第二章【河童の】

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第二章【河童の】

◆  入山する際に、蜜木は自分の存在が朧げになる術をかけた。  本来は山に入る際に、こんなことはしない。人間が山に入ってきたことを、妖怪だけでなく他の獣たちにも知ってもらうためである。人間がいると分かれば、逃げていく妖怪や獣がそれなりに多い。  しかし今回は山の調査を最優先として、妖怪に対してできる対策はすべて講じることにした。それは前回で得た、貴重な教訓である。  そして今回は溜家と歩いた道ではなく、人も獣もあまり通らないような道を選んで歩いた。蜜木の思惑が功を奏したのか、無意味に襲ってくる妖怪はいなかった。  それでも蜜木はできるだけ早足で、山の中を歩いた。  自分にかけた術の効力は、日によって差はあれど半日程度だからである。  病み上がりのせいか、一時間もすると蜜木の息は上がってきた。  蜜木が渓流の大きな石の上で一息ついていると、目の前をプカプカと小さな河童が流れてきた。  その河童は川に流されたまま、じっとこちらを見つめた。そして蜜木に、小さく手を振った。 「ん?」  不思議に思いながらも、蜜木は小さな河童に手を振り返した。  おそらく子河童なのだろう。蜜木が手を振り返してもなお、子河童はこちらに手を振り続けた。その様子を見て、もしかしたら子河童は溺れているのではないかと思った。 「え、大丈夫か!」  蜜木はそういいながら、ざぶざぶと渓流へ入っていった。  四月末とはいえ、渓流の水はひどく冷たかった。たまたま浅瀬だったこともあり、蜜木はそれほど苦労せずに子河童を助けることができた。 「さ、寒い……お前は、大丈夫か?」  膝下が水に浸かっただけで、蜜木の震えはなかなか止まらなかった。それに反して子河童は、無表情のまま「大丈夫」と答えた。 「君は、この辺の河童か?」  蜜木は手拭いで足を拭きながら聞いた。 「この辺じゃない」  子河童は、山の上の方を指した。 「もっと上の方に住んでるのか。しかし河童の川流れとは、めずらしいものを見た。これも凶兆かね」  子河童は蜜木の言葉の意味がわからなかったらしく、首をかしげた。  妖怪にも人語が得意である個体と、そうでない個体が存在する。目の前の子河童は、おそらく中間といったところだろう。もしくはまだ幼体なので、反応が鈍いだけなのかも知れない。 「わからない。でも、こわかった」  子河童はいった。  河童は水中でも息ができる。しかし思うように動けなかったのなら、怖かっただろう。 「そうか。助けられてよかった。お腹は空いてないか?」  蜜木が握り飯を差し出してみても、それを見つめるばかりで受け取ろうとはしなかった。 「キュウリの方がいいか? 漬け物だが、いけるか?」  蜜木はキュウリを差し出した。子河童は迷うことなくそれを受け取り、しゃくしゃくと口にした。 「山の上のほうは、よくない」  子河童はいった。 「よくない、か。なにか原因があるのか? 原因があれば教えて欲しい。俺はその原因を探ってるんだ」  子河童は蜜木の言葉を正確に理解したらしく、力強くうなずいた。  そして「ピェー」と、大きくひと鳴きした。  予想外の出来事だったので、蜜木は思わず「うわ」と声を出した。 「どうした? びっくりしたな」  蜜木がいっても、子河童はしゃくしゃくとキュウリを食べるばかりであった。しかしほどなく、蜜木たちの周りにはぷかぷかと河童たちが顔を出し始めた。先ほどの鳴き声は、仲間を呼んだ声だったのだろう。溺れていた時には声も出せなかったのだろうと思うと、助けてよかったと心から思った。  子河童は蜜木にはわからない言語で、水辺に顔を出だしている仲間たちに何かを話した。 子河童の話が終わると、河童たちはそれぞれに口を開いた。 「永く生きた妖狐が、もうすぐ死ぬ」 「三百年生きた妖狐だ」 「尻尾が三つある」  河童たちは、流暢な人語を操るようだった。  蜜木は、河童たちの話を聞く体勢になった。 「三百年生きた妖狐か」  それは大妖怪といっても過言ではない個体である。 「妖狐の名は、夜風(よるかぜ)」  夜風。  聞いたことのない名前であったが、溜家や他の上官なら知っているだろうか。 