其の一 斬首乃章

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其の一 斬首乃章

 1.  台風が過ぎ、未明、ごうと音が響いた。  木村義雄(きむらよしお)は微かな振動を感じ、目を覚ました。このところ眠りが浅く、睡眠中に何度もトイレで目を覚ます。  だからといって、今の音と振動は、寝ぼけていたせいではなさそうだ。何か、家の外で異変があったに違いない。 (泥棒か?)  木村は聞き耳を立てた。クーラーの発する低周波が聞こえるだけで、怪しい音はしない。隣室の妻、さらに奧の部屋で眠る長男の義樹(よしき)も、しんと静まっている。  ベッドから降りてカーテンを開ける。音を立てぬよう注意しながらガラス戸、次いでステンレスの雨戸を十センチほど開く。空は白々としていて、湿った空気が流れ込んだ。 (土の匂いだ……)  崖崩れだろうか。この近所で崩れるとすれば、坂を上った空地の斜面が怪しい。あの場所は宅地のために山を削ったわけではなさそうだが、平坦な土地の一方が高さ五メートルほど急角度に削られ、そこに雑草が茂っている。 (あそこが崩れたのなら、ひょっとすると何か出るかもしれない――)  少年のように期待が芽生え、膨らんでいく。  木村義雄には、光友銀行鎌倉支店長の他に、もうひとつの肩書きがあった。市民サークルの《鎌倉歴史クラブ》を取りまとめる代表者だ。  木村の父親は貨物代理店に勤務していた。その関係で、子供の頃は海外を転々とした。特にアメリカが長く、ニューヨークには二回住み、通算十年過ごした。その影響か、木村は日本の歴史と文化に憧れた。自分の家を建てるとき、鎌倉を選んだのは、木村にとっては必然だった。  木村が家を建てたこの土地は、鶴岡八幡宮、永福寺と並ぶ鎌倉三大寺社のひとつ勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の敷地だった可能性がある。しかも、この一帯は「釈迦堂やぐら群」と呼ばれる鎌倉時代の墳墓遺跡群とも隣接している。近くの山が崩れれば、何か希少な発見に繋がるのではないかと期待するのは鎌倉歴史ファンの性だ。  窓を閉め、木村はポロシャツにチノパンを穿いた。懐中電灯、スコップ、スマホをバックパックに入れる。妻と長男を起こさぬよう、忍び足で階段を下り、一階のトイレで用を足す。長靴を履き、玄関の外へ出る。そっと鍵をかけ、もう一度空気を吸った。 (間違いない。土の匂いだ)  遠足に行く子供のように足取り軽く、木村は坂を上った。このところ、日中は三十度を超える日が続いていたが、台風が過ぎて地面が冷やされたせいか、空気がひんやりとしている。いきなり頭上でカラスに啼かれ、ぎょっとした。  この先の空地には、かつて豪邸が建っていた。十八年前、五人が死んだ放火殺人事件の現場だ。建物が全焼した後、残骸は取り除かれたが、そのまま空地となって放置された。雑草が生い茂ってひどい有様となり、自治会から所有者に苦情を申し立て、以来、年に二度草が刈られるようになり子供たちのいい遊び場になった。その空地の一方にある五メートルほどの斜面に、木村は以前から目をつけていた。雑草に覆われてはいるが、どこか人の手が入ったように感じるのだ。 (あそこは人工的に土を盛ったか、或いは山を削ったか、どちらかのような気がしてならない。だとすれば、墓か、そうでなければ他の何かを保管したり隠したりするための場所だったのではないか。そうであれば、とんでもないお宝と巡り合うチャンスだ……)  木村の心は弾んだ。  坂を上りきると、明けたばかりの青空に白い雲が勢いよく流れていった。 (やっぱり崩れている!)  近くの山で季節外れのウグイスが啼いた。雑草が伸びきった空地は台風の雨で沼のようだ。その向こうで、確かに草が押し流され、泥が露出している。白黒の太った猫が泥の縁をなぞるように歩いていた。木村は大きく深呼吸をしてから崩れた場所へ、一直線に歩を進めた。 (洞穴か?)  崩れた場所に、周囲よりも暗く落ちくぼんだ一点が見えた。 (何かある!) 跳ね上げた泥がチノパンを汚すのも構わず、木村は小走りになった。 (間違いない、穴だ!)  足を取られて泥に両手を突いてしまう。すぐに立ち上がり、崩れた土砂をよじ登る。懐中電灯の泥を拭い、目の前に現れた「穴」の中を照らす。 (これなら、なんとか頭が入りそうだ――)  木村は腹這いになって小さな穴に頭を突っ込んだ。鼻先に泥がつくのも構わず、懐中電灯の右手をねじ込む。 「おおっ!」  確かに木村は声を上げた。小さな穴の中には高さ一・五メートルほどの空間が広がっているではないか。