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「…………?」
バルコニーにたどり着いた私は、首を傾げます。
そこには、先客がおりました。バルコニーの方を向いており、こちらには背中を向けています。男性でした。
月を見るでもなく、バルコニーの手すりに身を持たせかけ、虚空に目を凝らしている、そんな風情でした。
また、長い、白い髪が夜風に舞って、月光にきらきらと輝いています。
「……あなたでしたの」
私は、そんな風に声を掛けました。最初はそれが、彼とは分からなかったのです。
エックハルトおじさま。私は彼を、ずっとそう呼んでおりました。
ランデフェルト公国の宰相を数年間勤めておられた方で、我が父、ランデフェルト公にとっては遠縁にあたるそうです。本当の伯父ではないのですが、縁者の少ないランデフェルト公爵家にとっては家族も同然の方でもありました。また当時としては奇妙なことではありますが、ランデフェルト公爵家の伝統である槍術、それを女である私も嗜んでいたのです。その手ほどきをしてくれたのがエックハルトおじさまでした。槍術の師匠としては厳しかったのですが、普段は私をとても可愛がってくれておりました。
そんなエックハルトおじさまと私の関係ですが、最初それと分からなかったのには理由がありました。
元々は黒かった彼の髪は、今では真っ白になっていたのです。二年前におじさまは公務を全て引退し、療養に努めることになりました。原因は当時流行していた肺病です。私は一度ぐらいはお見舞いに行きたかったのですが、それはならないと、父母から厳命されておりました。病が軽快し、どうやら伝染の危険がなくなって初めて、彼は宮廷に戻って来れたのです。私はその様子を遠くから拝見するだけで、だから会話を交わしたのも、二年間でこれが初めてでした。近くで見ると、おじさまは前より痩せてしまってもいるようでした。今は確か五十四歳とのことでした。元々は年齢にそぐわないほど美しい方でしたが、今はむしろ、その年齢よりも老け込んでしまっているように、私には感じられました。
『ご無沙汰しております、ベアトリクス様』
おじさまのそんな返事を、私は期待していたのです。かくも年若い私にも、丁寧な言葉遣いと、慇懃な態度を崩さない、エックハルトおじさまはそんなお方でした。ですが、その返事は違っていたのです。
「あ……」
振り返ったエックハルトおじさまは、小さくそんな声を上げられました。困惑したような、傷ついてすらいるような、そんな表情でした。そして、信じられないものを見るような目で、私を見たのです。
「……?」
私は首を傾げてみせました。おじさまは身を起こすと、私の方に手を広げます。
「……ずっと待っていたんだ。あなたがどこにもいなくなったなんて、嘘だと思っていたんだ。ずっと、ずっと」
低い声で、そんなことをおじさまは仰っていたと、そんな風に私は記憶しています。
「……おじさま?」
ふらふらと歩み寄ってきたおじさまに、私は声を掛けます。その言葉で、おじさまは気がついたようでした。私が誰なのか、そのことに。
「…………すみません。私も耄碌したものですね。見間違えるなんてなかったのに、昔は」
片手で頭を抱え、おじさまはそんな風に、私に謝られます。
「いえ。申し訳ありませんでした、驚かせてしまって」
私も、おじさまに謝りました。
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