隠居妃はここにいる

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『そなたは使用人の管理を怠り、由々しき事態を引き起こした。罰として王城からの追放を命ずる』  舞っている花びらを見つめながら、ライリーは昔のことを思い出していた。他国から嫁ぎにきて、3日でライリーは王城から追い出された。王都や王城をゆっくりと眺める暇もなく、隠居を命じられた。今でも当時のことは鮮明に思い出された。キャスケットを深く被りなおした。月光のように輝き、『美しい』と口々に褒められた銀髪は今では短い。 「まさか10年後こうなるとは」 「13年7ヶ月ですけどね」 「細かいことはいいでしょ」 「全然細かくないですよ」  ミアがすぐ隣で不満そうに息を吐いた。ブラウンの髪を1つに編み、背に流している。周りは高揚して広間の中心を見ようとする者で囲まれ、彼女たちの会話を気に掛ける者はいない。中心では王族たちの挨拶が行われようとしていた。毎年恒例の行事で、王都の広間に王はもちろん、王妃や王子、王女とその配偶者、王孫など王族が集まる。ただし他国や辺境の地にいる者は除かれる。そのため、第二王子の婚約者であるライリーは華やかな場所から離れた酒場で立っていた。本当は王都にいること自体が罪になるのだが、ライリーを咎める者はいない。10年以上も前に追放された幼い婚約者の顔を覚えている者などいない。覚えていたとしても、くたびれたズボンを身にまとった者を他国から来た王女だとは思わないだろう。女だと気付かれることすら少なかった。民衆はざわめきながら、王族の登場を心待ちにしていた。  レンガで舗装された広場は王城の傍にある。王城の門から広場の中心への道は人が入らないように、騎士が列をなして守っていた。黒地に銀色の線が入った服を着た彼らの中には民と親しげに話している者もいる。にこやかに話しながらも自身の職務を全うとしていた。  盛大な音楽が広間に流れ出す。白い衣装を身にまとった騎士が広間の舞台を囲んだ。近衛騎士の登場だ。 「来ますよ」 ミアがライリーの袖口を引っ張った。 「ほら、もっと楽しんでくださいよ。久しぶりの対面ですよ」 「そうだぜ、兄ちゃん。王族なんてこの機会を逃したらお目にかかれない代物だからな」 ミアの言葉に隣にいた知らない男性が賛同する。彼の手には瓶が握られ、酒の匂いが漂っていた。ライリーは苦笑いを返し、視線を広間の中心に移した。多くの人が笑顔を浮かべている。凛とした佇まいの騎士団に胸を高鳴らせる者の姿も目に入る。王都は美しく整備され、民の表情も明るい。春が到来し、花の香りに満ちているのに、ライリーだけが異なる世界にいるかのように、冷めた心地がしていた。  近衛騎士が敬礼を行うと同時に王城の重い門が開く音が響いた。 「アレクサンドル王よ!」 誰かが甲高い声を上げると、方々から歓声が上がる。微かに笑みを浮かべた男性が舞台に立った。金髪が日の光に照らされ輝いている。彼が現れると続々と美しい衣装を身にまとった者が現れていく。王の顔には皺がいくつも刻まれている。ライリーに罰を言い渡した時よりも増えているようだ。それでも威厳は変わらず残っている。ミアがまた袖を引っ張った。 「ほら、あちらを見てください。第二王子様ディラン様ですよ」 「あーうん」 「背も高くてかっこいいですね……ね」 ミアが同意を求めるように何度も袖を引っ張った。シャツの袖が今にも破れそうだ。ライリーは彼女の手から袖を解放し、言われた方向に顔を向けた。王よりも明るい金色の髪を伸ばし、後ろに結んでいる。人好きするような笑みを浮かべ、彼が手を振る度に黄色い悲鳴が上がっていた。隣の女性が彼の方を向くと、ディランは腰を屈めて耳を寄せた。緑色のドレスを着た彼女が耳打ちすると、彼は噴き出すように笑った。その表情にまた女性の悲鳴が上がった。 「なんだい。お嬢ちゃん、ディラン様が好みかい」 酔った男性がまた振り向き、酒の匂いがする息が当たる。ミアは焦ったように慌てて首を振った。 「いえ、違います。好みではなくて」 彼女は何度もライリーの顔を窺った。その様子に男性はにやりと笑った。 「なんだい。図星か?」 「あんた、やめてあげなよ。彼氏の前で女の子を揶揄ったら可哀そうだろ」 男性の隣にいた女性が彼の背中を大きく叩いた。恰幅のよい彼女が少し頭を下げた。 「うちのが悪いね。酒が入ると絡み癖があるんだ」 「いいえ。大丈夫です。あの、本当に好みとかではなく」 「あはは、分かってるよ。こんないい彼氏がいるんだ。ディラン様なんて目がないだろう」 「いえ、彼氏ではなく……ああ、本当に何回目だろう」 ミアは尻すぼみに答えた。彼女が俯くとブラウンの髪が頬に落ちた。 「あら、違うのかい?お似合いだったからつい。でもやっぱりディラン様はやめといた方がいいよ。憧れる子は多いけどね。あんたのような純粋な子には合わないよ」 「やめておくって。私は王子様と直接お会いすることもできないのに」 その通りだ。ライリーが許されれば、ミアも王城に戻ることになるだろうが、今の時点ではその気配はない。追放当時は、許しを得ようと何度も文を送ったが、開かれもせず返された。次第に王城に戻ることは諦めた。