」
「そうは言っても。すごいじゃないの」
励ます姉に弟は、ため息をついた。
「何を言うんだよ。姉さんは全科目一番だったくせに」
「ううん。今だから言うけど体育は居残りだったのよ。ふふふ」
「それは僕もだ?ハハハ」
仲良し姉弟は楽しく昼食を共にした。そして会計となった。
「ここは僕が払うよ」
「ダメよ。姉さんの給料で」
「ダメだって!それは姉さんは取っておいて。あ」
しかし。この日も光子が支払いをした。信孝は不貞腐れていた。
「せっかく小遣いを貯めておいたのに」
「それはお前が自分で使いなさい、ね?」
そんな食後の二人は、公園を歩いていた。
「そうだわ。姉さんね、今度、配属が変わるみたいなの」
「同じ病院でしょう」
「違うみたいなの」
光子は風に髪を押さえた。
「どこかのお屋敷の男の子なんだけど、自宅で看護してくれる看護婦を探しているんだって。姉さん看護婦長さんに頼まれて、そこに行く事になったの」
「大丈夫なの?心配だな」
「大丈夫よ。さあ佐助のお迎えよ」
人力車で待機していた佐助の元に光子は駈け寄った。
「待たせてしまってごめんなさいね。これはクッキーなの。どうぞご家族で食べてね」
「お嬢様、いつもすみません」
「いいのよ。ほら、信孝。早く乗って」
「……姉さん」
自分よりも背の高い弟は心配そうに立ち止まった。
「ちゃんと手紙をくれよな」
「わかった。じゃあね。佐助、お願い」
「はい。お嬢様もお気をつけて」
人力車からずっと自分を見ている弟を目で見送った光子は、深呼吸をした。
……さて。仕事だわ。
夕暮れの匂いがする町を光子は自分の足で歩き出した。火事で両親を失ってから二年が過ぎていた。
◇◇◇
「ええと。ここだわ」
看護婦長の指示でやってきた光子は大きな日本家屋を見上げていた。そんな彼女は声をかけた。
「恐れ入ります。私、上野病院から参った者です」
「どうぞ、中へ」
出迎えてくれたのは執事は光子を見てほっとした顔で屋敷の応接間に案内した。
「佐藤光子さんですね。ここでお待ちください」
「はい」
母の旧姓を名乗った光子の紹介状を執事が受け取り、部屋を出た。待機の時間、光子は豪華な部屋を眺めていた。
「待たせたね」
「すみません、勝手に見てしまって」
笑顔で部屋に入って来たのは銀髪の男性だった。深いしわがあるが、端正な顔の男性だった。
「まずはそうだな。私は柳下白也と言う。この屋敷の主だ」
「初めまして。佐藤光子と申します」
「それよりも。今回は引き受けてくれて、本当にありがとう」
「え」
彼は頭を下げるので光子はびっくりした。
「旦那様。どうぞ、顔をお上げください」
「……いやいや。君に来てもらえるなんて本当に私は嬉しいのだよ」
そんな白也は事情を話し出した。
「見て欲しいのは私の甥なのだ。青正といってまだ八歳なのだな。実はおねしょで悩んでおるのだよ」
「おねしょですか」
青正の母は弟を出産し、現在、青正を気遣う余裕がないと白也は語った。
「父親も多忙なので私がこの屋敷で預かっているのだ。しかしあいつはまだ母親が恋しいのだろうな。私の妻も青正に優しくしているのだが、私達夫婦には子供がいないので、どうもうまくいかないのだ」
「そうでしたか」
おねしょの相談のため上野病院に通院していた青正と白也は、偶然、庭で怪我の子供の相手をしていた光子を見かけたと話した。
「その時、君が青正に話し掛けてくれたんだ。人見知りするあいつが君と話をしていたので。私は藁をもすがる思いで看護婦長に頭を下げたんだ」
「あの看護婦長に?」
仕事の鬼の看護婦長は、人にも自分にも厳しい人であった。お金や甘い言葉で動く人ではない事を光子は良く知っていた。
「ああ。君は子供に一番人気がある看護婦なのでダメだとはっきり断られてね」
「あの、それをどうやって説得されたのですか」
白也はため息をついた。
「三回通って、最後は病院長に頼みこんで、やっとだよ」
……それで、私に依頼が来たのね。
なぜ自分にこの仕事が来たのか不思議だった光子は、疑問が解けてすっきりした。
「わかりました。では、さっそく青正様の看護をさせていただきますね」
「ありがとう」
こうして光子は少年の看護兼、子守りとしてこの屋敷で住み込みの仕事をするようになった。
「光子。一緒に遊ぼう」
「はい!今日も負けませんよ」
光子は医師の指導の通り、少年に運動をさせ食事の管理も行なった。さらに心の不安についても光子なりに対処していった。
