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07. 「狼男」さんを殺さないでくれ
やがて、刀を持った相手は満足したのかツミヒトに対する暴力的行為が止んだ。うつ伏せに倒れているツミヒトは、すでに虫の息だった。
憂子は次の瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
相手の刀の先が下のツミヒトに向けられる。止めを刺すつもりだ。絶体絶命の状態にありながらも、ツミヒトは微動だにしない。
憂子は脳内で駆け出した。ところが、脳と足の神経は直結していないらしく両足が全く地面を離れない。胸に黒い血の塊が溜まり、全身の血流を悪くしているようだった。
頭の中では必死に懇願する。やめてくれ、「狼男」さんを殺さないでくれ。代わりに肉まんを奢るから殺さないでやってくれ。空っぽで透明な声が次々に喉奥から押し出されていく。
憂子の虚しい懇願は届かないまま、相手は次の行動に移る。
刀の柄を上に突き上げ、刃を一気に下ろす。
「やめてぇーっ‼︎」
相手の身体と刀が大きく痙攣し、動きは急に止まる。黒い人影が近くにいた傍観者に気付き、こちら側を振り返った。
憂子も自然と女みたいな叫び声が出たことに驚き、呆然とする。だが、ぼんやりしている暇はない。刀を持った人影がこちらにやってくる。両手に構えると、すぐに駆け出してくる。
心に「やばい」の3文字が炙り出される。憂子は刀の刃先を避けるように左へ逃げた。人影もまた素早く方向転換し、標的を執念深く狙う。
刀による致命傷はカッターナイフの比ではないだろう、刀だけに。この危機的状況で思い付くべきでないのに、脳裏に駄洒落が浮かんでしまう。
先ほどから女子みたいに高い声で悲鳴をあげているのに、どうして住宅地にいる住民は出てこないのだろう。この状況はかなり異常だというのに。
不審者から助けてくれたツミヒトはダメージを与えられて動けない。つまり、憂子は自分自身で現在の状況を打開するしか手がないのだった。憂子は異常事態に首を突っ込んでしまったことを後悔した。
不幸なことに、憂子の足が躓いた。身体は地面に投げ出される。胸と腹を強く打ち、痛みに歯を食い縛る。地面に黒い影が映り、憂子は後ろを見上げた。
人間ほどの大きさをした猿が刀を振り翳している。丸い目が鋭い眼光を放ち、獲物を捉えている。皺くちゃの真っ赤な顔が更に歪み、石を投げ込んだら噛み砕いてしまいそうな頑丈な歯が口から覗く。
猿がきぃきぃと可愛らしい声を上げながら、刀を振り回す。異様な光景を前にして、憂子の胸は吐き気を覚えた。
そして、猿は振り回した刀を持ち直すと憂子に差し向ける。
ああ、私。そろそろ殺されるんだ。
せめて、推しみたいに死を覚悟して動かないでいれば。だが、身体は死に直面すると面白いほどに大きく震え出す。
ついに刀が斜め上から振り下ろされた。
辺り一帯に耳を劈くほどの悲鳴が響き渡る。
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