Case:1 ゴム手袋

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Case:1 ゴム手袋

デパートを後にした二人は、来た道を引き返していた。 速足で歩く陽明に花小走りに続く。 花はデパートの老人から受け取った櫛を胸ポケットにしまっていた。 (そう言えば、あのおじいさん、「あの子たち」って言ってたような……) 「おい、置いてくぞ」 陽明が少し先からこちらに声を掛ける。 花は、あ、待ってよ! と言うと駆けだした。 ◇◇◇ 「デパートで境に迷い込んだのは分かったけど、連れ戻せるんだよね?」 陽明の少し後ろを歩きながら花は声を掛けた。 陽明は小柄なくせに歩くのが早い、と花は思う。 「恐らくな。あの子どもが境にいる限り可能性はある」 陽明は振り返らずに答えた。 「そもそも境ってのはあの世とこの世の境界だ。普通ほいほい入っていけねえし、あまつさえそこに長期間留まるなんてできないところなんだ」 遠くでヒグラシが鳴いている。 花は少し先を行く陽明の背中を見つめた。 「時間、場所、状況、あらゆる要素が重なった時に初めて、境は現れる。そこに迷い込むなんてのは、お前が言う「糸」が切れかかってるような人間くらいだ」 「それじゃどうすればいいのか……」 「あのなあ」 陽明はため息をつくと、そこで初めて花の方を振り返った。 「入れるってことは出れるってことでもあるんだよ」 「え?」 花は聞き返した。 困惑した表情を浮かべて陽明を見る。 「そもそも境に迷い込むってのは簡単なことじゃねえんだ。だから要素を崩しちまえば、逆に言えば一定の条件さえ揃えば、普通、人間は境には居られない」 「じゃあ、こうたくんは連れ戻せるんだね!」 陽明は花に向かって顔をしかめて見せる。 「ばか、条件が揃えばっつったろ」 馬鹿って何よ、と花は頬を膨らませた。 やっと追いついた陽明の背中側から、その色の白い横顔を見る。 態度こそ横柄なものの、小柄な陽明は花と大して身長が変わらない。 「基本的な条件は二つだ。一つはこの世への強い思いがあること。まあ、帰りたいとか帰らなきゃいけないとかそうういうもんだ。 そしてもう一つが――」 そこまで言いかけた陽明が突然足を止める。 花は思わず陽明の背中にぶつかった。 「ちょっと、急に立ち止まらないでよ……」 しこたまぶつけた鼻を押さえつつ、花が陽明の背中から離れる。 陽明は正面を向いたまま言った。 「そいつの魂が、強い「縁」でこっちの世界に結ばれていることだ」 (ここは……) 花は驚いて陽明の顔を眺めた。 二人の目の前に聳え立っていたのは、古い二階建てのアパート。 花がこうたの同級生に教えてもらった、彼の家だった。 「ちょ、ちょっと待って! なんでここが分かったの?!」 花は躊躇せず角の部屋のインターホンを鳴らそうとする陽明の手を押さえつけると叫んだ。 陽明は面倒くさそうに眉を顰めた。 「お前だって知ってただろうが」 「いや、そりゃそうだけど……! って、いやそういうことじゃなくて! だって私ここがこうた君の家だなんて陽明に言ってないよね?!」 陽明は、あー、と言うと空いている方の片手で頭を掻いた。 「っていうか、手、離してくんねえ?」 陽明に言われて花は自分が陽明の手を握ったままだったことに気が付いた。 慌てて両手を離し後ろに組む。 「人に見えねえもんが見えんのは、お前だけじゃないってこと」 「人に見えないもの……って、あ!」 花が言い終わらないうちに陽明はインターホンを鳴らした。 ピンポーン、という間の抜けた音が響く。 中から返事はない。 陽明は続けざまにインターホンを鳴らした。 「鳴らしすぎだって!」 花が隣で抗議の声を上げるが陽明は気にしない。 更に数回鳴らしたところで、隣の家のドアが開いた。 「あの、静かにしてもらっていいですか……」 顔を出したのは化粧っけのない若い女だった。 艶のない黒髪を後ろで無造作に束ね、 上下ばらばらのスウェットを着ている。 「す、すみません!」 花は勢いよく頭を下げた。 「うちの子今お昼寝で、すみませんが。あの、どちら様です?」 女性はそう言うと不審そうな顔で花と陽明を見比べた。 制服を着た女子高生と、葬式帰りのような真っ黒な出で立ちの小柄な男が並んでいるのだ。 怪しまれるのも無理はなかった。 「この部屋に住んでる家族について知りたい。おそらく親子の二人暮らしだと思うんだが」 陽明はそう言うと女性の部屋の扉に手をかけた。 女性がぎょっとした顔で身を引く。 陽明は扉を閉めさせまいと力をこめる。 「ちょ、何するんですか!」 「何もしねえよ、隣の家について教えてほしいだけだ。最近見たか? いつくれば会える」 女性の顔がどんどん引きつり、今にも悲鳴を上げそうになるのを見て花が慌てて止めに入った。 陽明の身体を女性の扉の前から押しのけると二人の間に滑り込む。 「ごめんなさい! うちのお兄ちゃんちょっと不愛想で……!」 「お、お兄さん……?」 花は、はい! と元気よく答えるとにこりとほほ笑んだ。 つられて女性の表情が和らぐ。 「私、河北高校の河守花って言います。 お隣に住んでるこうたくんの落とし物を拾ったので返してあげたくて……」 花がそう言うと、女性は明らかにほっとした様子で息をついた。 「こうたくんね、そう言えば最近見てないわね…… お母さんなら、この時間はいないと思うわ。たまに明け方に帰ってくるような物音が聞こえるから、たぶん、そういう……」 そこまで言うと女性は慌ててその先をごまかした。 花の制服に目をやってから付け加える。 「ほら、女一人で子どもを育てるって大変だもの、そこは私も同情してるのよ」 「何か最近変わった様子は?」 花に突き飛ばされた陽明が会話に参加し、女性がまた表情を硬くする。 しかし花の申し訳なさそうな、 それでいて人のよさそうな表情を見て取ると、一応陽明に応えた。 「さあ、特に変わったところはないと思うけれど。あ、でも、そう。お母さん、たぶん潔癖症なんだと思うわ。こんな古いアパートで潔癖も何もねえ、可哀そうだけど」 若い女性は顔をしかめて言った。 言葉では「可哀そう」と言いつつも、そこにはどこか嘲るような響きがこもる。 「彼女、ゴム手袋をしてたのよ。ほら、風呂掃除とかで使うあれ。そのままこうた君と手つないだりして、まあそんなの本人の自由ですけど、ちょっと普通じゃないわよね」 ゴム手袋――。 若い女性の言葉を聞いた瞬間、 花は陽明の顔が曇ったような気がした。
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