灰色のざらざらとした壁に囲まれた三十畳ほどのスペースに乾いた砂が積もっている。天井と壁面は乾いているが、雨水が滲んだ場所だけが不規則な黒っぽい文様を描いていた。 (人工的に盛り土をしたわけじゃない。砂岩を削った空間だ。つまり、〈やぐら〉と同じ構造ってことだが……)  鎌倉時代、鎌倉石と呼ばれる砂岩を掘った洞穴を墓所としたものを〈やぐら〉と呼ぶ。しかし、目の前に広がる空間は、木村が知っている〈やぐら〉とはいささか様子が違った。本来、墓所である〈やぐら〉には、墓石や供養塔が建てられ、壁画で装飾されたものまである。そういった墓所としての造作は一切なく、長い年月を経て天井や壁の砂が落ちたのだろう。床面にはふんわりと砂が積もり、そこに白い破片と赤い破片が覗いているだけだ。 (砂に露出しているのは人骨みたいだ……そればかりじゃない。赤茶けた破片は金属……甲冑や武具かもしれない)  あんぐりと口を開けていたせいだろう。何か、重たい空気の塊が肺に流れ込み、内蔵が圧迫されるのを木村は感じた。 (落ち着け――)  もう一度深呼吸をして、木村は思い出した。 (ここは、かつて勝長寿院の敷地内だった可能性のある場所だ。あの白いものが人骨で、赤っぽいものが武具ならば……)  開いた毛穴から、じんわりと汗が滲み出るのを木村は感じた。よく見れば見るほど、床面の白い破片はびっしりと広がっている。木村は、ひとつの結論に達し、興奮した。 (これは、中先代の乱に破れて勝長寿院で自害した諏訪頼重(すわよりしげ)以下、四十三人のものかもしれない……)  全身に鳥肌がたった。心臓は音が聞こえそうなほど高鳴った。その感覚は、決して手にする筈のないものを手に入れたときのものに違いなかった。こんな気持ちは、かれこれ二十年ぶりだ。木村は因縁めいたものを感じた。中先代の乱で頼重たちを死に追いやった足利尊氏は、木村の先祖なのだから――。 〈その死骸を見るに、皆面の皮を剥いで、いづれをそれとも見分かねば、「相模次郎時行も、定めてこの内にぞあるらん」と、聞く人悲しまずと云ふ事なし〉 『太平記』には、北条時行がこの地で果てたと思わせるため、顔の皮を剥いで素性を隠したと記されている。そんな壮絶な歴史の現場ならば、自分が足利尊氏の子孫であろうとなかろうと、とてつもない発見だ。高鳴る心臓を落ち着かせようと、木村は深呼吸を繰り返した。 (冷静になれ。次に何をなすべきか――)  ここから骨董的価値のある何かが出土する可能性はゼロではない。だが、七百年も放置されていれば、美術品としての価値よりも文化財的価値の方が勝るだろう。ならば、と思いついたのが、この発見を《鎌倉歴史クラブ》の手柄にすることだった。木村個人ではなく、組織の手柄として名前を残す。お宝よりも個人の名声よりも組織的な成果を重視する。常にそうやって生きてきた結果、支店長にまでなれたと木村は信じていた。 (我ながら、見事なサラリーマン根性だ――)  心の中で自分を笑いながら、木村は穴から頭を引き抜いた。周囲はすっかり朝の陽ざしで満たされている。バックパックからスマホを出し、鎌倉市役所の教育文化財部文化財課の工藤功(くどういさお)課長に電話をかけた。中先代の乱で『太平記』に名前が登場する工藤四郎左衛門の子孫というのが自慢で、《鎌倉歴史クラブ》のメンバーでもある。  四十歳を超えて独身の工藤は、筋金入りの中世日本史マニアだ。電話をすると同居する母親が応答し、その受話器が父親に渡り、三人目でやっと工藤に代わった。 「どうしたんですか、こんな時間に……」  不満そうに電話に応答した工藤を、どう伝えれば興奮させられるだろうか。 「実はね、ひょっとすると、『太平記』に登場するキミのご先祖様を見つけちゃったかもしれないのだよ」 「『太平記』って、工藤四郎左衛門ですか? 何を朝っぱらからふざけているんですか?」  文句を言いながらも、工藤が目を覚ましてきたのが伝わってくる。 「ふざけちゃいない。今朝早く、近所で崖崩れがあって、洞穴が出現した。内部は鎌倉石を掘った空間で、地面には細かな砂岩が積もっているんだけど、その下に白骨と武具らしきものが大量に散乱しているんだよ。全体像は見えないが、かなりの量であるのは間違いない」  電話の向こうの工藤が黙った。電波に乗って興奮した心臓の鼓動が伝わってくるようだ。 「第一発見者は《鎌倉歴史クラブ》だからね、公式な記録にはちゃんと残してよ」  冗談ではないですよね、と工藤は何度も繰り返し、自分が行くまで誰も内部に入れないようにと念を押した。 「大丈夫。入り口が小さいからね、人間が入るのは無理だ。頭を突っ込むのがせいぜいだよ」 「その、頭を突っ込む行為もやめさせてくださいね!」  