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(もうやだ……。ただでさえ目立ってるのに土下座するなんて……)
いい具合に苛立ちを誘う彼の笑顔に、心の中で舌打ちをする。
「だって、こうでもしないと話なんてしてくれないだろう? それより、そんなに周りが気になるなら外で話そう」
「は? いやでも……外は無理です」
「いいから! こっち来いよ」
手首を掴まれ引っ張られてしまう。ずんずんと大股で歩く彼に足がもつれそうになりながらついて行くと、来客者用の駐車場だった。
(不思議ね。昔は手を掴まれればときめいたものだけど、今はなんとも思わないわ……)
それより天崎のせいで顔に力を入れていないと笑ってしまいそうになる。
(目の前にいるのはハシビロコウだって言い聞かせたら、穏やかな気持ちで話が聞けるかしら? いえ、やめましょう。笑ってしまってそれどころじゃなくなるわ)
安東は本気で謝る気はないらしく、とても偉そうに見える。瑞希は自分の車に腕を組みながら凭れかかっている安東をすまし顔で見た。
「――で、話ってなんですか?」
「聞かなくても分かるだろう? あの時は本当に悪かったと思ってるんだ。これからは瑞希一筋になるから、よりを戻そう」
「無理です。信用もできませんし、第一私もう貴方のこと好きじゃありません」
「なんだ? まだ拗ねてるのか? あれから何年経っていると思っているんだよ。相変わらず、お子様だな」
「拗ねていません。その言葉、そっくりそのままお返しします。もう八年経っているんですよ。いつまでも同じ気持ちのままだと思わないでください。それに私、今お付き合いしている人がいるんです。なので、実家にも勤務先にも二度と来ないでください」
きっぱりと告げると安東が目を見張る。そして彼は「冷たい瑞希もいいな」と茶化すように笑って腰を抱いてきた。その手を思いっきりつねる。
「ふざけないでください。もう話すことはないので、帰ってください」
「待てよ」
安東の隣をすり抜けて戻ろうとした時、左手首をガシッと掴まれる。痛みに顔をしかめると彼が瑞希の顔を殴った。突如として走った鋭い痛みと衝撃に体が飛んで、安東の車にぶつかる。
(痛……今……何が……)
「つねるなんて悪い子だな。じゃあ、付き合うのは別にいいや。それなら瑞希を誘拐してお前の両親から金もらうのが一番かな……」
「は? 何を言って……」
「しばらくの間、俺と遊んでいようか。久々の瑞希はどんな味がするかな」
ニタリと笑う彼に背中に寒気が走る。そんなこと不可能に決まっているのに、会わないうちにそんなことも分からない痴れ者になってしまったんだろうかと、悲しくなった。
「そんなの無理です。誘拐なんてできるわけないでしょう!」
瑞希が彼を睨みつけると無理矢理立たされて車に押し込まれそうになった。必死に暴れて抵抗すると、また殴られる。
「最低。思いどおりにならないからって殴るなんて……。どうしてそんな人になってしまったんですか? 昔の貴方はいい人ではなかったけど、ここまでひどくはありませんでした」
「お前が知らなかっただけで、元々こういう男だよ。出会った時のお前は世間知らずのお嬢様って感じで、そんなお嬢様を俺に夢中にさせるのが楽しかったよ。だが、まさか誰もが知ってるような大企業のお嬢様だったとはな。それが分かっていたら捨てなかったのに」
嘲る彼に、唇を噛む。こんな男に一度でも心を許したことが、どうしても許せなかった。
康弘なら絶対にこんなこと言わない。どんな時だって優しく寄り添ってくれる。たとえ数年会わなくても……
瑞希は康弘や天崎の言うことをちゃんと聞いて、あそこで康弘が来るのを待ってから安東に声をかけるべきだったと後悔が胸に広がっていくのを感じ顔を俯けた。
今どうしても康弘に会いたい。同じ会社内にいるのに、なぜかすごく遠く感じる。
(康弘さん、ごめんなさい)
心の中で懺悔した時、目の前の安東が飛んで体がびくっと大きく跳ねる。
「え……」
が、すぐに康弘が殴ったのだと分かって、体から力が抜けた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「浅羽さん……どうしてここに?」
「そりゃいつだってお嬢様の側にいますよ。ボディーガードなんですから……」
幼い頃からずっと側にいてくれたボディーガードの浅羽が体を支えてくれて、瑞希は揺れる目で彼を見た。
「お嬢様が嫌がるので大学に入ってから今まではずっと陰ながら護衛をしていました。ですが、露口社長が来るまで動くなとの指示を旦那様から受けていたので、助けるのが遅くなって本当に申し訳ございません。痛かったでしょう?」
「貴方たちが来てくれたから大丈夫よ」
ずっと守られていたことを知り、胸が温かくなってくる。泣きそうになると、康弘が走ってきて抱き締めてくれた。
「瑞希!」
「康弘さん、ごめんなさい、勝手なことをしてごめんなさい……」
来てくれて嬉しい。何度も謝りながら、震える手でぎゅっと康弘のジャケットを掴むと、彼が強く抱き締めてくれる。
ほんの少し前まで一緒にお弁当を食べていたはずなのに、数時間ぶりにも感じて瑞希は縋るように抱きついた。
「謝らないでください。怖い思いをさせてしまいすみませんでした」
「いいえ、助けに来てくれたじゃないですか。それだけで充分です」
康弘の胸にすり寄ると頭を撫でてくれる。彼は瑞希を抱き締めながら、警備員に取り押さえられている安東のほうに体を向けた。
「くそっ、何でこんなことになったんだ……。瑞希は俺に惚れてるはずなのに」
「勘違いをするな。君のような男に惚れてなどいない。瑞希は俺のものだ。――それからうちの病院で薬剤師として働いているようだが、君のことは本日付けで解雇する。二度と瑞希の前に姿を現すことは許さない」
「は?」
顔を引き攣らせた安東に市岡が数枚の書類を渡す。それを見て、彼の顔が凍りついた。
(安東先輩って露口製薬グループの病院で働いてたんだ……)
それなのによくこんな大それたことをしたものだと、瑞希は呆れた。
「嘘だろ……」
「嘘ではない。君は決して手を出してはならない人に手を出した。先に言っておくが、俺は諦めるということを知らないくらい執拗だ。今後また瑞希に害をなすようなことがあれば地獄の果てまで追いかけてでも潰してやるから覚悟しておけ」
(康弘さん……)
そう言い放った康弘は噂どおりの冷徹社長そのものだった。その姿に頼もしさを感じていると、浅羽が救急セットを持ってきてくれたので、彼からの手当てを受ける。
「あとは病院でちゃんとした処置を受けてください」
「ありがとう。それより、安東先輩はどうなるの?」
「安東は色々な女性に暴力を振るったり金を騙し取ったりしていましたから、その件と今回のお嬢様への暴行をあわせて告訴する予定です。すでに被害女性数人から話を聞き被害届も出してもらっているので、もう逃げられないでしょうね」
(何人もの人に暴力を?)
瑞希は安東に視線を向けた。軽薄なところはあったが誰かに暴力を振るったりお金を要求したりする人じゃなかったはずなのにと、悲しくなる。
(会わない間に何がここまで先輩を変えたのかしら……)
「瑞希、あとのことは市岡に任せて病院に行きますよ」
「はい」
こくんと頷いて康弘の側に近寄ると、ぐっと引き寄せられ腰を抱かれる。安東の時はすごく嫌だったのに、康弘だととても安心した。
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