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08. そろそろ閉館ですよ
夜の底でどすん、どすんと鈍い音がする。
住宅街の道路の上で恐怖劇が繰り広げられているというのに、住民は一切目覚めない。
地面に倒れた大猿の身体はピクリと痙攣した。
憂子は血塗れの拳を見つめたまま、大猿の身体の上で呆然としていた。
自分の顔は今どんな色に染まっているのだろう。暗くて、よくわからない。
人非人だと非難されても仕方のない行為をしたはずなのに、呑気に何を考えているのだろう。自宅に帰ったら、待っていた両親はきっと緋色に染め上げられた娘を見て卒倒する。
これは、警察を呼ばれてすぐに逮捕かな。真面目な両親ならば、必ずそうする。憂子は手首に銀色の手錠がぼんやりと浮かび上がっているのを見た。
近くで低い呻き声が聞こえた。憂子はそこで、推しの存在を思い出した。
ツミヒトは身体をガクガクと震わせながら、地面に腕を付いて起き上がった。憂子はツミヒトの背中に手を回し、身体を支えてやる。胴体や顔、狼の耳や尻尾に至るまで傷だらけだったが、命の火は消え掛けているわけではなかった。
地面に倒れ込んだ大猿を見、憂子の顔を見て全てを察したらしい。ツミヒトは恩人に微笑み掛けた。血と泥で汚れていても、推しの微笑みには聖母マリアにも引けを取らない神々しさがある。
「ありがとな。お前がここまで勇敢な奴だとは思わなかったぞ」
憂子の顔が深紅の色に染まったのは、何も返り血のせいばかりではない。
勇敢。その言葉は臆病者の憂子にとって初めてだった。今まで他人に反抗せず、言われたことを必ずやるようにしてきた。そうすることで、他人に傷付けられるのを避けてきた。
勇敢。憂子自身、自分には不似合いだと思ってきた言葉。最初にそう言ってくれたのが、まさか憧れの「狼男」だなんて。
神様、ありがとう! 生きてる自分に乾杯!
憂子は満面の笑みで月夜を仰ぐ。
その時、どこからか「もしもし」という女性の声が聞こえた。
「もしもし? そろそろ閉館ですよ」
憂子は目を覚ました。眼前に大学図書館の司書の顔があった。
憂子は夢を見ていたのだった。
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