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「おい、誰かいないか?」
一階の自室にいる父、鏑木哲夫が叫んでいる。
「はーい。今、行きます」
「あぁ、恭子、いたのか。良かった。ほら、お母さんの13回忌でさ、お寺に連絡しないといけないだろう。
早目に押さえておかないと、大変だと思って」
「お父さん、13回忌は去年終わってますから、大丈夫。
あっ、ちょうどよかった。寝る前にパンツ取り替えよう」
-なんで風呂に入った時に替えたばかりの下着を、又、履き替えなければならないんだ-
と文句を垂れている父を無視し、私は花王リリーフのオムツ型パンツを袋から一つ出し、本人に手渡す。
「じゃ、履き替えたら寝てね。今日は涼しいから、クーラーは消しておこうか?」
「うん。そうだな」
「おやすみ」
「おやすみ…」
父、哲夫は70代後半から、じわじわとボケはじめた。
長年、証券会社で滅私奉公してきた父ではあったが、娘の目から見てもダンディで、
60代の頃には、エージェンシーから、シニアモデルになりませんか?という誘いを受けた事もあった。
しかし、母の病死を境に、段々と生きる事に疲れ果てたようになり、友人らから、ゴルフに誘われても、平気でドタキャンをしたりし、結果、誰からも誘われなくなった。
私自身、大学卒業後、生命保険会社でОLをしていたのだが、顧客獲得競争から脱落すると同時に、父の介護問題も切実になってきたので、退社し現在に至る。
「あーしんど。明日はバイトもあるって言うのに、家では突然大声で叫ばれ…
ボケてんだからしょうがないけど」
ベッドに横たわり、目を閉じると、頭の中で昔の出来事がぐるぐるかけめぐると言う魔のルーティンに陥る。
落としたい上司に狙いを定め、夕食後にホテルと言う流れの数を、同僚と競いあっていた破天荒な時期。
バリ島に行き、現地の若い男を買った事も…
それが、今はどうだ。
連日、父がヘルパーさんにちょっかいを出していないか気に病みながら、パート先のマックで作り笑顔に徹すると言う日々。
若い時分、不倫相手の家庭を壊しはしなかったものの、亀裂を生じさせたのは事実で、その罰が一気に押し寄せて来ているんだろうなと、いつもどおり、そう結論づけ、眠りに落ちた。
翌朝、いつものように、学生時代、数年働いていた経験があるファストフード店に、チャリで向かう。
朝、5時入りで、6時間の勤務は、ハードではあるが、生活費全般を父の年金で賄っている以上、自分の小遣い位は自分で何とかしたかった。
事務室で、制服に着替えタイムカードを押すと、家でぐだぐだしているだけの女が、途端にぱりっとするのだから不思議だ。
店に出て、先に仕事についている東南アジア系の娘と共に、客のオーダーを取って、ドリンクを用意し、出来上がった商品を、各々に渡していく。
どうせ、この外資系企業は儲かって仕方がないのだから、コーヒー一杯だけの客が延々と続こうとも、クルー達は皆、涼しい顔で応対できる。
9時、店長出社で、調理の方もフロアの方も、少々その面持ちに緊張が出る。
だが、古今東西、煙たがられてこその店長なので、結果オーライとも言える。
今日も忙しく、あっという間に6時間が経過した。
「お疲れ様。上がって」
おそらく、一回りは若いであろう店長とは、互いに見えない壁を造り、未だに事務的な会話しかした事がない。
軽く会釈した後、スタッフ通用口から出て
事務所で、私服に着替えて帰る。
「ただいま」
返事がないのは、いつもの事だった。比較的、父がヘルパーさんの言う事に従うのは正午までで、昼食を取って夕刻になるまでの間、怪しくなっていく。
そうした事を踏まえ、ファストフード店での仕事は午前上がりにしてもらっていた。
他の高齢者同様、父も相当早く目覚める。よって、朝食後、その分を補填するかのように仮眠をとるのが常だった。
しかし、今日は珍しく、一人リビングで新聞を読み、寛いでいた。
「お父さん、お昼、何食べたい?」
「うん、今日は、常務とホテルオークラのレストランで昼食の予定が入っているからいいよ」
「えっ。そうなんだ。ふーん」
例えボケていると、気づいたとしても、翌日にはその会話内容すら覚えていない為、あえて訂正せずそのままストーリーに付き合う事もある。
以降、父が起きていれば、和菓子とお茶を出し二人で味わいながら、父の好きな女優の映画を見たりし、まったりする。
あるいは途中、一人抜け出し、家の掃除に時間を割いたり。
私自身、二、三ヶ月前まで、父のヘルパーさんに対するお触り行為には本当に悩まされてきた。
餌食となった女性達の年齢は30代から40代、主に、肉感的で身体の線が出る装いをしている女性が狙われた。
