帰らないと

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「…………」  身体が動かない。  ……息が止まりそうなほど強く抱きしめられた腕の力のせいじゃない。  心臓が痛いほど早鐘を打つ。  ……乱心する拓馬さんの姿に動揺したからじゃない。    両目が捉える異質に、俺は恐怖していた。  拓馬さんの背後に広がる黒い影。それを視認した瞬間、まるで金縛りにあったみたいに身体が動かなくなった。  それは祭壇の石から湧き出て、水に落とした墨汁みたいにもやもやと空間に広がっている。影は、広がるほどに色を濃くし、暗い闇の色になっていく。それに合わせ、室内に立ち込める異臭も強くなる。  差し込む日差しを遮るほど広がった影は、俺たちを取り囲むような状態で一度増幅を止めた。  この影は、この部屋に着いた時に感じた淀んだ空気をそのまま具現化したみたいに重苦しい。全く触れていないのに、ずしりとのしかかり、ねっとりと絡み付いくるみたいに。それは、外で感じた見えない視線と似た感覚だった。  背中に冷たい汗が流れ、拓馬さんの震えが伝染したみたいに、動かないはずの身体が小刻みに震える。胸の痛みを紛らわすみたいに、短く早い呼吸が口から吐き出される。  俺はただ無心にそれ(・・)見つめていた。いや、それ(・・)から目が離せなくなっていた。  宙に向いた俺の視線とぶつかる、誰のものとも分からない瞳。  形を持たない影に浮かび上がった人間の目。それも一つじゃない。いくつもの目が影の中に浮かんでいる。  それらは酷く血走っていて、大きく見開いたかと思えば、生きた人間のように何度も瞬きを繰り返したりする。しかし、視線は微動だにせず、意思を持って俺たちを凝視している。  動きを止めたはずの影が、じわじわと俺たちに迫ってくる。不快感ある視線が近づき、焦げ臭さと生臭さが混じった異臭が、吐息のように顔や首筋に吹き掛けられる。  頭の中で「逃げろ」と警告が鳴り響く。しかし、嫌悪感と恐怖で身体は竦み、指先すら動かず、逃げ出すことができない。  完全に光が遮られた闇。無数の目に見つめられながら、俺たちは黒い淀みにのみ込まれた。
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