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04. お腹空きません?
次の角を右に曲がったら、すぐに憂子の家だ。もうすぐで推しと共にいる時間が終了してしまうのを考えると、憂子の心には焦りが生じ始めた。
まだ、「狼男」さんと一緒にいさせてくれ。
ツミヒトは憂子の恋人ではない。恋人ではないのだが。
憂子は、推しと別れた後の寂寞とした虚無感に囚われる自分自身を想像した。きっとそれはいつもの自分ではいられない。
「ツミヒトさん」
「ん?」
「お腹空きません?」
ツミヒトは低い声で「はあ?」と呟いた。だが、そこは憧れの「狼男」。一度は呆れ顔を見せたものの、文句は一言も言わない。
「お前は、腹が減ったのか? 食べるものなんて俺にはないが」
憂子は顔が紅に染まる。ツミヒトが見ず知らずのオタク女子大生に対して気遣ってくれたのは嬉しい。だが、空腹だと勘違いされたのは気恥ずかしいし、送ってもらった上に食べ物をねだるのは烏滸がましい。
「そ、その、ツミヒトさんにお礼がしたくて」
憂子が懸命に言い訳をすると、ツミヒトは納得したように何度も頷いた。
「そういうことか。別に、俺は腹など空いていない」
そりゃそうですよね、すみません。憂子は心の中で土下座をした。
憂子が黙り込んでしまったのに気付いたのか、ツミヒトは次に言うべき言葉に迷った。視線を逸らし、眉間に皺を寄せてしばらく考え込んでいる推しに、上目遣いで見つめていた憂子の胸がときめく。
「本当は礼などいらないが」
ツミヒトは諦めた様子で首を振った。
「お前がどうしても礼がしたいと言い張るなら、できないことはない」
憂子は自分がこれほど図々しい人間だとは思っても見なかった。人生の一度たりとも思わなかったろう。
夜遅くに見知らぬ大人の男と一緒に出歩くのは、この一般社会からすればみっともないだろう。いつもの状態に狂いが生じるのは、目の前の推しのせいだ。
推しと同じ次元で出会うことは一生叶わない。そう思っていた自分の予想を大胆に裏切ってくれた、今の状況のせいだ。
「そうそうそう、そうなんです! すごくお礼がしたいんです! お礼ができなければ、私死にます!」
ツミヒトは、死ぬとまで言い出した憂子に驚き呆れた。
「死ぬことはないと思うぞ……」
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