康弘の父

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康弘の父

「……ん」 「瑞希!」  瑞希はぼんやりとした意識の中で目を覚ました。ここはどこだろうと視線を彷徨わせると、康弘が瑞希の手を握り顔を覗き込んでくる。 「康弘さん……」 「大丈夫ですか? 病院に向かっている途中で意識を失ったので、色々と検査をしてもらったのですが、頬以外の怪我などはありませんでした。吐き気や痛みなどはどうですか?」 (病院……)  病院と聞いて視線だけを動かして室内を見回すと、一番グレードが高そうな病室のベッドに寝かされていることが分かった。大きな窓から見える夜景から、心配そうに見つめる康弘へと視線を戻して小さく首を横に振る。 「吐き気も痛みもありません……」 「ああ、良かった。本当に良かった……」  瑞希の返事に心の底から安堵した声を出す康弘に手を伸ばす。すると、力強く抱き締めてくれた。少し震えている彼に、どれほど心配をかけてしまったのだろうと胸が痛くなる。 「心配かけてごめんなさい……。会社内なら安全だと思って……軽率でした」  康弘の言葉を大袈裟だと笑って本当は何も分かってなかった。頬を殴られただけで、いとも簡単にねじ伏せられる弱い体。敵わない圧倒的な力の差。あそこで康弘や浅羽たちが来てくれなかったら、どうなっていたか分からない。  考えるだけでも恐ろしくて体が震えてくる。瑞希は康弘の腕の中で唇を引き結んだ。 「謝るのは俺もです。社内であのようなことが起きることを想定していなかった。今後はもっと警備を強化します。本当にすみませんでした。……あと、基本的なことは顧問弁護士に任せるつもりなのですが、警察が一度は瑞希の話を聞きたいと言っているんですが、大丈夫ですか? 嫌なことを思い出させてしまうと思いますが……守りきれなくてすみません」 「そんなことないです! 康弘さんは充分なくらい守ってくれました。今回のことは私の落ち度なので、もう気にしないでください。警察の方にもちゃんとお話をします」  康弘の声と表情に後悔が滲んでいて、瑞希の胸を締めつける。涙があふれてきて、康弘の腕の中で何度もごめんなさいと謝った。 「こ、これからは康弘さんの言うことを守ります。貴方の指示がある前に自分で動くようなことはしません……。もう心配かけたりしないと約束するから……康弘さんももう自分を責めないでください」 「瑞希……」 「康弘さん……私……」  怖かったことをすべて忘れさせてほしい。瑞希は切実な願いを込めて康弘を見つめた。彼はそんな瑞希の心を汲みとってくれたのか、すぐに柔らかい眼差しに変わった。そして優しい手つきで頭を撫でてくれる。 (あたたかい……)  彼の腕の中にいるだけで安心して涙が出てくる。瑞希が泣きながら笑うと、その涙を康弘が唇で掬ってくれる。そして、ゆっくりとお互いの唇が重なった。  甘く食むようなキスは激しさなんてなかったが、とても熱くて心地良かった。何度も啄むようなキスを繰り返したあと名残惜しげに唇が離れる。 「瑞希、続きは帰れてからにしましょう。これ以上は我慢ができなくなるので」 「私……今日帰れるんですか?」 「いえ、今夜は念のために病院に泊まって明日退院予定です。帰ったら覚悟しておいてください。何も考えられないくらい俺でいっぱいにしてあげます」 (何も考えられないくらい……康弘さんで……)  想像してしまって顔にボッと火がつく。照れ隠しのためにお互いの額をコツンと合わせて苦笑すると、また唇が重なり合った。 (康弘さん……) 「馬鹿者!」 「きゃあっ!」  キスに没頭しそうになった時、突然誰かが康弘の頭を杖で叩いて、瑞希は目を大きく見開き悲鳴を上げた。康弘は叩かれた後頭部を押さえながら、「会長……」と地を這うような声を出し殴った人を睨みつけた。 「か、会長!? ということは……康弘さんのお父様!」 (う、嘘……キスしてるの見られちゃった)  恥ずかしさと失礼をしてしまってどうしようという気持ちが綯い交ぜになって、混乱した頭のまま慌てて体を起こす。  ベッドの上で正座をすると、会長が慌てて瑞希を制止した。 「突然体を起こしては駄目だ。あんなことがあったばかりなんだから、楽にしていなさい」 「あ、ありがとうございます」  ぺこりと頭を下げると、会長がとても優しげな表情で微笑みかけてくれる。まるで孫を見る祖父のような温かみのある目に困惑してしまう。 (思っていたより優しそう……)  彼と会長の顔を交互に見る。  康弘と対立していると聞いていたからとても厳しい人かと思っていたが、予想以上に柔らかい印象に瑞希は目を瞬かせた。 「大きくなったね」 「え……私のことご存知なんですか?」 「ああ、よく知っているとも。パーティーでいつも原田夫人の後ろに隠れていた恥ずかしがり屋のお嬢さんだ。最後に会った時はこれくらいの背丈の可愛い女の子だったのに、とても綺麗なレディーになっていて驚いたよ」  腰のあたりくらいを手で示して笑う会長に照れ笑いで返す。確かに幼い頃は人見知りで母や兄の後ろによく隠れていた。そんな頃から知られていたなんてと瑞希は頬を染めた。 