電話を切ると、犬を連れた近所の老夫婦が背後に立っていた。工藤に言われたとおり、危険だから近寄らないでくれと、ガードマンとなったつもりで洞穴の入り口を守る。そうしながら、木村はもう二人の仲間――明海慎吾(あけみしんご)冴木美月(さえきみつき)に電話をかけた。季節外れのウグイスの声が、再び聞こえた。      *  沸き立つ黒煙に火の粉が踊り、幾筋もの火柱が断末魔の叫びをまとい夜空を焦がす。  男は穴を掘っている。  園芸用のスコップでは埒が明かず、板きれを見つけて掘り進んでいるのだが、一向に穴は大きくならない。 (このままでは夜が明ける……)  どれほど焦っても、穴は大きくなってくれない。はらはらと舞い落ちる火の粉が髪を焦がす。それでも穴は大きくならない。 (きっと、道具が悪いのだ)  男は板きれを捨て、素手で穴を掘り始めた。 (これなら、まとめて泥を掻き出せるぞ)  夢中になって泥を掻く。炎はいっそう激しく燃え、赤々と泥を照らす。なのに、掻き出しても掻き出しても、泥は目の前に存在し穴は大きくも深くもなってくれない。 (はて、この穴は何のために掘っているのだろう)  男は穴を掘る理由を思い出そうとした。 (何かを埋めるためか、それとも、何かを掘り出すためか……)  なおも穴を掘りながら、男は混乱した。  永遠に終わりそうもない作業の理由を思い出せなかった。  何者かの気配を感じて顔を上げると、そこには裸足の見物人がいた。女子高生だろうか。どこか見覚えのある制服を着た裸足の見物人。潤んだ瞳とうっすら開いた白い歯に、小鬼となった炎が踊る。  あんたがやった――。  そんな声が聞こえたような気がした。裸足の傍らにトランクがあった。蓋は開いていて、中では子供の屍体が膝を抱えて横たわる。一匹の鼠が走り寄り、トランクを覗き込んだ。男は泥を投げ、鼠を追い払った。  男は穴を掘り続けた。  こつん、と指先に異物が触れる。 (あったぞ――)  泥を掻き出し、異物を掘り出す。男の手には真っ白な頭蓋骨があり、その表面で荒れ狂う火柱が踊っていた。 「うわっ!」  四畳半に敷いた布団に明海信吾は体を起こした。自分の叫び声が聞こえた。厚いカーテンが朝陽を受けてうっすらと光っている。クーラーは付けっぱなしなのに、シャツはびっしょりと汗で濡れていた。枕元でスマホが鳴っている。息を整え、応答した。相手は、《鎌倉歴史クラブ》代表の木村義雄だった。 「明海先生? 驚かないでよ。出ちゃったかもしれないんだ。勝長寿院の四十三人――」  覚醒しつつある明海の脳に、「四十三人」のひと言がこだまのように繰り返された。      *  増えてくる近所の野次馬たちの対応に木村が四苦八苦していると、午前六時過ぎ、工藤文化財課長が、市役所の二トントラックを空地に乗り入れた。職員を呼び出すには早すぎる時間だろうが、二人の部下を連れている。公務員らしく白い半袖シャツを着た工藤は洞穴の内部を見回し、大きな声で、ヨシ、と気合いを入れた。  木村は工藤課長を手伝ってトラックの荷台から虎柄のガードフェンスを降ろし、洞穴の入り口に並べた。付近の道路にも赤いコーンを並べて封鎖する。 「この土地の持ち主、誰だかご存知ですか?」  工藤は役人らしく所有者を心配した。トラブルにならないよう、了解を得た上で調査をしたいのだと木村は察した。 「ここは、十八年前、放火殺人事件があった場所だよ」  工藤は首を傾げたが、少しずつ思い出したようだった。 「そういえば、心霊スポットみたいになって迷惑しているって、木村さんから訊いたような」 「それだよ。放火殺人で何人も死んでね、その幽霊が出るってテレビで取り上げられたものだから、見物客っていうのかな、怖いもの見たさの若者がやってきて、こともあろうに車の中で不謹慎な行為に及んだりしてね」 「確か、美月ちゃんが務める出版社の会長宅でしたね。勝呂家といったかな」  つい先ほど、木村は冴木美月に電話をして、〈やぐら〉の出現を伝えたばかりだ。美月は《鎌倉歴史クラブ》のマドンナ的存在で、「日本美術歴史探訪」という日英ハイブリッド月刊誌の記者を務めている。  十八年前に事件が起きたのは、その雑誌を発行する勝呂美術出版の親会社、勝呂アート・ホールディングスの元会長の自宅だ。生き残った家族は鎌倉山に家を建てて移ったが、この土地は空地のまま今でも勝呂家が所有している。工藤は市役所からの連絡とは別に、冴木美月のルートからも協力要請をしたいと木村に頼んだ。 「洞窟そのものの調査もさることながら、そのためには空地部分を出入りする必要があるんだよ。