この日、屋外で運動した青正はたくさん食べて、就寝した。
「今夜はどうかしら。光子さん」
「奥様。それについてこちらで報告しますね」
青正が眠った夜。光子は柳下夫妻に青正について報告した。
「おねしょについてですが。理由の一つとして、体が未発達のせいかと思われますね」
「そ、そうなの?」
「確かに。あいつは年齢にしては小柄だしな」
奥方は雪子は驚き、白也は腕を組んだ。光子は二人の前に紅茶のカップを置いた。
「はい。それ以外の別の理由も考えられそうですね」
自分も座りカップを持った光子は、青正が塩分の取りすぎで水を飲みすぎていた事や、廊下の話をした。
「あの子は漬物が好きなのでつい与えすぎていたのね。それと廊下って何かしら」
「奥様。お手洗いに行く途中の壁に、能面が飾ってありますよね」
「あ、ああ。あれは祖父の骨とう品だな」
「あれがどうしたの?」
夫婦に光子は語った。
「私もですが、ちょっと怖いですよね」
他にも大人は平気な事でも、青正にとってはお手洗いに行く行為が怖い事が多くあると光子は語った。
「まあ、お手洗いの扉の音が怖いのですか?」
「ただの扉だと思うが」
「はい。でも締める時『ギギギ』と言うのです。それも青正様は怖いのかもしれません」
光子の細かい指摘に中年夫婦は、驚いていたがすべてを改善させていった。
そして青正と過ごす光子は、少年に優しく諭していった。
「そう、光子も弟ができた時、さびしかったんだね」
「はい。今まで両親を独り占めしていたので、そんな気持ちになりました。でも弟の事は大好きですよ」
「そうか。早く僕も一緒に遊べたらいいな」
寂しそうな少年に光子は語った。
「それもいいですが、光子は他に楽しい事を見つけたんです、例えばこれです」
「これは……小さい木?」
「そうです!」
一緒にいた春の庭にて、足元に発見していた緑の芽吹きを彼の紹介した。
「この木は桜なので、この下に生えてるいるのも桜の木でしょうね。これを土のまますくって、盆栽にすると楽しいですよ」
「へえ、小さくて可愛いね」
白也に断りをいれておいた光子は、さっそく青正と土を掘り桜の小さな盆栽を作った。
小さな木の世界に興味を持った青正は、これ以降、盆栽づくりに夢中になった。その時間の色は、少年の寂しい心を楽しい色に変えていった。
こうして一か月も経たず、青正のおねしょはぱったりと止まった。
「光子。おはよう!」
「青正様、もう起きていたのですか」
「うん。今朝は雨は降らなかったからね。盆栽の水が気になるんだ」
この日も元気に自分で起きた彼の成長に光子は嬉しさを抱えていた。
そんな光子は午後、夫妻に呼ばれた。
「ありがとう光子さん。青正君があんなに元気になったのは、あなたのお陰よ」
「本当に感謝しているよ。君は我が家の救世主だ」
「そんなことありません!旦那様と奥様の深い愛情のお陰ですよ」
子供がいないという彼らは、青正を心から可愛がっていた。そんな夫妻の愛情に光子の方こそ感激していた。
「そんな君に話があるのだ」
「光子さん。青正君は実家に戻ることになったのよ」
「そうですか。よかったですね」
青正の両親はずっと彼を思っていたが、ようやく幼い弟の育児に慣れたため、彼を迎えに来ると白也は話した。光子もこれにホッとした。
「では、私は病院に戻りますね」
「いや、それなんだが」
「光子さん、実はもう一人いるのよ……」
「え」
ため息がこぼれた部屋で白也が語り出した。それは彼の甥の話だった。
「私の二番目の弟の息子で、名を赤司という。まあ、見た目は健康そのものの青年なのだが。夜、うなされる病なんだよ」
「うなされる、とは?」
「……これは、内密にしていただきたいのだが」
白也は苦悩の髪をかき上げ、語り出した。赤司は宮内庁警備の軍人であるが、ここ半年の間、夜、無自覚で起き上がり屋敷内を彷徨っていると語った。
「でもね、光子さん。赤司君はまったくそれを覚えていないのよ」
「奥様、それについて専門の病院には行かれたのですか」
苦悩が見える白也は、首を振った。
「それはできない。今は主治医が診ているだけだ」
「どうしてですか。もしかしたら治るかもしれないのに」
ここで白也は気を静めながら語った。
「そうだね、だが赤司は軍人でしかも男爵家になる。そういう病が世間に知れることは彼にとって致命傷なのだよ」
そんな夫妻は、このまま光子に赤司の看護をしてほしいと頼んできた。
「でも。私は看護婦長に聞かないと」