「だが、康弘とは気があったのか、よく二人でパーティーを抜け出して別室で遊んでいたんだよ。迎えに行くたびに二人でくっついて眠っていたのが、とても可愛らしかった」 「私たち、昔会ったことあったんですか?」 「ああ。うちと原田さんは何代も前から付き合いがあるから、よくパーティーで顔を合わせたんだ」  嬉しそうに思い出話を始めた会長に、康弘と顔を見合わせる。 「全然覚えていませんでした」 「俺もです……。ということは俺たちは幼馴染みといいうことですか」  幼馴染みという言葉を聞いて面映い気持ちになる。瑞希はだったら早く教えてよと心の中で父に抗議をした。 (大きくなるにつれ堅苦しいパーティーには出なくなったからな。ちゃんと出ていたら、康弘さんのこと忘れたりしなかったのかな。……というか会長……思ったより普通?)  二人をちらりと盗み見る。とてもじゃないが康弘を悪く思っているようには見えないし、二人の雰囲気も特に悪くは感じなかった。 「あの……お義父(とう)様」 「何だい?」 「不躾で大変申し訳ありませんが、康弘さんのことを認めてあげてくださいませんか? 昔を知らない私が言うのは説得力がないかもしれませんが、うちの会社……とても働きやすくて好きなんです。それは康弘さんの頑張りのおかげだと思います。確かにお義父様の大切な部下の方々を辞めさせてしまったかもしれませんが、結果のほうを正当に評価してあげてくださいませんか?」  会長の目をジッと見据えると、会長が康弘をじっとりとした目で睨んだあと、小さく息を吐いた。 「別に認めていないわけではない。ただ康弘にはワンマンなところがあるのは事実だ。私はそこが気に食わん。だからこそ、そこを諌め正してくれる伴侶を見つけてほしいから見合いを勧めていただけで、別に憎くてやっていたわけではない。それなのに嫌がらせなどと言うから、瑞希さんが誤解するんだ」 「あんな自分のことしか見えていないワガママで横柄でプライドばかり高い女のどこに、諌め正してくれる要素があるんですか? 嫌がらせにほかならないでしょう!」 「よそのお嬢さんを悪く言うな、馬鹿者。だから、気のあう人が見つかるまで何回でも見合いをすればいいと言ってやっただろう」 「どこにそんな時間があるんですか……。俺は忙しいんです」 「それはお前が私の部下を辞めさせるからだろう!」  二人の言い合いをぽかんと見つめる。  こんなにも言いたいことを言いあえているのなら、心配の必要はなかったようだ。 (パパとお兄様もよく考えの違いで衝突してるものね)  もう親の言いなりの子供じゃない。自分で考えて責任をもって判断ができるのだ。  瑞希が二人を見ながら笑うと、会長がふんっと鼻を鳴らす。 「ふん。私のおかげで瑞希さんと出会えたのだから感謝してほしいものだな」 「そこは……確かに感謝していますが……。なら、最初から連れてきてください」 「それはお前の性格上、無理だ。最初から連れてきていれば、まともに相手にしなかっただろう。本命というものは、ある程度見合いに辟易したところで出さなければ意味がない」 「えっ!?」  会長の得意げな表情にびっくりして、つい声が出てしまい慌てて口を手で覆う。 (ということは、パパと繋がっていたのは会長?) 「変な小細工を……」 「第一、お前はいつも感情が外に出づらく、怖い顔をしているから冷徹社長などと噂が流れるんだ。感謝しているならもっと嬉しそうな顔をしろ」  皺の寄った眉間を押さえる康弘に、会長が杖で小突く。彼はそんな会長をくわっと目を剥いて睨みつけた。 「別に構いません。『冷徹』というのは冷たく人情に欠けるというネガティブな意味で捉えられがちですが、本来は感情に左右されずに落ち着いて物事を見通すということです。悪口ではありません」 「その理屈っぽいところが嫌なんだ。言っておくが、噂の冷徹はネガティブなほうの意味だ。悪口だな」  ふんと鼻を鳴らす康弘に会長が嘆息する。そんな二人を見ていると、微笑ましくて自然と笑みがこぼれる。いつまでも見ていられるなと思いながら二人を眺めていると、会長が瑞希の手を両手で包み込むように握った。 「このように至らないところしかない息子だが、何卒頼みます。もしも虐められたりしたらすぐに言ってきなさい。叱ってやるから」 「いえ、私こそ至らないことばかりですが、よろしくお願いします。それに康弘さんはそんなことしません。いつもとても優しいんですよ」 「なら、いいんだが頑固でしつこいところがあるから、瑞希さんに嫌がられないか心配なんだ」  困ったように笑う会長に、瑞希は確かにと頷きながら笑った。  最初は康弘の諦めの悪さに半泣きで逃げていたが、今ではそれが良かったと思っている。彼が諦めないでいてくれたからこそ、今があるのだ。  安東に殴られて怖かった時、真っ先に康弘の顔が浮かんだ。普段なら家族の顔が浮かぶのに、誰よりも会いたいと思ったのは康弘だったのだ。きっとそれが自分の素直な気持ちなのだと思う。 「そんな心配はいりません。私、康弘さんのねちっこいところが大好きなので」
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