自由に使えるよう会社の方からも掛け合ってもらえないだろうか」  木村から二度目の電話を受けた美月は、上司に頼んでみると請け合ってくれた。  電話を切ったタイミングで、続々と市役所の応援部隊が到着した。小型のショベルカーを積んだ工務店のトラックもいる。木村はその場所を工藤に任せ、一旦、家に戻った。 「外が騒がしいみたいだけど、何かあったの?」  長靴はもちろん全身泥だらけで戻った義雄の姿を見た妻の郁江は、着替えを済ませていた。事情を説明し、もうすぐ《鎌倉歴史クラブ》の明海と美月が到着すると木村は伝えた。 「義樹、起きなくていいのか?」  階段の下から二階の息子に声をかけたが、反応はない。この四月から光友銀行の関連商社に就職した義樹は、ここ最近、すっかり塞ぎ込んでいる。うまくいかない何かがあったのは間違いなさそうだが、何を訊いてもまともに返事はなかった。 「会社へ行く前に、ちゃんと朝食を食えよ」  本当は、会社に行けと言いたいところだが、プレッシャーをかけてはいけないと、精一杯配慮したつもりだった。  間もなく、玄関の外でスポーティーなエンジン音が停まった。インターホンが鳴り、おはようございます、と元気な声が響いた。冴木美月だ。  日本各地の日本史研究サークルを紹介するコラムの取材で知り合った美月は、早明大学文学部の大学院まで進み、中世日本史を研究していた。その大学院を中退し、『日本美術歴史探訪』を発行する勝呂美術出版に就職した。両親と三人で戸塚に住んでおり、愛車の真っ赤なアバルトを飛ばしてきたのだった。 「おはようございます。〈やぐら〉の新発見とは、やりましたね!」  顔を合わせるなり、ショートボブの美月は大きな目を輝かせた。登場するだけで、その場の雰囲気が明るくなる。青い洗いざらしのシャツの袖をめくり、デジタル一眼カメラを首に提げ、ヘルメットを持ち長靴まで用意した美月は、美術雑誌の記者というより戦場カメラマンだ。 「まだ、そうと決まったわけじゃないけどね」  謙遜気味な木村の言葉に、美月は一瞬、切れ長な目を吊り上げた。 「そうでなかったら、朝っぱらから大騒ぎして招集かけたツケを払って貰いますよ」  倍以上も年上の男に平気で凄めるところが、美月の人気の秘訣なのかもしれない。続いて、木村家の前にタクシーが停まる。顧問の明海信吾が到着したらしい。   明海は、美月が通っていた早明大学で日本史の准教授をしていた。学術雑誌に発表した「北条時行影武者説」が専門家たちに酷評され、大学を辞めて故郷の鎌倉に戻ってきた。とは言っても七里ガ浜で酒屋を営む親元には戻らず、長谷に小さなアパートを借りて予備校の教師をしている。そんな明海を《鎌倉歴史クラブ》に紹介したのが、冴木美月だ。  美月が大学院を中退したタイミングは、明海が准教授を辞した直後だという。その話を訊いた木村は、二人に何かあるのかと疑ったが、不自然な様子はなかった。元教師と元生徒。それだけの関係だと今は納得している。  麻のシャツを着た明海信吾は、トレードマークのカウボーイハットを被り、手首には黒いラバー製の多機能時計、発掘用の七つ道具を入れた革のショルダーバッグを肩に掛け、黒いゴム長靴を履いている。 「先生の説が正しいかどうか、白黒決着つくかもしれませんね」  木村の言葉に、明海は表情を引き締めた。  顔の皮を剥いで時行の自害を偽装した、とする『太平記』の記述は謎めいている。当時の時行は、推定七歳の子供だ。そんな子供が自害した四十三人の中にいたのかどうか、『太平記』は語らない。ただ、そこに大人の死骸しかなかったからこそ、四十三人全員の顔の皮を剥ぎ、その中の一人が時行だと偽装できた。つまり、中先代の乱で鎌倉に進軍した北条軍が戴いていたのは、既に成長した時行の影武者だったのではないか――。  明海のこの推論は、軍記物である『太平記』の読み方を過っており話にならない、と専門家連中から一蹴された。そもそも、七歳の時行がその場にいたのかどうか『太平記』にとってリアリティはどうでもよく、ただ、諏訪頼重以下の武将が勝長寿院で壮絶な死を遂げた事実だけを「多少の」脚色をもって伝えていると解釈すればいい、という。 「お茶くらい飲んでから行かれませんか?」  妻の郁江が人の良い丸顔を覗かせた。その年の正月、《鎌倉歴史クラブ》のメンバーを自宅に招いた際、日本には見合い制度があって本当に良かったと酔った勢いで木村は自慢し、郁江に叱られた。今ならマッチングアプリなので出会えたかわからないとからかわれ、来世も自分を選んでくれと泣きつく姿に妻は呆れていた。 「一刻も早く現場を見たいので」  明海の反応が木村は嬉しかった。逸る気持ちを抑えきれなくて当然と言えるだけの価値ある発見だ。玄関の美月も同じ気持ちなのだろう。