Case:1 Closed

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思い切り腕を引かれ、花は身体ごと宙に放り出された。 転ぶ、と思ったところを、細い腕に抱き止められ、 そのままその胸に顔を押し付ける格好になる。 腕を引いた主、陽明は花を抱きかかえたまま空いた方の手で、 「ひらさかアパート」のはがれかけていた「さ」の字をはぎ取った。 次の瞬間、花の目の前まで迫っていた黒い腕は逆再生をするかのように、 地面に引きずり込まれていき、音もたてずに境は閉じた。 あたりはしんと静かで、 荒い呼吸をする陽明の吐息だけが花のすぐ耳の後ろで聞こえる。 抱かれているので、陽明の鼓動が早いのを花は感じていた。 夜はすっかり明け、境の閉じた後には何も残らず、なんだかあっけなかった。 「あ、あの、陽明? もう離してもらっても……」 遠慮がちに花が言うと、 陽明は初めて花を抱いていたことに気が付いたようで、 殆ど跳びあがるように花から離れた。 「それはそれでちょっと傷つくんだけど……」 花が言うと、陽明は気まずそうに顔をそむけた。 心なしかいつもより顔が青白いような気がするが、 元来あまり顔色のいい方ではないので確かではない。 「そうだ! こうた君、こうた君は?!」 さっきまで握っていた右手の先にこうたはいない。 慌ててあたりを見回す花に、陽明が声をかける。 「ここだよ」 陽明の視線の先には、アパートの塀に身体をもたせかけ眠るこうた君と、 その隣で膝を抱えるように座っている母親の姿があった。 母親はただじっと眠るこうた君の横顔を見つめている。 「行くぞ」 陽明は二人を見つめる花に声をかけた。 すでに歩き出している陽明の後ろ姿を、慌てて花は追いかける。 「あの親子、大丈夫かな」 花は陽明に追いつくと心配そうにつぶやいた。 陽明はどうでもいいというふうに前を向いたまま答える。 「さあな、あとはあの親子の問題だ。俺たちにはどうにもできない」 「それはそう、だよね」 それは花にも分かっていた。 こうたを連れ戻すことはできた、が、それは根本的な解決にはならない。 しかし、花にその根本的な解決はできない。 「しかしまあ、少なくとも」 陽明はしゅんとした花をちらりと横目で見ると、 前を向いたまま続けた。 「あの子どもは子安地蔵の加護を受けた。  それだけでも大したもんだろうよ」 花はぱっと顔をあげた。 胸元の櫛が温かく熱を持ったように感じる。 「それよりお前、分かってるんだろうな?」 「へ? 何が?」 陽明は立ち止まって花を振り返った。 花は気が付く。 そう言えば、境にはもう関わるなと言われていた。 「あ、でもあれは事故って言うか、  入りたくて入ったわけじゃないって言うか……」 花の言い訳は陽明の気迫に押されてしりすぼみになっていく。 「……ごめんね?」 花はそう言うとちろりと舌を出して上目遣いで陽明を見上げた。 陽明のこめかみがひくりと痙攣する。 すっかり夜の明けた白っぽい住宅街を抜けるまで、 延々と花は陽明の説教を聞かされるのであった。
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