洗面台を綺麗にしている時に、背後から抱きつく、ベッドから起こしてほしいと頼み込んだ際にも、思い切り身体を密着させてくる、いつもありがとうと礼を述べながら頬にキスをするという、いずれも境界線を引くのが難しいとされる事案ではあるが、ヘルパーステーションからの度々の厳重注意に、その都度肝を冷やされた。
そこで考え出したのが、ヘルパーを70過ぎに限定し、その人達に来てもらうという作戦だった。
-我ながら、いい考えだったよね‐
今はソファで頭を垂れている父を見て、恭子は安堵のため息をついた。
数日が経ち、いつものようにパート先から家に直行する。
「ただいま」
施錠し、中に入ると、慣れ親しんだその家の匂いがし、それまで働いていた帰巣本能のスイッチも一旦オフになる。
昼食を、父の好きなメニューで揃え、テレビを見ながら特に会話する事もなく箸を進める。
そろそろ父が箸を置きそうなタイミングを待ち、茶を淹れに席を立って、少しぬるめの茶を出す。
このところ、居間でうつらうつらする事が多い為
「お部屋で少し昼寝したら?」
と促す。
「あぁ、そうさせてもらおうか…」
自室に入っていく父の背中を見、恭子は、こうして
日々、穏やかに過ぎていく事が真の意味での「幸福」なんだろうなと考え、そのままテレビを見続けた。
五時近くになり、そろそろ、父を起こさないと夜間、眠れなくなると考え、起こしに行く。
「お父さん、起きてる?」
と声をかけ、ドアを開けると部屋の片隅に置いてあった姿見の前でポーズを取っている父の姿が目に入る。
サラリーマン時代に着ていたスーツは、オーダーメードとあって、現在においても違和感なく着こなせていた。
「瑞希、嬉しいよ。久しぶりにお前と食事なんてな。
ほら、部署ではお局の藤田が何かと目を光らせているだろう?
感づかれないよう、俺も、素っ気ない素振りをしているってわけさ」
そのまま、何も見ていないかのようにして、ドアを閉める。
-間違いない。父は、私と
かつての会社の部下で、不倫関係にあった門倉瑞希を混同している-
あれは、確か高3の夏休み。
有楽町でBFと映画を見た帰り、イタリアンレストランで食事をしていこうと店に入った時だった。
レジに父の姿を見つけた私は「お父さーん」と声をかけ、近寄っていったのだが、父の方は気の毒になる位、狼狽し、財布まで落としてしまった。
「こんにちは。
お嬢様ですよね。私、部長に大変お世話になっております門倉と申します。
宜しくお願い致します」
そう言い、私と父の間に割り込むようにして入り、名刺を渡してきた女が門倉瑞希だったのだが、若いのに堂々とした振る舞いは、それなりに男を渡り歩いてきた瑞希の為せる技だったのだと思う。
ボーイフレンドも「ありゃ、出来てるね」と確信していたし。
とうとう、父の不倫相手まで出て来てしまったか…とやるせない気持ちに全身を包まれるも、そもそも私は父の連れ合いではないわけだし、今までどおり、やり過ごしていく方向で行こう…とした考えに落ち着く。
その後、父は何かの拍子に、私を門倉瑞希に見立て、接してくるようになった。
元々、ボケを否定せず「本人と足並みをそろえる」としていた私は、時々、父に憑依するかのように現れる証券会社部長、鏑木に話を合わせるようにして、時間を過ごした。
-奥日光に紅葉を見に行った-
-大曲の花火大会に出掛けた-
-君と始めて結ばれた熱海の夜-
父はこれでもか、これでもかと言うように、瑞希と二人で刻んだ思い出の数々を私に浴びせてきた。
時には「勘弁してよ」という内容もあり、母の知る所とならず本当に良かったと思った。
そして私は、この地味以外の何物でもない日常から、抜け出すべく、門倉瑞希に成りすまし、彼女に化けた。
父が、私を瑞希と混同するのは、午後の昼寝の後で、夕食を食べ、テレビニュースを見ている内に元に戻る。
私は、それほど嫌悪感を覚える事もなく、
門倉瑞希に化け、父は父で、ほんの2,3時間、意気揚々として昔のモテた時代に返り咲いた。
「ねぇ、貴方の奥様って、どんな人?」
「どんな人って…」
「良妻賢母で、子供の事も、夫の事も100%完璧を目指す。それでいて、ベッドでは大胆な行動に出てあなたをメロメロにする…とか」
「バカ言っちゃいけないよ。
あいつは床上手どころか、マグロだよ。つんとすまして、何の反応もない。ダッチワイフじゃあるまいし」
-うん、そう来たか!そりゃ、女子大出て、その美貌で、縁談もすぐにまとまり、そこそこ金回りのいい家に収まった人だもの。
百戦錬磨の門倉瑞希とは、まるっきり違うわよね-
「でも、やっぱり美しい方がさ。毎日、家に帰るのも楽しくなるって言うか…」
「ぜんぜん!俺はあんな洗濯板みたいな胸には欲情しない。春川ますみみたいなのが好みなんだ」
父がご満悦でも、こちらとしては、早々に引き揚げたくなる時もある。
そんな時には
-あっ、いけない。クリーニングに出していた物、取りに行かなきゃ。じゃ、あなた、又ね-
と、適当な理由を述べフェードアウトする。