「死に際にいる夜風が、ひどい毒気を放っている」 「その毒気に当てられて、一部の妖怪に異変が起きている」  河童たちは次々にいった。 「この子が溺れていたのもそのせいか?」  蜜木はいった。 「子どもは、影響を受けやすい」 「臆病になる妖怪もいる」 「警戒心が強くなる妖怪もいる」 「凶暴になる妖怪もいる」  夜風の毒気に当てられた妖怪たちが通常でない状態になるならば、先日の出来事にも納得がいくように思った。 「ありがとう。すごく参考になったよ。しかし、死に際に毒気を放つ妖狐か。初めて聞いたな。そういう妖怪も、少なからず存在するのか?」  蜜木は河童たちに聞いた。 「夜風は、呪われている」 「食ってはいけない、人間を食った。そう聞いた」  食ってはいけない人間。そんな人間など存在するのだろうか。 「その夜風という妖狐は、どの辺を住処(すみか)にしているのかわかるか? 知っているなら、教えて欲しい」  蜜木は持ってきていた山の地図を広げた。 「ここ。ここの洞窟に、いる」  助けた子河童はそういうと、蜜木の広げた地図にびちゃりと手を置いた。 「ここか、ありがとう!」  蜜木がお礼をいうと、子河童は「うん」と短くいった。そして子河童も「ありがとう」と蜜木に礼をいって、仲間のいる渓流の中へと入っていった。水に対する恐怖心は芽生えていないようなので、蜜木は内心ほっとした。 「この山は危険」 「なるべく早く、ここから離れた方がいい」  子河童を迎え入れた河童たちはいった。 「そんなにひどい毒気なのか?」  蜜木はいった。 「だんだん、ひどくなってる」 「数日のうちに、夜風は死ぬ」 「夜風が死んだら、今よりよくないことが起こる」  それは、予言のようだった。 「わかった。色々教えてくれてありがとう」  それから蜜木は、河童たちと手を振り合って別れた。 ◇  死に際にいる妖狐。夜風。  それが毒気を放っており、槐山にいる妖怪たちに異変が起きている。さらには夜風が死んだのちには、もっとよくないことが起こる。 その夜風の居場所は、子河童が教えてくれた。  これだけでも、充分な成果といえる。  しかし蜜木は、もう少しその洞窟の周辺を調査しておきたいと思った。  先日のように害妖が襲ってくる気配もないので、それが蜜木を慢心させた。  注意深く足を進めているはずだったが、気づくと周囲の空気がしんと冷たくなっていた。そろそろ引き返した方がいい。そう判断し、来た道を引き返そうと振り返った時、蜜木は理解した。周囲の空気が冷たくなったのではなく、悪寒が走ったのだと理解した。  目の前には、こちらを睨む野干(やかん)の害妖たちが無数にいた。  蜜木は両人差し指の第一関節をマッチのように擦り、瞬時に抜刀した。そして襲いかかってくる害妖らに応戦した。蜜木に襲いかかってくるそれらは、最近槐山で急激に増えたといわれている害妖であることを、蜜木は頭の隅で思い出していた。  蜜木はできるだけ洞窟から離れるようにして、それらを斬っていった。しかし蜜木一人で相手にするには、その数は多すぎた。  このまま戦い続ければ、自分の体力はほどなく尽きるだろう。しかし攻撃に徹すれば、この場を切り抜けることはできるかも知れない。蜜木はそう判断し、防御を一切せずに攻撃に徹する覚悟をした。  最後の害妖を斬った後でも、蜜木はどうにか自分の力で立っていた。  しかし深く呼吸をすれども、充分にそれが体内に巡っていく感覚はなかった。蜜木は朦朧としながら、本能的に大きな木に身を寄せた。そして、崩れるようにその場に座り込んだ。  血を流しすぎた。止血をしなければならない。そうは思えど、体が上手く動かなかった。  意識が薄らいでいく中で、何者かが近づいて来るのが感じられた。  咄嗟に立ち上がろうとしたが、それはできなかった。視線を上げた瞬間、心臓が一拍跳ねるほどに、その姿に魅入られた。  ひどく美しい少女が、そこにはいた。 「天女か、なにかの、類かね」  蜜木のその声は、おそらく音にさえならなかった。 「大丈夫か?」  彼女は血だらけの蜜木の姿をみても、驚いたり哀れんだりすることなく冷静な声でいった。 「大丈夫だ。それより、ここは、危険だ。逃げろ」  どうにか声を絞り出した後、蜜木の意識はふっつりと途絶えた。
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