新しい見張りもいないので、もしかしたら存在自体を忘れられている可能性もある。 「そんなことないよ。殿下はよく市井に降りられている。女好きと噂でね。色んな令嬢に声をかけているようだ。さっきもルーク様のお妃様に親しく話されてたしね」 「ルーク様の……ではあの緑のドレスを着た方が王太子妃様ですか」 ミアと共にライリーも見上げた。触れ合うような距離で王太子妃とディランが喋っている。艶のある滑らかな黒髪が体に沿って流れていた。表情や仕草には品があり、穏やかな雰囲気が漂っているように見える。 「そうだよ。デルフィニウム侯爵家のご令嬢さ。クロエ様だよ。お名前も美しいだろう。兄殿下の奥様にも声をかけて、ひと悶着あったようだし、いつか市井のお嬢さんにも手を出すんじゃないかっていう話だよ」 「え……でも、ディラン様には姫様がいらっしゃるのに」 「ミア」 今度はライリーの方がミアのシャツを掴んで、首を振った。彼女は唇を噛み締め、悔しそうに顔を歪ませた。その様子に話していた女性は首を傾げた。 「姫?」 「いいえ。何もありません」 今までの経験でミアを放っておいてはいけないことは分かっていた。彼女の袖を取り、その場で離れようとするが、人の波でうまく動けない。逃げられないうちに、大柄な女性は口を開いた。 「ああ、あの……ミーン国から来た王女様のことだね。そんな10年も昔のことを覚えてるなんてすごいね。わたしは忘れていたよ」 「13年です」 「そうだったかね。もう名前も覚えていないよ」 ガハハと彼女は思い切りよく笑った。ミアは眉間に皺を寄せ、唇を歪める。 「リ……様です」 「ん、何だい?」 「リリー様です。王女様のお名前はリリー・ミーン様です」  LilyとRiley。ほんの少しだけ綴りと読み方を変え、ライリーは偽名で過ごしていた。名前も忘れられ、偽名を使う必要性は今では殆ど感じられない。ただ偽名で暮らし始めてしまったため、今更変える気持ちにもなれなかった。性別の詐称できる。 「そうだったかねぇ。あの王女様はどっか行っちまったよ。病気の療養だったかね。幼かったのに可哀そうに」 「どっかって」 侍女の手に力が入る。袖を持つ手からミアの震えが伝わった。早く離れないとミアが口を滑らしてしまうかもしれない。彼女はこの国の人間だが、ライリーに忠誠心を持っていた。彼女の手首を握りなおした。ミアが顔を上げ、彼女の涙まじりの瞳と合う。 「すみません。彼女の具合が悪そうなので」 「まあ、もう出てこないし、亡くなってるんじゃないかい」 「生きておられます!」 ミアの顔は赤らんでいる。女性はその変化に目を見開いた。 「どうしたんだい。そんな大きな声をだして」 「それはっ」 「ミア」 詰め寄ろうとするミアの腕を掴み、人混みをかき分けて広場から離れる。背後から不満そうな声が聞こえたが、振り返らず、握る手に力を入れた。彼女は振り払える筈の腕を離そうとしなかった。 「見えない」 「何なの」 「ちょっと邪魔」 聞こえてくる不満に何度も頭を下げた。すれ違う人の迷惑になってしまっていることを内心詫びながらも、歩く足は止めない。予想以上に広間には人が集まっている。多くの人の肩に当たって、やっと広間から出られてた。  広間の周囲には露店が出ており、祭りになっていた。王族の挨拶に興味がない者も祭りを目的に集まっている。屋台からは様々な香りが漂っていた。香水と食べ物の香りから抜け出すと、ライリーは新鮮な空気を胸に入れた。 「どうして私を止めたのですか」 涙混じりの声が聞こえる。ミアは俯いているので、顔は見えない。ただ繋がっている手は震えていた。 「どうして……姫様は生きておられるのに」 「そうね。でも、公務にも参加していない。この国にとってはいないのと同じ。生存も死亡も大差はないのでしょう」 ライリーはもう貴族としての生活に未練はなかった。自分は政治に負けたのだ。大人になるにつれて、そのことが分かった。ミアの頬に涙が流れた。 「姫様は何もされていないのに……。王子様の食事に毒を盛ったのだって、この国の人間だったのに」 「だから私は命を取られなかった」 婚約初日、侍女も引き連れずに来たライリーに数人の侍女と護衛が付けられた。軽い挨拶だけを済ませ、王子との食事の場に行くと、ディランが倒れたのだ。たった一口のスープで、彼は三日寝込んだらしい。彼の食事には毒が入っており、毒を混入したのはライリーに付けられた侍女だった。 「きっと姫様は嵌められたのです。どうして……」 「まあ、色々あるんでしょう」 「どうして姫様はそんなに軽いのですか。本来であれば、今頃あの場にいらっしゃったはずなのに」 ライリーは爽やかな笑みを浮かべて、ミアの顔を上げた。頬は涙で濡れ、目元は赤く腫れている。 「女好きのクズと婚約しなくて済んだのは喜ばしいと思わない?」 「……誰かに聞かれたら大変ですよ」 彼女の瞳から涙は消えた。眉間に皺を寄せてはいるが、声は明るい。ミアの機嫌が戻ったようだ。口元に人差し指をつける。 「聞かれたら大変だから、ミアも内緒に」 「……はい」 「何をです?」 急に聞こえた男の声に、息を止め振り向いた。
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