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Case:1 悪夢
陽明は慎重に事務所の扉を開けると、
目の前にいつも通りの無機質な空間が広がっているのを確認し、詰めいていた息を吐きだした。
ジャケットをぬぐと無造作にソファに放り投げ、仰向けに倒れ込む。
すっかり日は暮れており、事務所の中は薄暗い。
窓から差し込む月明かりが、陽明の年の割には幼く、それでいて整った横顔を白く照らす。
陽明は息を吐きだすと目を閉じた。
こうたのアパートの隣に住む女の言葉が頭をよぎる。
ゴム手袋。
陽明は胸の中が空っぽになるほど深く息を吐きだした。
そのまま、抗いがたいまどろみが陽明の意識を地の底に引きずり込もうとするのを感じる。
嫌な感じだった。
(ああ、だめ、だ――)
陽明は身体が重く沈みこんでいくのを感じていた。
◇◇◇
――おかあさん
幼い子どもの声がする。
ここは、どこだ? 陽明はぼやけた視界に映る女の姿を眺めた。
女の手にはいつも何かが握られていて、それはたいてい「おしおき」に使われるものだった。
呼び声に反応した女が近づいてきて、陽明は後ずさる。
女を呼んだ声が自分のものだと陽明はその時初めて気が付いた。
――おかあさん、ごめんなさい、ごめんなさい
謝る声に悲鳴や泣き声が混ざる。
身体中、あちこちに焼けつくような熱が走る。
女の恐ろしく低い声や何か熱くて硬いものが
その幼い視界を竜巻のように翻弄する。
陽明は混乱していた。
きっと「正解の返事」があるはずなのだが、
それがなんなのか陽明には全く見当がつかなかった。
おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……。
陽明は自分の声が勝手に喉からあふれ出すのを感じた。
おかあさんという舌足らずな五文字は、ごめんなさいとか助けてとかもうやめてとか痛いとか、いろいろなことを表す言葉だった。
汚い、嫌い、うるさい
女の唸り声が徐々に意味を持ち始める。
轟々と鳴るばかりだった竜巻が形を持ち始める。
お前さえ、いなければ。
言葉が形を持ち陽明を打つ。
陽明は殆ど喘ぐように息をしていた。
吸っても吸っても空気が入ってこない。
肺がべこりと音を立てる。
お前なんか。お前なんか。お前なんか。
お前なんか――、死んでしまえ。
「――!」
陽明は勢いよく飛び起きた。
古いソファがぎしりと音を立て、背もたれにかけていたジャケットが床に落ちる。
陽明は大きくひとつ息をすると両手で顔を覆った。
汗をかいた身体にワイシャツが張り付いて気持ちが悪い。
陽明は立ち上がるとジャケットを拾った。
窓の方へ顔を向けると、空が白み始めた頃だった。
珍しく長く眠ってしまったらしい。それでこんな夢を見たか。
陽明はジャケットのほこりを払うと肩にかけた。
もうすぐ夜が明ける。こうたの母親が返ってくる時間だろう。
陽明は事務所の扉を開けると、まだ夜の気配の残るひんやりとした廊下へと足を踏み出した。
扉が閉まり、事務所の中には再び沈黙が訪れる。
陽明は眠ることが嫌いだった。
事務所にベッドが無いのはそう言うわけだった。
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