聞きたくない噂

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聞きたくない噂

「康弘さん、それ見せてください」 「あれ? 食事中だったんですか?」  兄を見送ったあと、リビングに入り封筒を受け取るために手を出すと、康弘はしれっとした顔で話題を変えた。  そんな彼を不満げに睨む。 「ええ、誰かさんのおかげで中々起きられなかったものですから。それより無視しないで、その封筒を渡してください。今はお試し期間中ですし、テストなんて受ける必要ないんですから一緒にやりましょう」 「無視をしたわけではありませんよ」  封筒を取ろうと伸ばした手をガシッと掴まれ、ぎゅっと抱き締められる。そしてそのままキスされた。 「瑞希、そろそろ昼食にしましょうか? お腹空きました」 「昼食より封筒が先です……」 「実は一時間後に市岡が迎えにくるんです。このままでは食べずに行かなくてはならなくなるのですが……」 「一時間後!? やだ、もうそんなに時間ないじゃない。そういうことは、もっと早く言ってください!」  悲しそうな顔でこちらを見てくる康弘に文句を言いながらキッチンに飛び込むと、彼のくすくすという笑い声が聞こえてきた。 (今は時間がないから仕方がないけど……帰ってきたら絶対に問い詰めてやるんだから)  *** 「はあぁ~っ」  週明けの月曜日。瑞希は重く暗い溜息をついて、研究室に入った。ちなみに会社までは康弘と一緒に来た。別々に行こうと言ったが聞いてくれなかったのだ。 (はぁ……結局あのあと何も聞けなかったな)  康弘が帰ってきたのは深夜だったので、疲れている彼に何も聞けず、翌日は翌日でまた仕事があるからと市岡に連れて行かれてしまい話どころではなかったのだ。二日あったはずの休日で、ちゃんと話せないというのは問題だと思う。 (今度、市岡さんにもう少し休めるようにスケジュールの調整をしてくださいって言わなきゃ)  兄からのテスト云々の前にこれでは倒れてしまう。  瑞希が不満顔でパソコンを起動させると、先に来ていた知紗が近寄ってきた。 「おはよう。金曜日は大丈夫だった?」 「おはよう……。うん、大丈夫よ。この前はありがとう」 「そのわりには浮かない顔をしてるわね。もしかして飲みすぎだって叱られたの?」  途端、顔色が青くなった彼女に首を横に振る。 「違うわ。やすひ……いえ、社長が土曜日も日曜日も働き詰めだったからちょっと心配してたの。社員の働き方を改革しても自分が一人ブラック企業していたら意味ないと思わない? 本当に困ったものだわ……って何よ」  肩を震わせて笑い出した知紗をじろりと睨む。すると、彼女が瑞希の肩に手を置いて、ニヤニヤとした笑みを向けてきた。 「すっかり奥さんじゃないの。やっと素直になったのね」 「別に私は最初から自分の気持ちに素直よ」 「……あんた、婚約までしておいてまだそんなこと言ってるの? 往生際が悪いわよ。まさか婚約中に難癖つけて別れるつもりとかじゃないわよね?」 (難癖?)  知紗の言葉にギョッとする。それでは瑞希がひどい女ではないかと嘆息した。 「そんなことしないわよ。一応この婚約期間中は前向きに彼を知っていきたいと思っているわ……。その結果、どうしても合わないなら別れることもあるかもしれないけど、敢えて粗探しをしようとかそんなことは思っていないわ」 「じゃあ、そんな顔をせずに結婚生活の予行演習を満喫すればいいじゃない」  事もなげに言い放つ知紗に大仰な溜息をつく。眉間に皺をよせながらパソコンを操作していると、知紗が瑞希を肘でつついてきた。 「過去を忘れて好きになってあげなさいよ。社長、優しいでしょ」 「それはそうだけど……」  確かに康弘はすごく優しい。いつだって瑞希を大切に扱ってくれる。それが分かっているから彼を拒みきれないのだ。 (噂しか知らなかった時は怖くてたまらなかったのに、本当の彼を知ってしまったら拒絶ができなくなるなんて、私ってチョロいわよね……)  だから過去に泣く羽目になったと分かっているのに、結局流されやすいところは変わっていない。  瑞希が過去を思い出して陰鬱な気持ちになると、隣で知紗が明るい声を出した。 「冷静に考えてスペックは高いし、仕事への理解も高いわ。仕事で遅くなっても文句なんて言わずに応援してくれるだろうし。私は社長以上の人なんていないと思うけど」 「それは雇い主だから当然……」 「馬鹿。現実はその当然がまかり通らないことのほうが多いわよ。社長が瑞希のことを考えて理解しようと努めてくれているからこそ、うまくいっているんじゃない。感謝しなさい」 「うん、そうね……」  知紗の猛攻撃に気圧され、つい頷いてしまったが、瑞希は違和感を感じてはたと動きを止めた。 (なんかおかしくない?)  元々観念しろとうるさかったが、どうしてこんなにも彼女が康弘を褒めるのか……  訝しげに知紗を睨むと彼女がへらっと笑う。 「ねぇ、貴方。いくらで社長に心を売り渡したの?」 「へ? 何それ。人聞き悪いわね。お金で靡いたりなんてしないわ。親友の幸せを思ってこそ、応援しているんじゃないの」 「……」 「きょ、協力したら市岡さんとの仲をとり持ってくれるんだって……。ほら彼、とてもかっこいいでしょ! 私の好みなのよね。あと、社食の食べ放題権ももらったわ」  誤魔化すように笑い後退っていく彼女の腕を掴むと、彼女が上目遣いで見つめてきた。 「そんな可愛い顔したって駄目だからね!」 「だってうちの会社のご飯美味しいし昼食代がこれから浮くって考えたらすごく大きいじゃない!」 「やっぱりお金で靡いているんじゃないのよ!」 「社食だけじゃなくて……市岡さんがとても素敵だからつい……。でも私だって本当に駄目な人になら協力したりしないわよ。社長にだったら瑞希を任せられると思ったから手伝うことにしたのよ。ね、瑞希も私の恋が上手くいったら嬉しいでしょ」 (……)  頭が痛い。どんどん周りを自分の味方にしていくところはさすがだが、やはり許せないものがある。瑞希はぐっと拳を握り込んだ。 「それに社長が忙しいってことは秘書である市岡さんも忙しいでしょ。彼らの仕事量を減らすのは私も大賛成よ。協力するわ」 「はいはい。休日まで忙しいとデートに誘えないものね」 「それだけじゃないわよ。本気で二人の体を心配してるの」  無邪気に笑う彼女に嘆息する。少し腹は立つが、なぜか知紗なら仕方がないと思ってしまうから不思議だ。すると、知紗が「あ!」と声を出した。 「何? 急に大きな声を出したらびっくりするじゃない」 「社長の話ですっかり忘れてたわ。昨日、瑞希と同じ大学だった友達と会ったんだけど、瑞希の元カレって人があんたを探し回ってるらしいの」 「え? なんで今さら?」 「さぁ。こんな話を聞くのも嫌だって分かってるけど、真偽はともかくとして念のために康弘さんに相談しておいたほうがいいと思うわ」 「うん。そうする……」  あんなにも手ひどく人の想いを踏み躙っておいて、今さら何の用だと思いながら、瑞希は痛くなった胸元をぎゅっと掴んだ。
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