そそくさと黄色い蝶のワンポイント模様を施した濃紺の長靴に履き替えていた。     *  太陽が高くなるにつれ、ぐんぐんと気温が上がっていく。警察や消防の車両も集まる現場は、あっという間に三十度を超えたに違いない。周囲の山々から降り注ぐ蝉の声が暑さを倍増させる。  既に規制線も張られていたが、朝早いせいか集まった市民はそれほど多くない。崩れた土砂はショベルカーで一か所にまとめられ、ガードフェンスの向こう側の崩れた崖にブルーシートが掛けられている。全体を見渡せる場所で、美月は最初のシャッターを切った。 「この空地、元はウチの会長一族が住んでいた家があったそうです」  美月の言葉を聞いた明海が驚いたように立ち止まる。周辺を見回す様子は、慌てて何かを思い出そうとしているようだ。木村は明海に近寄り、囁いた。 「十八年前、放火殺人事件があった現場ですよ」 「えっ、そうでしたか……」  明海はポケットからハンケチを出し、カウボーイハットを脱いで額の汗を拭った。十八年前の事件とはいえ、明海にとってはそれほど古い記憶ではないらしいと木村は察した。  工藤は木村たちのためにヘルメットと大型懐中電灯を用意してくれていた。泥に突き立てたスコップをどかし、ブルーシートをめくりあげる。 「おや?」  木村が声を上げて工藤を見た。腹這いになって、ぎりぎり頭を突っ込めるくらいだった「穴」が広げられ、人間が徒歩で内部へ入れるだけの「入り口」ができている。 「ちょっとだけ、広げておきました」  ショベルカーで周囲の土砂を取り除きながら、スコップで入り口を確保してくれていた。乾燥した埃っぽい匂いが木村の鼻をつく。工藤の懐中電灯が洞穴の壁から天井部分をゆっくりと照らした。 「明海先生、鎌倉石を削った洞穴だと思うのですが、どうでしょう?」 「見る限り、〈やぐら〉と同じように作られたのは間違いなさそうですね。土砂を全て取り除かないと間口の大きさはわかりませんが、奥行きも幅も七~八メートルありそうです。全体で五〇平方メートルといったところでしょうか。明月院やぐらに匹敵するか、それ以上の大きさですが……」  明海は言葉を切った。 「床を照らして貰えますか?」  工藤の懐中電灯が地面を照らす。洞穴全体に灰色の乾いた砂が積もり、人骨らしき白い破片と赤く錆びた鉄の破片が全体に散らばっている。 「明海先生?」  予想を超えた発見に我を忘れたのだろうか。明海は洞窟内の一点を見つめて固まった。その様子に気づいたのか、美月がさっと近づき、明海の視線の先を追った。 (何があるのだろう……)  木村もまた明海の視線の先を探す。 (あれか?)  入り口から、ほんの二メートルほど先の床に、頭骨らしき白い物体が砂から露出している。他の骨と比べて、明らかに露出部分の大きい骨を明海は凝視し続け、美月はその骨にフォーカスしてデジタル一眼のシャッターを切った。 「あの骨、気になりますか?」  木村に声をかけられ、明海はびくりと反応した。 「え? ああ、すみません……ここは、まだ、〈やぐら〉として整備する前の状態のようですね。墓石を持ち込んだり、壁に仏像を彫ったりする前の段階。そこに、多くの死体を持ち込んだか、或いは、ここで自害したか、どちらかでしょう」  我慢しきれないとばかりに工藤が明海の顔を覗き込んだ。 「つまり、勝長寿院の四十三人かもしれない。そうなんですよね?」 「その可能性は否定できません。とにかく、慎重に発掘しないと――。人骨の年齢分布や数から勝長寿院の四十三人かどうか類推できるかもしれない。DNAの解析が進めば、家系の判明も夢じゃない」  そう言いながら、なぜか明海の表情が暗いと木村は思った。一方の工藤は大発見の予感に興奮しっぱなしだ。 「なんだかもう心臓がバクバクしてきましたよ。これは気合いを入れて発掘の準備をしないといけませんね」 「工藤さん、第一発見者が我々(鎌倉歴史クラブ)だと忘れないでくださいね」  満面の笑みで頷く工藤のスマホが鳴った。教育文化財部の部長からだ。話を訊いた工藤は木村と美月に伝えた。 「空地の所有者、つまり、勝呂家から空地の使用許可が出ました。ただし、勝呂美術出版の記者には自由に取材をさせるのが条件、だそうです」  よしっ、と美月はガッツポーズをした。チャーミングな仕草に木村の心はくすぐられる。工藤も同じなのだろう。木村に見られていると気づかず、うっとり微笑んで美月を見ていた。 「編集長経由でお願いした甲斐がありました。さっそくで恐縮ですが、すぐそこに見えている骨、頭骨ですかね」  入り口から二メートルほど先に露出した白い破片を美月は指差した。明海がじっと見ていた骨で、他の白骨と比べて露出部分が大きい。