二 狼男爵

1/1
前へ
/42ページ
次へ

二 狼男爵

「柳下。おい!赤司(あかし)、聞いているのか」 「あ。ああ?すまない」 宮内庁警備隊の訓練後、控室の柳下赤司は椅子に座ったままいつの間にかぼんやりしてしまった。これを仲間が冷かした。 「最近、お前、おかしいぞ、もしかして恋でもしたのか」 「この前も警備先のお嬢さんに恋文をもらっていたそうじゃないか」 「色男は違うね」 「ばかばかしい!」 赤司はいら立ちをそのままに仲間に背を向け部屋を出た。そんな彼を背後から追う足音がした。 「おい。待てよ赤司」 「ほおっておいてくれ」 しかし幼馴染の本牧良晴(ほんまきよしはる)は彼を追い一緒に庭に出た。足早に進む二人は夕日を望む訓練場を前に、階段に腰を下ろした。 時は大正。横浜の街は異人が行き交う貿易の街である。この港を見下ろす伊勢山には御用邸がある。これは明治天皇の東北、北海道巡行からの帰路の際の使用となった横浜御用邸である 美しく厳かに港を見下ろす二階建ての別荘は、現在、皇族が伊勢神宮の神祭を行う事と、ご静養のため長期宿泊をしていた。 彼らを守る宮内庁警備隊は、この警備のため皇族に同行しており、実家が横浜である柳下と本牧はこの任務に抜擢され、警備の職についていた。 「あいつらの事は気にするなよ」 「わかっているが、どうにもな」 潮風が揺らす黄昏色のカーテンと青い海と鴎の世界。本牧は赤司の神経質な横顔を不安そうに見た。 「赤司……そろそろ聞かせてくれよ、彼女とは本当の所、どうだったんだよ」 「どうもこうもない。ただ金を盗られただけだよ」 赤司はバカらしいと近くにあった石をポンと投げ、長い足を投げ出した。 「あれは、俺が剣道の稽古で怪我をした時、医務室で彼女に手当をしてもらったのがそもそもの始まりだったんだ」 その横浜警備室の看護婦と会話をして以来、彼女は赤司を気遣うように声を掛けてくれるようになったとため息まじりで話した。 「そんなある日。彼女が廊下で泣いていたんだ。理由を聞くと父親が酒を飲んで家の金を使いこんで、家賃が払えないというんだ。だからその時、持っていた金を貸したんだ」 「それが始まりだったのか」 「ああ」 海を眼下にした赤司は眩しそうにまた石を投げた。 「でもすぐにおかしいと思ったんだ。俺の顔を見れば、病気の弟の薬代がないとか、借金取りに追われていると金の話ばかりするからな。それで結局、俺は距離を取ったんだが、まさか他にも被害者がいたとは」 「ああ。結婚の約束までして結納金を渡していた人が五人もいたらしいよ」 「……全く。女は恐ろしいよ」 純情そうに見えた彼女は実は既婚者で子持ちで年齢を二十歳も偽っていた事実が、さらに彼を傷つけていた。 赤司は硬派であり男気がある武闘派である。一見、清々しい顔立ちであるが中身は気が強く、気難しい男である。 それに反し幼馴染の本牧良晴は温和で優しい顔立ちの男性であり、赤司の(なだ)め役であった。 親がそれぞれ宮内庁警備をしていたことが信用となり、二人は重要な仕事を任されることが多く、その分やっかみも多く発生していた。 そんな二人は任務に真摯であり、女性にうつつを抜かすことはなかったが、赤司はまだショックを引きずっていた。 本牧は思い切って聞いた。 「じゃあ、赤司は彼女に本気だったわけじゃないんだな」 「ああ。騙されて悔しいだけさ」 ……よかった。 最近の赤司は集中力に欠けているように思え心配していた本牧は、理由を聞いて安心した。 「そうか。心配して損したよ」 「他人事だと思って」 この時。時を知らせる時報が鳴った。 「さて、行くぞ」 「おう!」 本牧に誘われた赤司は立ち上がった。二人はこの日も仕事を終え帰宅した。 赤司は邸がある根岸地区の高台を車で上がっていった。 「ただいま、帰った」 「旦那様、お帰りなさいませ」 明治時代後期、根岸は海が見渡せる風光明媚な地として人気がある住宅地である。高台の下には海を横に市電が走り街に活気を与えていた。 明治初頭から横浜でも有数の銅鉄引取商をしている柳下家は、横浜弁天通に「鴨井屋」という屋号名で、現在も金属の輸入業を営んでいる。 この商売は長男夫婦と次男夫婦が引き継いでおり、三男の赤司は現在は宮内庁警察に席を置いていた。 この屋敷は亡き祖父母の屋敷であり、無人であったため今回の任務で赤司が使用していた。この邸の管理を任せている女中頭の南田ユサはかいがいしく赤司の上着を受け取った。 「まあ、お怪我をされたのですか。では包帯の交換を」 「このままで良い。