Case:1 あの子さえ、いなければ

1/1

23人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ

Case:1 あの子さえ、いなければ

女はぽつり、と呟くように話し始めた。 「……二週間前、だと思う。  あたし、あまり家に帰ってなかったし、その前かも。  わかんないけど、帰ってきたらいなくなってた」 先ほどまでの威勢は失われ、 取りこぼすかのように言葉が紡がれる。 「正直ほっとしたんだよね。  これでもう頑張らなくていいんだって、  お金も時間も自由に使えるって、そう思った」 「ネグレクト……」 思わず呟いた花が、はっと口元を手で覆う。 女は一瞬動きを止めたように見えたが、 ゆっくりと顔を上げると、はは、と乾いた声で笑った。 長い前髪の下で大きすぎる黒目が花に向けられる。 「それ聞いたことある。そうなんだ。これが」 女は、そっか、と何度か小さく呟いた。 か細い声で続ける。 「……あの子、生きてんの」 「今のところはな」 陽明は短く答えた。 紺色がかった空にうっすらとオレンジが混じり始めていた。 夜明けが近かった。 「今ならまだ取り戻せる。ただ、それには母親であるあんたの協力が必要だ」 「母親、か」 女は繰り返した。黒い瞳が陽明の視線を避けるように下を向く。 女は陽明から離れるように後ずさった。 背後にはアパートの敷地がある。 なんで、と女の口から声が漏れた。 「なんで、母親ってだけでこんな思いしないといけないんだろ」 女は何も見ていなかった。 少しずつ、陽明と花から距離を取るように後ずさりながら、言葉を続ける。 「父親はいいの? 産んでないから?   苦しい思いも痛い思いもしてないから?」 女の乾いた目がすっと歪む。 泣き出しそうな表情をしているのに、涙は浮かばない。 乾いた大きすぎるカラコンが張り付いているだけだ。 女はもう一歩、後ずさる。 「ねえ、ずっと辛いんだ。  あいつ言うこと聞かないし、すぐ泣くし。  あたし、腹が立ってどうしようもなくなる。  あの子が生まれてから、自分がずっとダメな奴に思えるの」 女は一歩、また一歩と足を引く。 陽明は女の黒い瞳から目が離せなかった。 ――お前さえ。 夢で聞いた声が頭の中に響き、陽明は思わず頭に手を当てた。 内側から打ち付けられるように頭が痛い。 「陽明?」 花が駆け寄る。 「大丈夫? どうしたの?」 陽明は歯を食いしばった。 痛みが、心臓が脈打つたびに脳天を突き抜ける。 女はふらふらと空を仰ぎ見る。 夜明けが近い。 朝焼けの光はすぐそこまで迫っている。 女の瞳は虚空を見つめている。 そうよ、と乾いた唇が小さく動いた。 陽明がはっと顔を上げる。 女は奇妙に首を傾げたまま、陽明の方を見た。 陽明の頭の中で声が響く。 ――お前さえいなければ。 「あの子さえ、いなければ――」 「だめだ!」 そこまで言いかけた女の腕を陽明が掴んだ。 女がびくりと身体を震わせる。 陽明は肩で息をしていた。 呼吸をするたびに走る激痛を逃がしながら、続ける。 「それ以上、言ったらだめだ」 陽明は痛みでかすんできた視界の中で、なんとか女に焦点を合わせる。 女は驚いたように掴まれた腕を見る。 「本当に、そうか?」 「……え?」 「ただの一瞬も、あいつのことを大切に思ったことはないか?」 女の脳裏に、幼いこうたが浮かんだ。 寝不足や、苛立ちや、辛さの中に押し込められて すっかり見えなくなってしまっていた記憶。 小さくて何一つ掴めないような手で握った女の指。 こちらを見て声を立てて笑ったこと。 覚えたての言葉で、回らない舌で、大好きと言われたこと――。 「あ、あたし……」 『もう遅い』 女の声を遮るように低い声が響いた。 突然、女の身体ががくんと後ろに沈み込んだ。 腕をつかんでいた陽明も引きずられるように体勢を崩す。 音もなく、世界が割れた。 音ではない何か、振動のようなものが陽明と女を中心に空気を一閃した。 切り裂かれた部分から暗闇がにじみ出し、 それはまるでインクが染み出るかのようにあたりを暗く染め上げていく。 「なに?! なにこれ?!」 陽明に縋り付くように摑まった女が悲鳴を上げる。 「陽明! これって!」 花が叫ぶ。 陽明ははっとして足元を見た。 女の脚はアパートの敷地に踏み込んでいる。 (ひらさかアパート……、『平坂』か!) 陽明はアパートの看板を思い出すと舌打ちをした。 境界を意味する地名、平坂。 夜と朝との境界、暁。 条件が、整ってしまう――。 陽明はさっとあたりを見回すと、 女の足元に落ちている煙草の吸殻を拾い上げた。 「ちょ、そんなものどうすんの――」 女が驚いたように陽明を見る。 陽明はそれには構わず、手の中で丸めるとふっと短く息を吹きかけ、 滲みだした暗闇に飲まれつつあるアパートの敷地に放った。 それと同時に女の腕を強く引き、アパートの敷地から引きずり出す。 「ちょっと!!!」 道路に放り出された女が抗議の声をあげる。 体勢を崩した陽明も女をかばうように地面に倒れ込んだ。 足は、敷地を超えていない。 「陽明……!」 花の声が響き、陽明が顔を上げる。 目の端で、倒れざま、女に突き飛ばされた花の身体が、 闇に飲み込まれるのを捉えた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加