その場で腰を落として四つん這いになれば手が届きそうな位置だ。 「写真、撮っていいですか?」 「どうぞ。全体の写真もどうぞ。ただし、美月さん、わかっていますよね?」  隣に立つ明海が、何やら浮かぬ顔をしている。 「もちろん、写真を使うときは事前に工藤課長の許可を取ります」  工藤は静かにうなずいてから付け加えた。 「写真の提供をお願いしたら、出し惜しみしないで宜しくお願いしますね」  ストロボを天井にバウンスさせて影をコントロールしつつ、美月はデジタル一眼カメラのシャッターを切った。小気味よいメカニカルなシャッター音を聴きながら、明海はすぐそこにある頭蓋をじっと睨んでいた。  見知らぬ若い女に声をかけられたのは、洞穴内部の撮影を終え、記念撮影をしようと洞穴の前に並んだときだった。  振り返った木村は、そこに少年がいるのかと思った。短い髪を無造作に束ね、挑むような眼差しでこちらを睨む若い女は二十歳前後だろうか。黒いノースリーブのTシャツを着て、陸上自衛隊を思わせる迷彩柄のズボンと戦闘ブーツだ。細い肩に米軍供出品のようなワンショルダーのバックパックを肩にかけ、胸の前で腕を組み、僅かに首を傾げている。 「駄目ですよ、ここは立ち入り禁止です」  追い払おうと工藤が両手を広げて近づくと、するりと身をかわして洞穴を覆うブルーシートを指差した。 「断続的に不穏なエネルギーが放出されています。すぐに閉じるべきです」 (どうやら頭がおかしいようだ。怪しげな宗教関係だろうか――)  工藤に目配せされた木村は、空地の向こう側にいる警察官を呼んでこようと歩き始めた。その意図がわかったのだろうか。ポケットからスマホを出しながら木村を呼び止めた。 「ちょっと待って下さい。これから手配しますから」  工藤に向き直った若い女は小さな顎を突き出して確認した。 「失礼ですが、あなたは市役所の方ですか?」 「そうです。鎌倉市役所文化財課の者です」  小さくうなずき、スマホで電話をかける。 「ユキです。現場に到着しました。『異界の扉』が開いたのは間違いなさそうです。今も断続的にエネルギーが噴出しています。大至急、手当が必要です。現場には鎌倉市役所文化財課の方がいます――わかりました。そうお伝えします」  電話でユキと名乗った女は、真っ直ぐに工藤を見つめた。 「おそらく、あなたの上司から連絡が入ります。その指示に従ってください」  少年のようだし陸上自衛隊員のようでもあるが、小柄で可愛らしい。なのに、その態度は高圧的で、感情の見えない冷たい言葉を放つ。いったい何者なのか。そう怪しむ目つきに気がついたか、背筋を伸ばして自己紹介をした。 「申し遅れました。私は、カミヤシロユキ。『神社』と書いて、『かみやしろ』と読みます。総理大臣の諮問機関として新設された、内閣府の超常現象対策会議のメンバーで、専門は除霊師です」  女はバックパックを地面に置き、ぺこりと頭を下げた。まんざら礼儀を知らないわけではないらしい。戦闘ズボンのポケットから剥き出しの名刺を出し、木村たちに配る。 〈内閣府・超常現象対策会議、事務局・神社有紀〉  名刺の住所は永田町だ。総理の失言がきっかけで内閣府に新組織が作られたと報じる新聞記事を木村は思い出した。  今、世界中で現代物理学では説明できない現象が次々と起きており、我が国も同様だ。欧米諸国は様々な怪異現象と真摯に向き合い、対策を講じつつあるのに日本はこのままでいいのか。野党に責められた総理が、つい、先進国並みの体制を構築すると発言した。  結果、様々な現象の評価と対策を話し合う超常現象対策会議が立ち上げられたが、「売り言葉に買い言葉」的な税金の無駄ではないか、と総理と政府を揶揄するコラムを読んだ記憶がある。本当にそんな組織ができていたとは知らなかった。 「あなた、『異界の扉』がどうとか言っていたけど、それって何なの?」  誰に対しても物怖じしない美月は、妹に話しかけるような口調で訊いた。有紀は少し困ったような顔をして、わかりにくい話なのですが、と前置きしてから説明を始めた。 「我々が存在する四次元空間とは別に、エネルギーが可視化された五次元以上の空間が存在するそうです。そこを『異界』と呼んでいます。そこでは、例えば重力は地面から立ち上る陽炎のように見える。同じように人間が放つ『念』もエネルギーの一種ですから、肉眼で見られるようです」 「つまり、幽霊が普通に見えちゃうわけね?」 「そうなりますね。その『異界』は、我々の世界と重なり合うように存在していますが、通常、両者はそれぞれ固有の物理法則によって完璧に隔てられています」  ふたつの世界の間には、時間も音も色も存在しない、かといって、決して「無」ではない空間があるらしい、と有紀は語った。 