それよりも風呂にする」 必要以上に体を触る南田を嫌がった赤司は、彼女から離れた。 「でも傷が」 赤司は面倒そうに背を向けた。 「問題ない!」 「は、はい」 そして彼は風呂に入った。 ……ああ、やっと家に帰ったのに。 この日は訓練をして疲労していた赤司は、風呂の小窓から月を見ていた。 ……月の世界は静かであろうな。 口うるさい実家を逃れ、この屋敷で暮らしていた彼であるが、案じた母の差し金でここにいる女中の南田に安堵の時間を奪われていた。 仕事で体力を使っている彼は、自宅では静かに過ごしたかったが、過干渉な南田を思うとこの屋敷に帰るのが憂鬱になっていた。 そんな彼は夕食時にある事に気が付いた。 「爺。給仕はどうした」 「すみません。実は……辞めてしまいました」 「またか」 老執事の坂上が食事と運ぶ様子に赤司は眉をひそめた。 「どういうことだ?先日の娘は『母親が病気になった』と言っていたし。その前の男は『腰が悪くて立っていられない』というのが辞める理由だったな。今回はどんな理由だ。申してみろ」 「は、はい。『ち、父親が病気になった』と」 「今度は父親か」 冷や汗の執事に赤司は葡萄酒を飲んだ。 「まったく。呪いの館だな、ここは」 そこに南田が食事を運んできた。満面の笑みの彼女に呆れた赤司は自室のベッドに入った。 ……はあ、せめて夢だけでも良いものを見させてほしいよ。 祈るように彼はベッドに入った。そして一時間後、彼はうなり声を上げた。 ◇◇ 「旦那様。しっかりしてください。ああ、また発作だ」 「……坂上さん。私が、私が看ます。さあ、旦那様、きゃああ」 掛け声に反応は無く。彼は向くと立ち上がった。その目はしっかり開いていた。 赤司はうなり声を上げながら、ゆったりと部屋を出て闇夜の廊下に行った。これを坂上は止めようと体を抱き止めた。 「旦那様!目を覚ましてください、あ」 坂上を無造作に解き離した彼は廊下の奥を進み、庭へ出る扉から外へ裸足で出て行った。南田は追いかけた。 「旦那様。南田でございます。どうか、どうかお静まり下さいませ、きゃああ」 彼女を突き放した彼は芝生を裸足で歩いていた。そして庭で月夜を見上げていた彼は庭のベンチに腰掛けた。そして、そのまま眠ってしまった。 ……痛。ん。ここは。 「お目覚めでございますかな」 「爺……俺はなぜここにいる」 ……ああ。やっぱり覚えていないのか。 夜になると屋敷を歩き回る赤司はこの事を一切覚えていなかった。彼に内緒で柳下の本家に相談し、医師の指導を受けていた坂上は、赤司に事実を伝えない方法で治療を進めていたが、老齢と疲労により看病に限界に感じていた。 この日、坂上は本家を代表する赤司の叔父の柳下白也が訪問する日であったため、医師を呼び近況を報告した。 「夕べは庭へ歩き出しまして、そのまま朝までベンチで寝てしまいましたが、その事は覚えていないですね」 「……今回は発作の時は起こす試みであったろう?それもダメか」 応接間にて腕を組み、白也は唸りながら目を伏せた。それに坂上は続けた。 「はい。私と南田で旦那様を起こそうとしましたが。ダメでした」 「先生、これは一体」 「そうですね」 湯川医師は今の話をノートに書き止めながら話した。 「まず『覚えていない』というのは、おそらくその時は無意識なのでしょうね」 「無意識とは」 白也の問いに医師も頭をかいた。 「赤司さんは夢の中にいて、自分の事を自分で制御できないのかもしれません」 「確かに。夢の中では自分ではどうすることもできないものな」 「白也様。我々はこれからどうすればよいのでしょうか」 本人には内密で進めている治療であるが、赤司を看ている坂上は睡眠不足と不安でいっぱいであった。 この翌日、三人は相談し本人に事実を告げることにした。 「……というわけなんだ。赤司、急な事で驚いたと思うが」 「いや。確かにおかしいと思っていたんだ」 赤司の休日に屋敷に出向いた白也は、医師と坂上を同席にし赤司に説明をした。 「朝になって足の裏が汚れていたり、外で寝ていたりしたのは酔っていたせいかと思っていたけれど、それは俺が無意識に外を歩いていたせいなんですね」 「そうです。覚えていないのがこの病の特徴です」 湯川医師の話を聞いた赤司は坂上を見つめた。この時、部屋に南田がお茶を運んできた。 「では、爺のその傷も、俺のせいなのか」 先日の夜。赤司に突き飛ばされて転んだ坂上は顔に傷を作っていた。さらに赤司にお茶を出す南田の手首の包帯に彼も気付いた。 「俺が、俺がみんなをそんな風に」 「落ち着くんだ、赤司。