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Case:1 境
辺りは、真っ暗だった。
いや、真っ暗と言うと少し違うかもしれない。正確には、何もなかった。
まず、光がない。そのため暗い、としか形容のしようがない色でその空間は満たされている。
高さも、幅も、奥行きもない。試しにそっと手を伸ばしてみたが、触れるものは何もなかった。
「……これ、境、だよね」
花はぽつりとつぶやいた。
ぼっ、と何かが燃えるような音がして、目の前に小さな火が付いた。
先ほど陽明が投げ捨てたタバコだった。火は一瞬で煙草を飲み込むと、たちまち空間を赤く染め上げた。それは炎がまわるように周囲に円状に広がっていき、気が付けば辺りは真っ赤に燃え上がる夕焼けに包まれた。
(また夕焼け……)
花はあたりを見回す。
屋上デパートのときとは違い、辺りには何もなかった。ただ、どこまでも続く夕焼けが、空もなく、地面もなく続いている。
どこからともなく、チャイムの音が流れ始めた。
(夕焼け小焼け?)
チャイムは花の住む町が夕方になると流す放送だった。ひび割れた安っぽい音楽が夕焼けの空間にこだまする。
ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすが なくから かえりましょ
花は何かに誘われるかのように歩き出した。
一面の夕焼け、鳴りやまないチャイム。
赤く燃える夕焼けの中を、花はぽつりぽつりと歩いていく。
花はなんだか以前にも同じようなことがあったような気がしていた。
知らぬ間に、とぼとぼと歩いていた脚が速足になる。
ローファーを履いていたはずの花の足は、一歩踏み出すように小さくなっていき、運動靴になり、小学校の上履きになり、やがて裸足になっていく。
小さい足は赤く燃える地面を跳ね上げ、花はいつの間にか息を切らして駆けだしていた。
花は心細さが、まるで意思を持ったように身体の中を駆け上がってくるのを感じた。
どこに向かえばいいのかもわからないのに、とにかく駆け出して行かなくてはいられなかった。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
花はなんだか堪らない気持ちになっていた。
怖くて、心細くて、花はただただ走った。走りながら、不安が加速度的に広がっていくのを感じる。堪らない気持ちは喉まっでせりあがってきて、切れる息の下で空間に向かって叫ぶ。
「――」
あれ、と花は思った。ふと足が止まる。肩で息をしながら、頭の芯がぼうっとしてくるのを感じる。
誰の名前を呼べばいいんだっけ。
一面変わらない夕焼けがどこまでも永遠と続いている。
帰りたい、帰らなくては。
心臓が早鐘を打つ。身体の中を熱い血が駆け巡る。
急いで、行かなくちゃ、帰らなくちゃ。
でも、どこに?
花は自分の身体を見下ろした。
花は自分が幼い子供の姿になっていることに気が付いた。ちょうど小学生くらいの、小さな女の子。
どこかで子どもが泣いている。
胸を締め付けるような、寂しい声。花は立ち止まったまま、辺りを見回す。
女の子の泣き声は、遠く、いや、近く?
右から、それとも左から。
泣いているのは誰?
――わたし?
ぴりりりりりりり!
その時、辺りを切り裂くような電子音が響き、花ははっと我に返った。
殆ど反射的にスマホを取り出し耳に当てる。怒号が響いた。
「おいこら! お前無事か?! 無事なんだな?!」
焦った陽明の声がスピーカーから聞こえる。
「うん、なんか、すごい変な感じで、私……」
ぼうっとしたまま答えると、陽明が真剣な口調になって答えた。
「おい、いいか、よく聞け。お前の名前は花だ。河守花。いいか、河守花だぞ!」
河守花。
その名前を呟いた途端、花はぼうっとしていた頭が急にすっきりしたのを感じた。花は自分が元の制服姿に戻っていることに気が付いた。先ほどまでの心細い感じが、波が引いたように消えていく。
「そう、そうだよね。うん、大丈夫。陽明ありがとう」
そう答えると、電話の向こうで安堵のため息が聞こえた。
先ほどまでの陽明の焦りようを思い出して花は少しおかしくなる。
「でも境って電波入るんだね? 助かっちゃった」
「ばか、んなわけあるか」
陽明が電話口で不機嫌な声を出す。
「お前、今度あのデパートの爺さんにちゃんと礼言っとけよ」
「あのおじいさん?」
「ああ、その櫛だよ。お前今も持ってんだろ」
そう言われて花は、デパートで老人にもらった櫛を胸ポケットに入れっぱなしにしていたことを思い出した。
「櫛ってのは髪に由来する縁起物で依り代になるんだ。電話は元来人と人を繋ぐものだから通じやすいってのもあるが、正直その依り代が無きゃ無理だった」
「そうなんだ……」
花は制服の上から櫛に手を当てる。なんだか温かいような気がした。
「だいたいお前は……! って、まあいい、説教は帰ってきてからだ。境に入っちまった以上、お前があの子どもを連れ戻すしかねえ。わかるな?」
「うん」
陽明の真剣な声に、花は頷く。陽明は、よし、と言うと続けた。
「まずはあの子どもたちを見つけんぞ。両手使えるな?」
花はスマホを肩と耳の間に挟むと、使える! と叫んだ。
陽明が指示を出し、花は一つずつ、印を結んでいく。
両手で向かい合う狐を作る。
手首を返し、親指と小指をそれぞれ絡める。
曲げていた中指と薬指をそっと伸ばして、指の間に空間を作る。
「覗け、それが狐窓だ」
陽明の言葉に、花は頷くと小さく唾をのんだ。
ちりん。
鈴の鳴る、音がした。
花の視界いっぱいに彼岸花の花弁が舞った。
目をつぶりそうになるのをなんとかこらえる。
「花、繰り返せ!」
スマホのスピーカーから、陽明の声が途切れ途切れに聞こえる。
気が付けば花は赤い花弁の舞う竜巻の渦に巻かれていた。
スピーカーの音がぶつぶつととだえる。
「く、り、か、え、せ!」
「わかった、わかったよ!」
「行くぞ!」
花は大きく息を吸った。大きく目を見開き、花弁の吹雪の奥を見据える。
『見破れり!』
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