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ノイズのようなささやき声がして辺りを見回すと、濃紺の制服を着た生徒の輪郭がいくつも浮かびあがる。刺さるような視線を感じるのに、生徒の顔には目も鼻もついていなくて、ただ嘲笑と侮蔑を含んだ冷たい笑みだけが口元にはりついている。空に浮かぶ三日月と同じように。
声にならない叫びが喉元をせりあがって、叫びたいのに声がでなかった。そして唐突に、今までとても恐れていたものの正体に気がついた。
私は、この風景をどこかで知っている。
その記憶がたちあがったせつな、誰かが守るように私の傍らにいた。
その気配はこの空間の、たったひとつの確かな光に思えて、見るとさっきの黒猫が気遣うような仕草で見あげている。私は胸の奥に明かりが灯る気がした。彼がいるから、もう大丈夫だと。
――と、まわりの影がひとつの集合体のように悪意を呑みこんで、うねりになっていく。
黒猫は、激しい憎悪の混ざる氷のような冷ややかさで、影がふくらむのをじっと見つめていた。これがどういう名前の影か私は知らないけれど、彼の言葉を借りれば、《思い出》なのだろう。
彼が殺したいほど憎んでいる思い出。闇が大きくなると、その中心に、ひらめくようなかすかな光が見えた。明滅しながら弱々しい光をはなっている。一度その光を意識すると、まるで祈るような、救いを求めている光のように映った。
だめ、いけない。行ってしまっては。無数の影に呑みこまれて、二度と外に出られなくなってしまう。
私は黒猫をひきとめたかったけれど、どうやっても足が動かなかった。彼がしようとしていることが分かって、全身が総毛立つ寒気におそわれる。
彼は、あの光を救うつもりだ。たぶん自分の光と引き換えに。生きていくための大切な灯火を、《思い出》がまとう闇に明け渡そうとしている。そんなことをしたら、深い闇は彼を取り込んで、一生消えない澱みになってしまうのに。
彼にとっては、あの光が一番大切なのだ。自分自身の光よりもずっと。だからすべてを投げうって、あの瞬きに近づこうとしている。黒猫の姿になったのは、これが彼の悪夢のなかだから。夢から覚める唯一の方法は、きっとあの光を救うことで、でもその小さな瞬きは、いつまで経っても手に届かない。届かないと知っても、彼は変容する。嘲笑の三日月が夜空に浮かぶたびに。
《思い出》のなかの光を救いたくて。
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