マーキング

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マーキング

「康弘さんったら……見えるところはやめてって言ったのに……」  研究棟のトイレに入り鏡で確認すると案の定、鎖骨や首筋にしっかりと赤い痕がついていた。瑞希はポーチから絆創膏を取り出つつ、ぶつぶつと不満を漏らす。 (ベタだけどこれを貼っておこうかな……。コンシーラーで隠す時間なさそうだし)  今日はお弁当を食べるのが遅くなってしまったので昼休みがもうすぐ終わってしまう。結局拒みきれずにイチャイチャしていた自分が悪いのだが、それにしてもこんなにしっかりとキスマークをつけるのはひどいと思う。  瑞希は絆創膏を貼ってから、鏡をジッと見つめた。逆に貼ったほうが目立つ気もする。 「ああもう、孝成さんったら。これ、コンシーラーで隠れるかな」  いっそないほうがいいかなと思った時に知紗がトイレに駆け込んできた。瑞希の存在にも気づかずにポーチの中からコンシーラーを探している彼女をしばし腕を組んで眺める。 (わざわざどうなったか聞くまでもないわね)  イチャイチャしているという予想が当たって瑞希はほくそ笑んだ。「ふーん」と声を出すと、コンシーラーでキスマークを隠そうと躍起になっている知紗がビクッとなる。 「やだ。びっくりするじゃない。いつからいたの?」 「最初からいたわよ。その赤い痕を見るにうまくいったようね」 「おかげさまでね。仕事終わったらデートしてこの前の仕切り直しをする予定なの。今回はお酒なしでね。だから午後は早めに仕事終わらせなきゃ」 「良かった。知紗のことだから大丈夫だとは思ってたけど、うまくいって本当に良かったわ。おめでとう」 「ありがとう……って、あれ? 瑞希、それ……」  ホッと息をついた時、首に貼った絆創膏を指差されてバッと手で覆う。すると、知紗が「へぇ」とニヤついた。 「ち、違……これは違うわ」 「何が違うのよ。照れなくてもいいじゃない。素直に私も社長とイチャついてましたって言いなさいよ」 「こ、これは躾のなってない虎に噛まれただけよ」 「馬鹿。それはさすがに死んじゃうわよ」  呆れた声を出す知紗に乾いた笑いを向けると、彼女が瑞希の絆創膏を一気に剥がした。そして、コンシーラーでカバーしてくれる。 「ほら、こっちのほうがパッと見で分からないわ」 「あ、ありがとう……」  鏡を見てみると、確かにうまい具合にカバーができていた。瑞希はさすがうちの会社の商品だなと思いながら、少し遅れて研究室に入った。  *** 「え? キスマークを隠そうとして遅れてしまったんですか?」  その日の夜。キッチンで食後のコーヒーを淹れてくれていた康弘が、瑞希の言葉で思わず手を止めた。 「別に隠す必要なんてないのに……」 「そういうわけにはいきませんよ。さすがに目立つので……」  残念そうな顔で瑞希好みの豆乳がたっぷり入ったコーヒーを目の前に置いてくれる康弘に、ぺこりと頭を下げて彼の言葉を受け流す。すると、彼は瑞希の隣に腰掛けて髪を耳にかけてくれた。 「俺のせいで遅れたので、俺から所長に話しましょうか?」 「いえ、そんな……。と言っても数分なので、その必要はありません。でも、悪いと思っているなら今後目立つところにキスマークはつけないでください」  康弘は瑞希のお願いに返事をせずに、難しい顔でコーヒーを一口飲んだ。彼が反応してくれないことに困って、上目遣いで顔を覗き込むと彼の眉間に皺が寄っていることがいることが分かる。その表情に瑞希が動揺すると、康弘が立ち上がった。 「康弘さん? もしかして怒ったんですか?」 「まさか。そんなことあるわけないじゃないですか。俺としてはキスマークはマーキングのつもりだったんですが、瑞希が嫌ならこっちで示します」  そう言って康弘が床に膝をつき、瑞希の左手を取った。どういう意味だろうと康弘のほうに向き直ると、彼の真剣な眼差しに心臓がどくんと大きく跳ねる。彼は瑞希の左手の薬指に指輪をはめて、手の甲にちゅっとキスをした。 「こ、これって……!」 「婚約指輪です。本当はもっと早く渡したかったのですが、準備に手間取り時間がかかってしまいました。原田瑞希さん、どうか俺と結婚してくれますか?」  その言葉と共にまた手の甲にキスが落ちてくる。彼の懇願に似た声に動けなくなってしまった。  彼からは何度も『結婚しましょう』とは言われているが、指輪をもらって改めてプロポーズされると、すごく嬉しいものがある。瑞希が泣き出すと、康弘が眉根を寄せて笑った。 「返事はもらえないんですか?」 「だ、だって……康弘さんが、急に驚かせるから……。も、もうすぐ、結婚式って時に、こんなふうに……してもらえるなんて、思ってなくて……。うう、康弘さんの馬鹿。好きです。絶対に幸せにしますから」 「それは俺のセリフです。瑞希……どんな時でも誠実に貴方に尽くします。必ず幸せにすると誓いますから、俺と結婚してください」 「はい!」  返事と共に膝をついている康弘に飛びつくと、受け止めて力強く抱きしめてくれる。そして唇がしっかりと重なり合った。そのまま夢中でキスを交わす。 「んっ、ふぁ……んんっ」  口内を味わい尽くすかのように這い回る康弘の舌に食べられてしまいそうな錯覚を生む。縋るように康弘のシャツを掴むと、ゆっくりと唇が離れた。  康弘に身を預けて呼吸を整えていると優しく背中をさすってくれる。 「康弘さん……」 「瑞希、昼の続きをしませんか?」 「はい」  こくんと頷くと、そのまま抱き上げてくれる。すでに力が入らない瑞希は為すがままだ。彼は宝物でも運ぶかのように大切にゆっくりと寝室まで運んでくれた。  運ばれていく時も左手に輝く指輪が目に入って自然と頬が緩む。 (うふふ、嬉しい……)  ベッドにおろし覆い被さってくる彼の心地良い重みに、そっと目を閉じて首に手を回した。
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