「その中間地帯を、『異界の扉』と呼んでいます。そこに、何らかの影響で亀裂や穴ができて、一方のエネルギーが反対側に流れ込む現象が起きてしまう。それが、この洞穴の状況なんです」 「一方のエネルギーが反対側へ流れて行くとどうなっちゃうのかしら?」  美月は真剣な目で体を乗り出した。知性をまとう美月が、馬鹿げたオカルト話に興味を示す姿に、木村は違和感を覚えた。一陣の風が吹き、ブルーシートが大きくめくれ上がった。 「これまで均衡していたエネルギーのバランスが崩れれば、いずれ爆発的なエネルギーの津波が発生し、両者の境界は破綻する。その結果、二つの可能性が考えられるそうです」  真剣な眼差しで頷いた美月に正気を取り戻させようと、馬鹿馬鹿しい戯言なのだと木村はことさら態度と顔つきで示してみせた。 「ひとつは、物質と反物質が出会うように、全てが消滅して『無』に帰する可能性。もうひとつは、エネルギーが圧縮されてビッグバン現象が起き、ブラックホールとなる可能性です」  工藤のスマホが鳴った。有紀の説明が中断され、木村はほっとした。応答した工藤の顔つきが、明らかに動揺するのがわかった。 「教育文化財部の部長からでした。神社有紀さんが洞穴に結界を張るので協力しろ、との指示でした」  腕時計を診ると間もなく午前八時になるところだ。美月を守るためにも、もっとこの場にいたいところだが、支店長の立場上、そういうわけにもいかない。木村はその場を辞して銀行に向かおうとした。そこへ、黒塗りの高級外車が現れる。ドアが開き、降りてきた紳士を見て美月が呟いた。 「社長……」  勝呂美術ホールディングスのCEO、勝呂豪毅(かつろごうき)が姿を見せたのだった。台風一過のぬかるんだ空地を上等な革靴で踏みしめ、豪毅は洞穴に歩み寄る。 「明海、ご無沙汰」  あっという間に革靴は泥だらけだ。美術系ビジネスを手がけるグループのCEOらしく、整えた鼻髭に小洒落たジャケットが似合っている。軽く右手を挙げた豪毅を見て、明海はぽかんと口を開けた。美月は慌ててその男が勝呂豪毅だと木村と工藤に教えた。木村は如才なく名刺を交換する。勝長寿院で自害した武者に関わる遺跡かもしれないと工藤に説明された豪毅は、明海に笑いかけた。 「長年住んでいたというのに、ここが勝長寿院の敷地内とは知らなかったよ。灯台下暗しとは、まさにこのことだな」  美術界の大物と、予備校教師になった元大学准教授の顔を木村は見比べた。なるほど、改めて見れば、どこか同じような匂いを感じないでもない。 「ウチの雑誌、明海先生によく寄稿をお願いしています」  再び美月が解説した。なるほど、そういう接点があるのかと木村は納得した。 「ひょっとすると、大した発見なんだって?」  豪毅に迫られ、明海は顔を引きつらせた。 「調査しないと、まだ、なんとも……」 「おやおや、弱気じゃないか。北条時行影武者説で大暴れした明海らしくないな」  豪毅と明海は大学時代の先輩後輩の間柄だと美月が解説する。 「貴重な発見かもしれないから、なおさら慎重に調査しないと……」  歯切れの悪い明海を工藤が押しのけた。 「ところが、そこのお嬢さんが『異界の扉』がどうとか、エネルギーがどうとかおっしゃって――」  小柄な有紀は少し顎を突き出すように豪毅に歩み寄った。 「これから、この洞穴に結界を張って封鎖します」  豪毅は小馬鹿にしたような顔で木村たちを見回した。 「お嬢さん、もう少し具体的に説明してくれませんか?」  木村たちに説明した話を有紀は繰り返した。 「その『異界の扉』がこの洞穴だと?」  豪毅の問いかけに有紀は大きく頷いた。 「だとしたら、これはどういうふうに対処すればいいのでしょうね。冴木さん――」  CEOは部下である美術雑誌の記者を見た。 「どう思うかね?」 「正直申し上げて、あまりに荒唐無稽で戸惑っています」 「まあ、そうなんだろうね」  豪毅は明海と美月を交互に見た。 「超常現象対策会議という首相の諮問機関が立ち上げられたのは知っていますよ。妖門那美(あやかどなみ)先生がメンバーだそうですね?」  有紀が頷いた。 「那美先生は、あたしの師匠です」 「そうでしたか。あの方は、ずいぶんと政財界に力を持っているそうですね。どれくらいの力なのか、想像もつかない。そうなると、ここは長いものに巻かれた方が賢いかもしれないね」 「社長!」  美月が目を吊り上げた。 「そんな怖い顔をしないで。八方を荒立てないよう気遣いをしながら、キミはキミの仕事に対して忠実に振る舞いなさい」  トップのお墨付きを貰った。美月はそう理解したらしく。