「それなら問題ない!正式に頼んできたよ」
「お願い!光子さん」
二人の願いはわかるが、光子としては判断できない案件だった。そんな光子は一旦、上野病院に戻り、看護婦長の指示を仰ぐことにした。
「婦長、私はどうすればよいのでしょうか」
「その事についてですが。実は光子さんが担当していた小児病棟は閉鎖されることになってしまったのです」
従来より規模が小さかったため、隣町に立派な小児病棟が作られたと看護婦長は話した。
「今戻ってもあなたが担当していた小児病棟はないのです。だから、今はその柳下様の看護で勉強するのが良いと思いました」
「ですが。私は子供の担当しかしたことがありません。大人の男性は」
「光子さん、患者は患者ですよ。それにです」
光子は他の看護師と違い、礼儀作法が良いと看護婦長が話した。
「今回のように男爵様の患者などの看護はとても気を遣います。でもあなたなら大丈夫ですよ」
「ですが、私、そんな病なんて」
「看護婦長、すみません、急患です」
「今行きます。とにかくそういう事です。良い機会ととらえて勉強してらっしゃい」
「はい……」
……確かに患者は患者ですものね。
忙しい看護婦長に理由を聞いた光子は、覚悟を決めて白也の屋敷に戻った。そして仲良くなった青正を涙で見送ると、白也の案内で今度の屋敷へ移動した。
二人は列車に揺られていた。そこで光子は赤司の家について詳しく話を聞いた。
「我が柳下家は男爵家を名乗っているが、元々は横浜で金属の輸入を営んでいてね。その功績により爵位を賜ったのだ」
「横浜が元なのですか」
「そう。私の父は明治陛下の護衛を務めたのでね。私も宮内庁警察にいたんだよ」
そんな銀髪の白也は妻の実家で隠居生活を送っていたが、今回の患者は横浜の本家にいると語った。
「赤司も私と同じ宮内庁警察の軍人なのだ。あいつは現在、任務のため横浜の柳下本家で過ごしているのだ」
その任務については重要なので詳しく説明できないと白也は話した。
「ただ心配しないでほしい。あいつはある施設の警備をしているだけなんだ」
「でも。夜うなされるのですね。それはお気の毒ですね」
そして二人は横浜の南西部にある根岸の町に着いた。目の前に広がる海に光子の声が弾んだ。
「綺麗ですね」
「『ミシシッピベイ』とペリー総督が呼ばれたそうだよ」
「うわ……遠くに船が見えるわ」
太陽が光る穏やかな海に光子は思わず目を細めた。青空と遠くに船が見える美麗な光景にうっとりしつつ、二人は丘の上の赤司の屋敷へ移動して行った。
「ここだよ」
「赤司様は、お一人でお暮しなんですね」
根岸台と言われる丘の上にある西洋式の建物を光子は思わず見上げた。
「そう独身だが、使用人と住んでいる。さあ、どうぞ」
白也の案内で進んだ光子を老執事は疲れた顔で対応した。
「お待ちしておりました。では、本日からお願いします。荷物はそれだけですな」
「はい」
「……そうでした。あなたに約束して欲しい事があります」
老執事は真顔を向けた。すごみのある顔に光子はごくんと唾を飲んだ。それはこの屋敷で起こった出来事は誰にも話してはいけないというものだった。
「はい」
「光子さん、申し訳ないね」
「承知しております。守秘義務は当然ですもの」
……それにしても、陰気な雰囲気だわ。
素敵な洋館であるのに暗い感じがする廊下を、光子は進んだ。
「坂上。赤司はいるんだろう?」
「はい、どうぞ挨拶をお願いします」
「はい」
執事の坂上の声に緊張の胸を押さえ光子は居間に進んだ。そこには軍服姿の男性がいた。海が見える窓辺に立っていた広い背中に白也は声を掛けた。
「赤司。お前の看護師を連れてきたぞ」
「初めまして、私は」
「名乗らずに良い」
「え」
振り向いたその目は冷たい色だった。
「どうせすぐ辞めるのだ……覚えるつもりはない」
「おい、赤司!」
そして彼は部屋から出て行った。執事と白也はため息をついた。
「すまない光子さん」
「いいえ。いきなりですものね」
「……では、これからあなたの部屋へ案内します」
窓の外はまぶしい春の日差しの世界が広がっていたが、屋敷の中はひっそりしていた。
……でも、目が悲しそうだったわ。
風呂敷一つの光子は奥の窓の外を見た。緑濃い庭と青空に包まれたこの日、海が見える根岸の町の屋敷で光子の看護婦生活が始まった。
一話「燃える悲しみ」完
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