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事前の根回し
「ありがとうございます。絶対に大切にします」
「で、でも、まずは一年ですからね!」
きつく抱き締めてくる康弘の胸をぐいぐい押しながらそう付け足すと、彼が屈託なく笑う。
最初は彼から逃げたいと思っていたが、今は――彼の優しさに触れて、その気持ちが変わりつつある。未来の自分の気持ちなど自分自身でも分からないのだから、試用期間を置くのは確かに悪くないのだろう。
(やってみて駄目だったらその時はその時よね……。それに夢のようにうまくいく可能性だってあるし)
何年もかけたものが無駄に終わる。研究というものはそういうことがあるものだが、だからと言って最初から諦めようとは思わない。人生も時には失敗を恐れずに挑戦あるのみなのだと、康弘から教えられた気がした。
「もちろんです。貴方がくれたチャンスを必ず掴み取ってみせますよ。ですが、そのためにも不安なことが出てきたら、その都度ちゃんと言ってくださいね。善処しますので」
「はい。ありがとうございます」
こくこくと頷くと、いい子だと褒めてくれる。面映ゆい気持ちになって俯くと、頭を撫でられた。
「それでは、そろそろこの一年をどう過ごすか決めましょうか」
「どう過ごす?」
「まずは瑞希さんのご両親に挨拶をしましょう。そこで一年の婚約期間を置いてから結婚するつもりだと話して、両家の顔合わせをするのはどうでしょうか?」
(あ、そういう意味ね)
てっきりどういうふうに恋人として過ごそうかと尋ねられたのだと勘違いし、一瞬身構えた自分が恥ずかしい。瑞希は気まずげに視線を逸らした。
「私もそれでいいです。一応、今日にでも父に康弘さんとお付き合いすることになったと話しておきますね。……一度は断っておいてと言ってしまってるので、早めに話しておかないと会長に断りの連絡を入れてしまったら大変ですし」
目を伏せたままえへへと笑うと、彼は先ほど巻いた瑞希の髪に触れながらフッと笑った。
「その件は原田社長から、すでに聞いています。そのうえで話し合い、俺にすべてを任せるという言葉をいただきました」
「え?」
「瑞希さんが人生を仕事に捧げるつもりなのが心配でたまらないと仰っていました。できれば頑なな心を溶かしてやってほしいと……」
「そうだったんですね……」
(パパ……)
父の想いに瞳の奥が熱くなる。
一向に立ち直れない弱い自分のせいで二人にはすごく心配をかけた。見合いをする前に、人を好きになることを諦めないでと泣いた両親の顔を思い出して、ちらっと康弘を見る。
最初は彼の噂を信じてビビッていたが、今なら分かる。社長として自社の研究員への仕事内容に対しての理解と把握がある康弘ならば、創薬研究者としての瑞希を否定することはしないだろう。
(パパたち、私を任せられる人を必死に探してくれたのよね……)
「でも自棄になっているからとかじゃなく、人生を捧げてもいいくらいこの仕事が好きなんですよ」
「もちろんそれは分かっています。好きなことを直向きに頑張る貴方はとても魅力的なので、今後は社長としても婚約者としてもサポートさせてください」
「ありがとうございます」
理解を示してもらえたことが嬉しくてはにかむように笑うと、彼が瑞希の頬に触れた。そしてその手をするりと滑らせて後頭部にまわす。
「康弘さん?」
スッと細まった彼の目に食べられてしまいそうで、急に焦りが出てくる。瑞希が不安げに彼を見ると、彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
「愛を育みたいと言った中にはこういうことも含まれているのですがよろしいでしょうか?」
(え?)
そう言った彼の唇が瑞希の唇に重なった。それは一瞬だけの触れ合いだったが、しっとりとした熱が嫌でもキスをしたのだと自覚させる。
「~~~っ!」
「瑞希。今夜にでもうちに引っ越してきなさい。一緒に暮らしましょう」
「へ?」
「俺たちは忙しい。一年間を無駄に過ごさないためにも自発的にお互いの時間を持つことは大切です。なので、同棲しませんか?」
今キスをしてきた相手と……愛を育みたいと言った相手と……一緒に住む?
(そ、それってつまり……エッチもするってことよね? で、でも、夢の中でさえいつも未遂なのに……)
瑞希は目を大きく見開いたまま硬直した。頭の中は同棲生活を想像して大混乱だ。
「い、言っていることは理解できますけど……同棲はちょっとキャパオーバーというか……無理です」
「ですが、どうせ結婚したら一緒に住むんですよ。その時も同じことを言うんですか?」
「それは……」
「この一年は貴方に俺を好きになってもらう試用期間でもありますが、結婚へのシミュレーションでもあります。なので、努力をしないできないは禁止です」
(そ、そんな……)
きっぱりと言い切られて何も言い返せなくなる。命じられると反論できないところがやはり部下としての性なのだなと心で泣いた。
(こ、この一年でなんでも言い返せるようにならなきゃ)
「瑞希……」
心を奮い立たせていると、彼がまたキスをしてこようとする。要求を通したい時は呼び捨になるということをなんとなく掴み取り、瑞希は両手で彼の唇を塞いだ。
(ちゃんと言わなきゃ。少なくとも一年間は恋人なんだから……上司と部下じゃないんだから……)
好き放題にはさせないんだからと、キッと康弘を睨みつける。
「そ、そういうことは両親への挨拶が終わって、一緒に住む許可を得てからです。や、康弘さんだって頑張って我慢してください! 私だって努力をするんだから康弘さんもしてくれなきゃフェアじゃありません」
「その件はご心配なく。先ほども言ったとおり、原田社長からこの件をすべて任せられています。瑞希さんが頷けば万事抜かりなく事が進むようにしてあるので、安心してください」
「は? え……嘘」
「嘘ではありません。事前の根回しは交渉術の基本ですよ」
そう言って笑った康弘の表情に、知らぬうちに父親と共謀されていたことに気づいて瑞希は愕然とした。
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