大きく深呼吸をして有紀を睨みつけた。乗ってきたベンツに向かった豪毅は、運転手にドアを開けられ乗り込む直前、遠目に明海を振り返った。気がついた明海は視線を逸らす。その様子を無表情に眺める美月の姿に、普段は見せることのない冷たさを木村は感じた。      *  これまで経験のない強烈なエネルギーの奔流が洞穴内に渦巻くのを有紀は感じた。無秩序に荒れ狂う奔流はランダムに混ざり合い、近づく者があれば容赦なく牙を剥き呑み込もうとしている。 「本当に危険なんです。お願いします」  有紀は工藤に頭を下げた。協力するよう部長に命じられた工藤は、渋々場所を譲った。有紀はバックパックから出した麻紐をブルーシートを固定した金具に結びつけ、左右に渡した。そこに細長い白い紙を折った紙垂(しで)を三枚ぶら下げる。 「みなさん、こちらへ来て下さい」  その場にいる人間を洞穴の前に集める。有紀の作業を遠巻きにしていた〈鎌倉歴史クラブ〉の明海と美月も不満げに人の輪に加わる。児童福祉施設で育った有紀は、施設でも学校でも厄介者だった。気に入らない何かがあると、人知を超えた悪戯をして周囲を困らせた。中学へはまともに通わず、いつもひとりで過ごし、誰にも理解できない遊びに興じていた。そんな自分に向けられる大人たちの視線を有紀は思い出した。 「あたしが両手を叩いて頭を下げたら、皆さんも続いてください」  周囲の人たちに頭を下げさせるのは、さほど意味のある行為ではないと有紀は思っている。それを敢えて求めるのは、妖門那美の教えだ。霊との対話は常に疑われる行為だ。その不安を少しでも抑えるために、そこにいる人たちの力を借りる。それが大切だという。 「よろしくお願いします」  工藤は露骨に厭な顔をしたが、有紀は構わず続けた。土砂を除去するショベルカーを持ち込んだ工務店の人々は地鎮祭かと小声で言い合っていた。  有紀は洞穴の前に立ち、両手の指で印を結び、真言を唱えた。柏手を打ち、頭を下げる。後ろの人々が従ってくれているかわからない。それでも、僅かだがエネルギーが弱まったのを有紀は感じた。  ゆっくり振り返ると、人々の最後方に明海と美月の姿があった。結界を張る儀式に参加してくれたらしい。有紀は二人に向かって頭を下げた。そんな態度を示せるようになった自分が不思議な気がした。  妖門那美に従ってきた日々は間違いではなかった。このところ有紀は自覚してきた。  妖しげな術を使う子供がいるとの噂を訊いた那美は、何度も有紀が暮らす施設を訪問し、面談した。端から高校に通う気のなかった有紀は、中学卒業と同時に那美が引き取った。施設や児童相談所の大人たちが胸を撫でおろしていると、子供ながらにわかった。  何故、この人は自分に関わろうとするのか。  一度だけ、有紀は那美本人に訊いてみた。柔らかな頬を右手に載せた那美は、暫く無言で有紀を見つめ、ぽつりと言った。 「どうしてかしら」  ちゃんとした答えらしきものを貰ったのは、その数日後だった。 「平安時代、安倍晴明という陰陽師がいたって、訊いてるでしょ? 百年に一人、その生まれ変わりが現れるって、ウチは東北の霊媒師系なんだけど、代々伝わる古文書に記されているの。それで、ずっと気にしていたところ、有紀ちゃんの噂を聞いたのよ」 「結構、いい加減なんですね」 「こういう世界って、名乗ったもん勝ち、みたいなところがあるからね。そんなに気にしないで」  那美は有紀を引き取ったが、母親のように接して貰った覚えは一度もない。自分を「先生」と呼ばせ、あくまでも独立した他人として接した。怨霊・悪霊を鎮撫する真言と印の結び方を徹底的に仕込み、礼儀はうるさく躾けた。  花火から取った少量の火薬を紙垂に包み魑魅魍魎を消滅させる技は、誰かに教えられたわけではない。小さい頃、偶然、花火の光で小さな化け物が消滅する様子を目撃し、真似をしたのがきっかけだ。魑魅魍魎とはいえ、問答無用に相手を消滅させる技を那美は嫌いなようだが、使うのは誰かを護るときに限ると約束し、所持を許された。 「皆さん、この結界は異界のものには有効でも人には無力です。皆さんの手で簡単に破ることができます。しかし、この結界を破って一歩でも中に踏み入ったとすれば、皆さんにどんな災いが及ぶかわかりません。最悪の場合、異界へ吸い込まれる危険さえあります。万一、そうなったら、二度と戻ってこられないかもしれません。ですから、くれぐれも、近づかないよう、宜しくお願いします」  有紀の言葉を訊いた人々は、どこか馬鹿にしたような頰笑みを浮かべ、その場を去って行った。 (つづく)
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