今はそれを治す方法を考えるのだ」 「伯父貴」 両親よりも親しみを感じる叔父の言葉に赤司は少し冷静を取り戻した。ここで湯川医師は全員に説明をした。 「これは『夢遊病』と言われる病です。子どもや、若い女性の不安症と言われています」 「不安症?ですが、自分は二十七歳ですが」 驚きの赤司に医師は頷いた。 「そうですよね。そのため我々も困惑しているのですが、赤司さんの症状はこれに当てはまるのです」 それは夜になると起き出し、うなり声を上げながら屋敷内を歩き回るというものだった。この様子を南田が勝手に話し出した。 「旦那様はまるで起きているかのような顔つきでございます。でも呼びかけても反応はないのです。そして狼のようにうなり声をあげていますのよ」 「狼?この俺が」 驚く赤司に南田は得意顔であった。これを坂上が諌めた。 「これ!南田。余計なことを申すな!お前は下がりなさい」 調子に乗って話す南田を坂上は部屋から追い出した。この時、白也が彼に真顔を向けた。 「赤司。治療のために聞かせてくれ。お前、最近、嫌な事があったんじゃないか」 「嫌な事?……そうだな」 ……看護婦の事は言いたくないし。 「まあ、仕事をしていれば色々ありますよ」 軍事医務室の看護婦に金をだまし取られた話を誤魔化した赤司に銀髪の叔父は真顔を向けた。 「精神科の先生は、心に気になることがあるのではないかと仰っているのだ」 白也は赤司の夜の病を柳下家で相談をしているが、赤司の両親だと言い合いになると言われ、代わりに自分が対応に当たっていると話した。 「みんなお前を心配しているのだ。だからお前に言わずに治療をしたいと思っていたが、今後は医師の指導で薬も試してみないか」 「薬……そ、そこまでですか」 ……そうだ。もしや女中が辞めてしまうのも。 「全部、俺のせいなのですね。俺がみんなに迷惑を」 「赤司。だからお前は医師の話を」 「少し、考えさせてください」 彼は自室に入った。自室のベッドは整っていた。そのベッドに腰かけた。 ……ああ、どうしてこんなことになってしまったんだ。 彼は布団に背中から倒れた。天井のシミをじっと見ていた。じっとしていると頭痛がしてきた。これをこらえるように彼は寝ようとしたが、眠れなかった。 やがて体を起こし窓辺へ歩みそして夜のカーテンを開けた。悲しいくらいの三月の青空は寒く彼を救ってくれなかった。 ◇◇ 「おい、赤司」 「ん?……あ、ああ」 「ずいぶんお疲れのようだね。柳下少尉」 「す、すみません」 病を知った翌日、大事な会議でうたた寝をしてしまった彼は上司に頭を下げた。仲間の失笑の中、上司は彼に告げた。 「君には期待しておるのだよ。では、警備はそのように、以上、解散」 会議終了後、本牧は赤司の隣を歩いた。 「大丈夫か?顔色が悪いけど」 「疲れが出ただけさ、あ」 「やあ。柳下少尉、久しぶりじゃないか」 廊下の向こうからやって来た岸田は仲間を背後に従えていた。岸田は笑みを称えていた。 「先日は法律反対勢力のアジトを制圧したそうだね。さすが柳下家の血は優秀でうらやましいよ」 「おい、それはどういう意味で」 「相手にするな。赤司」 岸田の兄達は赤司の兄達の競争相手であった。それを理由に岸田は赤司を敵対し、顔を合わせれば挑発してきた。これに怒る赤司を本牧は制した。 「行こう。さあ」 「ああ」 「……夜、眠れないそうだね」 「え」 背を向けて去ろうとした赤司は岸田の声に振り返った。 「君の屋敷を逃げ出した女中に聞いたよ。君は夜になると狼のように暴れ出すそうじゃないか」 「貴様」 「赤司。構うな!行くぞ」 「狼男爵と言っていたぞ。これは傑作だ。ハハハ」 岸田のあざ笑う声が廊下に響いていた。本牧が励まし屋敷まで送ってくれたが赤司の心は傷付いていた。そんな彼が屋敷で落ち込んでいると、坂上が声を掛けてきた。 「旦那様。今日から我が屋敷に参った看護婦です」 「初めまして、私は」 ……看護婦?やめろ。俺を一人にしてくれ。 「名乗らずに良い」 「え」 彼は、ワンピース姿の彼女に背を向けた。 「どうせすぐ辞めるのだ……覚えるつもりはない」 思考がぐちゃぐちゃの彼は、そういうのが精いっぱいだった。 この声を聞き終わらないうちに彼は逃げるように部屋を出た。三月の眩しい日差しが溢れるこの日、北風は彼の心に吹き荒れていた。 二話「狼男爵」完
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2989人が本棚に入れています
本棚に追加