夢へいざなう月と猫

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 あ、待って、と私は思わず腰を浮かせていた。これは終電で、逃したらもう家に帰れないのに。ずっと乗っていなければいけないのに。そんな気持ちとは裏腹に、気づいたら私は黒猫を追いかけて、名前も知らない駅のホームにひとり降りていた。  プシューッと、後ろで扉の閉まる音がして、黒猫はまだ黒猫の姿のまま、悠然と歩く後ろ姿が見えて、私はあわてて跡を追いかけた。足元がふわふわする。地面を踏んで歩いているはずなのに、まるで数センチ浮いているような不思議な浮遊感。  あ、私酔っているのだった、と今さら思いだして、何やっているんだろうって本気で思ったけれど、なぜか後悔よりも好奇心がまさって黒猫から目がはなせなかった。  少し距離をおいて、でもおいていかれないようについていくと、黒猫は改札の下を何の障害もなく歩いていく。私は急いでパスケースを取りだすと、定期をかざして改札を通り抜けた。  夜空には三日月が静かに浮かんでいて、『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャ猫の笑った口のように見える。  もしかしたら、幻覚かもしれない。そんなに酔ったつもりはなかったけれど最近疲れていたし、職場ではささいなミスで怒られて落ち込んだし、仕事の付き合いで仕方なく出た飲み会だったけど、勧められるまま飲んだのがいけなかっただろうか。もう三十も超えて独身で、いい大人なのに、こんな風に知らない町の住宅街をひとりでふらふら歩いてる自分を顧みると、急にどうしようもない心細さにおそわれて泣きたくなった。  目にしたものが本当だとしたら、彼は間違いなく男性だったはずで、でも溶けるように黒猫に姿を変えた。そんなことを言っても、きっと誰にも聞いてもらえないだろう。飲みすぎたんじゃない? って言われるだけだ。  ここで彼の姿を見失ったら、私はいったいどうすればいいのだろう。もう帰る方法だってないのに。よく考えたら降りたのは無人駅で、タクシーが停まっている気配も見えなかった。それとも、本物の私はまだ眠っていて、不思議な夢を見ているんだろうか。現実的には、その方がいいのかもしれない。現実にこんなことが起こるはずもない。  そう思って前を眺めていたら、いつのまにか黒猫は振り返って、ついてきているのを見越しているかのように、じっと私の方を見つめていた。見られていると思っていなかった私は、ちょっと動揺して立ちどまる。どう見ても黒猫だ、と目の前の実体に、見たものの自信がたちまちなくなっていく。黒猫は見つめたまま、私の言葉を待っているようだった。  あの、こんばんは。あの、一緒の電車にいて、見てしまったんですけど、あなたさっきまで、人間でしたよね。  そんな言葉が思い浮かんだけれど、どう考えてもまともな会話じゃない。それを口にするのもためらわれるし、猫に話しかける行為も恥ずかしいし、つれなくされたら泣きたくなるだろう。  見つめあったのち、彼は――本当に信じられないけれど、まるであきらめた風情で、 「仕方ないなぁ」  と言った。  猫がしゃべった。  私はこれが現実なのか、どんどん確信がもてなくなっていく。何が仕方ないんだろうって質問する前に、黒猫はそのしなやかな体躯で私を見あげたまま、 「ついておいで」  とささやく。  瞳の冷ややかさに比して、意外なほど優しい声だった。
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