龍と妖怪、三シャの願い

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 半年前、男がここ越来城の主ではなく、首里城の主、この国の王だった最後の日。夜逃げのようにひっそりと首里城から去った日。 『……挨拶、してもよろしいでしょうか?』  男は後ろから聞こえてきた声に反応しようか悩んだ。聞こえない振りをして立ち去ってもおかしくはない。声の主は子供とはいえ、男の気持ちを汲み取ってはくれるだろう。 『では、礼儀として、私からご挨拶申し上げましょう』  子供は十二歳。小さな背ではあるが、男は階段で子供より下にいる。 『私、空添(そらぞえ)本日をもって首里城から離れ、越来の地に根を張りましょう。死が迎えに来るその日まで、この体で首里城に再び足を運ぶことも、王様に会うことも決してないとお約束致します。王様と琉球国の末永い繁栄を、越来の地より、死後の世界より、願っております』  男は片膝をつき、深々と頭を下げる。幅は広いが、緩やかな傾斜の階段でする体勢ではない。少しよろつきながらもしっかりと、男の敬意が子供に伝わるように。 『もう、叔父上と呼んでもよろしいでしょう』  男が王となった半年前、子供に叔父上と呼んではいけないと伝えた。叔父と呼ばれるのがたまらなく嫌だった男にとっては、叔父以外の呼び方で呼ばれるなら何でも良かった。 『……そうですね、私はもう王ではありません。叔父、以外に似合いの呼び方もありませんね』  本当は違う。私は叔父ではない。歳はかなり離れているが、兄なのだ。  本当のことを伝えられたら、どれほど楽だったか。 『叔父上になんと思われようと、この先ずっと僕にとっては大好きな叔父上に変わりありません。どうか、叔父上に忍び寄る不幸の全てが僕に降りかかりますように。もう、叔父上を苦しめることがありませんように。僕はここから祈っています。叔父上に幸多からんことを』  真実など、何の役にも経たない。男は何度も体験していた。身をもって思い知っている。  大事な弟に、僅か十二歳という年齢でこの国の王になった弟に、これ以上何も背負わせられない。 『王様のお心遣い。何物にも代えがたい幸せにございます。この空添、王様に頂いたお言葉を胸に刻み、宝物として共に大事に生きていく所存』  男は姿勢を戻して、ゆっくりと子供に近づく。  子供は何をされるかわからないはずなのに、後ずさる様子を見せない。  手を伸ばせば近づける。二人の距離はそこまで縮まった。 『けれどね、私の一番の願いは真加戸(まかと)自身の健康だ。何よりも体を大事にすること。それを私と約束してくれる?』  男が砕けた笑顔を子供に、真加戸に向けた瞬間、真加戸は足を一本前に出して男に抱きつく。男の背に向けた両手をぎゅっと強く結び、子供の力で離れないように一生懸命に抱きつく。 『僕、叔父上と離れたくない。これからもずっと会いたい、一緒にいたいのに。それなのに僕は叔父上に酷いことをした。謝っても『謝ることなんてない。真加戸は何もしてないんだ』  男から王位を奪ったのは別の人だが、その人は真加戸を王にするために男を陥れた。 『さぁ、もう戻りなさい。真加戸の母上に見つかってしまったら、私が怒られてしまう』  真加戸の母親、彼女こそが男から王位を奪った者。 『真加戸は立派な王になる。父親に似ているからね。私はそう確信しているんだ』  男はゆっくりと頭を撫で、笑顔のまま真加戸と別れた。  真加戸は階段の一番上で、男の姿が見えなくなるまで、深く頭を下げ続けた。
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