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張り詰めた空気
「なぜ?」
「なぜって……け、研究者にとってマスクは仕事上必要なものですから……。感染源にもなるような危ないものも扱いますし。だ、だから、少し離れてください」
見合いの時も思ったが彼に「なぜ?」と問われると、なんだか怯みそうになってしまう。だが、今の彼のぼそっとした呟きを瑞希は聞き逃さなかった。
(い、今、雰囲気違うから分からないって言った……!)
やはり彼は昨日の相手と目の前にいる研究員が同一人物なのか、ただの同姓同名の別人なのかを確認するために呼んだのだ。ならば、何としてでも顔を見られるわけにはいかない。
(いくらメイクしてないからって、ここまで至近距離だったらさすがにバレるかも……)
瑞希は顔を覗き込もうとしてくる彼から逃れるように思いっきり顔を背けた。
「ここは研究室ではないので、そのような心配は不要です。それに社長として、働く者の顔や名前を把握するのは当然のことだとは思いませんか?」
その考えは立派だが、社員全員を把握するなんて不可能だ。自分の会社の規模が分かっていないのだろうか。
瑞希はマスクの紐に手をかけようとした彼の手を掴んだ。
「いいえ! 忙しい社長に私みたいな平社員の顔を覚えていただくなんて畏れ多いです」
「そんなことはありません。貴方は優秀なようですから、尚のことよく知っておきたいです」
(知ってくださらなくて結構です。むしろ私のことは忘れてください!)
マスクを取られまいと露口の手を押さえてはいるが、あまりにも強引すぎる彼にこれ以上は無理だと諦めそうになった時、エレベーターが目的の階につく。
扉が開くと、秘書が露口を待っていた。彼はとても驚いた顔で瑞希と露口を見ている。
「社長……何をされているんですか? セクハラはちょっと……」
「なっ、違う! セクハラではない。ただ単に顔を見て話がしたいと頼んでいただけだ」
「ならいいのですが……。でも、かなり強引に迫っているように見えたので、気をつけてくださいね」
まさかセクハラと指摘されるとは思わなかったのだろう。露口が激しく狼狽えている。その姿を見てクスッと笑うと、露口が瑞希のほうに体を向けて頭を下げた。
(えっ!?)
「すみませんでした。そんなつもりではなかったんです。誤解をさせたなら……」
「あー! いいえ! そんなふうに思っていないので大丈夫です。今後気をつけていただけたら、私はそれでいいので」
とても申し訳なさそうに謝ってくる彼の言葉を遮って、顔の前で手を振る。
(なんだ……素直なところもあるのね……)
見合いの席でも先ほどのエレベーターの中でも、あまりにも強引なので人の話を聞かないタイプかと思っていたが、そうではないようだ。瑞希は意外な一面を見て警戒心が少し緩んだ。
そのあと会議室に行くと、社長たち以外にほかの研究員や社員もいたので、マスクを取るように言われることもなく仕事の話がちゃんとできた。
瑞希の論文を読んだ露口の意見も聞けて、彼が私的な理由だけで呼びつけたのではないのだということが分かりホッと息をつく。
(びっくしりした……ちゃんと読んでくれていたんだ。てっきり呼び出す口実に使われたと思った……)
自意識過剰さに恥ずかしくなって、頬を掻く。
「思っていた以上に有用性が高くて驚きました。入社一年目でこのような結果を出すとは……やはり原田さんは優秀なんですね」
「ありがとうございます。この研究は会社に入る前からずっとしていたものだったんです。でもそれを認めてくださりサポートをしてくれた皆がいたから無事に形になりました。なので私だけの成果ではありません」
面映ゆい気持ちになり俯くと、露口がほうっと息をつく。
「謙虚なんですね。そういうところも気に入りました。では今後はチームを組んでもっと大々的にしましょう。予算は惜しみませんので」
(やった!)
昨日の変なプロポーズなんかよりも今の言葉のほうが断然いい。瑞希は興奮がちに露口の手を握った。
「ありがとうございます! 私、精一杯頑張りますから!」
「ええ、期待していますよ。では、今回開発に成功した新規有効成分の特許や権利を会社に帰属するという契約を結びたいのですがよろしいですか?」
「もちろんです」
「では、これを書いてください」
二つ返事で了承すると、露口が瑞希の前に一枚の紙を差し出した。意気揚々とサインしようとして固まる。
(え? これって……)
あまりの信じられなさに目を大きく見開く。
ぷるぷると震えながら左上に書かれている『婚姻届』の文字を指差すと、露口が「ああ、間違えました」としれっとした顔で紙を取り替えた。
周りの人たちは、この有効成分を使ってどういうものが作れるか話し合っているせいか、瑞希たちのやりとりに気づいていないようだ。
(間違えましたって……間違えましたって……)
「原田さん、驚かせてしまい申し訳ありません。社長は少し疲れているようです……」
「すまない。原田さんをかなり動揺させてしまったようだから、俺ではなく市岡が説明してやってくれ」
丁寧に露口の非礼を詫び、名刺をくれ挨拶をしてくれる。とても好感の持てる秘書だが、瑞希の頭の中はパニック寸前だった。
「あ、あの……今のは何なんですか?」
聞かなければいいのに、気になりすぎて尋ねずにはいられなかった。露口の顔と引っ込めた婚姻届を交互に見る。
「貴方が気にする必要はありません」
「で、でも……」
「これは昨日お見合いをした女性に渡すものです」
(え……私に? 婚姻届を?)
まだ諦めていなかったのかと引き攣った顔を向けた。
先ほどまでの和やかな雰囲気がなくなり、空気がぴんと張り詰める。
(やっぱりこの人変だ……)
それはすでに断ったはずだと言ってやりたかったがバレるのは得策ではないので、冷ややかな視線を彼に送る。すると、彼がクスッと笑い、瑞希の耳に顔を寄せてきた。
「そのように反応されると、君がそうかと疑ってしまうのですが」
(……!)
揶揄うように囁かれて、瑞希は耳を押さえながら立ち上がった。
「は? ち、違います! 誰だってこんなところで婚姻届が出てきたら驚くでしょ!」
ほかにも人がいるというのに何を言い出すのか、この人は。
瑞希は慌ててちゃんとしたほうにサインをしてから半ば逃げるように会議室を飛び出した。背後で市岡の呼び止める声と皆の「どうしたんだ?」「何かあったのか?」という会話が聞こえたが、逃げずにはいられなかった。
(ど、どうしよう……めちゃくちゃ疑われてるかも……)
そりゃそうだ。こんな短期間に同姓同名の人間と遭遇するなんて中々ないだろう。
雰囲気が違っても疑ってしまうのも無理はない。が、だからと言ってこのまま疑いを確信に変えさせるわけにはいかない。
(もう嫌。頭痛い……)
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