そうした仮想世界でのお遊びも、狂気ではないにしろ、正気とも言い難く
観客のいない、父と娘の三文芝居は数週間に渡って、粛々と、続けられていった。
そんな中、事故は起こった。
そろそろ、衣替えのシーズンと思い、父の部屋に入り、タンスの中の衣類を入れ替えている時だった。ふと、人の気配がして後ろを見るとトイレに立った父が部屋に戻り、2メートル程離れた場所に立っていた。
「あら、哲夫さん、どうしたの?真剣な顔して。仕事上のトラブルか、何か?」
と聞いてみたが「心ここにあらず」といった感じで、視線が定まらない。
「瑞希、どうしよう。客の売り注文で、ミスしてしまい、その客が責任者を出せと言って店に来ているんだ。
もう死ぬしかない。青木ヶ原の樹海に行って一緒に死んでくれ」
そう言い、父の顔が目前に迫る。
背後にあるタンスのせいで逃げ場を失った私は、抱きしめてこようとする父に
ただならぬ気配を感じ、ありったけの力で、父を突き飛ばす。
父は、木製のベッドのへりに思い切り後頭部をぶつけて倒れ、そのまま微動だにしなくなった。
「あ…ど、どうしよう」
とにかく、救急車を呼ばなければと思い、電話して
数分後に駆け付けた救急隊員に事情を説明していく。
「それでは、娘さんも同乗してもらえますか?」と言われ、担架に載せられた父と共に病院に入った。
父は、後頭部強打で頭蓋骨骨折を起こしており、その夜、集中治療室で息を引き取った。
通夜のあと、父を荼毘に付し、葬儀を執り行う。
一週間程で弔いの一切合切を終えると、ようやく、落ち着いて物事が考えられるようになり、あの事故について考察する余裕も出てきた。
‐何も突き飛ばさなくてもよかったのではないだろうか‐
‐相手は老人なのだから、足を引っかけて転ばすとか他に何か方法があったはず‐
なぜ、死に至らしめるような行為に出てしまったのか、悔恨の気持ちが
次から次へと湧き出てくる。
-ピンポーン-
-やだ、忘れてた。所轄の刑事が訪ねてくるんだった-
「すみませんね、お忙しくしていらっしゃる時に」
40代と思われる刑事が、その物言いとは真逆の、射抜くような視線をこちらに向け、言う。
新米の方も名乗った後、深々と礼をした。
「どうぞ、お上がり下さい」
居間に通し、ソファに座ってもらうまでは、司法解剖の手続き上、何か不備でもあり、その事で来たのだろうと解釈していた。
しかし
茶を出した時、二人が何か疑いを持った上で、ここにきているとわかり、気持ちが、一気に萎えていく。
それが、相手に伝わったのか
「単刀直入に言わせてもらいますね。
実は、今回、お父さんが亡くなられたのには何か、意図があっての事ではないかとする見方がありましてね」
と、衣笠という刑事が穏やかに言う。
「おっしゃっている意味がわかりません」
「つまり、あなたとお父さんとの間には修復できない溝があり、あなたは、常々お父さんに死んでほしいと思っていた」
「そんな!私と父は完璧とは言えないまでも、何とか二人で仲良くやって来たんです。死んでほしいなんて、考えたこともありません」
「例えば、この家てす。都心の一等地、売却すれば土地代はすごいものになる。しかし、建物は古くあなたとしては、家に対して何の思い入れもない。さっさと壊し、土地を売って、小綺麗なマンションに移りたい」
「…」
「だが、そこに痴呆の気が出ているお父さんを連れていくのは嫌だ、そう考えても不思議ではないですよね」
新米刑事の方も
「お父さんの足首に、痣が認められましてね、足首を縛られた状態で転ばされた、という推測も出来る」
-数日前「腹筋を鍛えたいから足首をおさえていてくれ」と言われた時についたんだ-
-だが、それを言ったら最後、ますます疑われる!と思い、口をつぐむ-
二人が、茶に一口も口をつけないのも
「気持ち悪くて飲めねーよ」
と言われているようで悲しかった。
私は激昂する事もせず、だんまりを決め込んだ。彼らは、まず、疑い、それが実証されるような糸口を躍起になって、見つけようとする。
だから「犬」なんだ。
しびれを切らした衣笠は
「今日はこれでお暇しますが、又、お邪魔するかも知れません」
と、来たときとは全く違う態度で言うと、新米刑事の方も腰を上げた。
二人が帰って行き、リビングに戻る。
゙ばぢが当たったのかも知れない。
父の部屋で、父の昔の女になりきり、
さらに母を冒涜するようなやり取りもした。
あの部屋には、仏壇も置かれている。
遺影での母は静かに微笑んでいるが、向こうの世界では、歯ぎしりをして悔しがっていたのではないだろうか?
-ごめんなさい、ごめんなさい。
私がどうかしてました。
夫だけでなく、手塩にかけた娘にまで馬鹿にされ、さぞ、心外だったでしょう-
涙がハラハラと頬を伝い、仕方がなかった。
気がつくと、外は夕暮れどきだった。
泣きつかれて、いつの間にか寝てしまったらしい。
「いけない。カーテンを引かなきゃ」
不思議と、刑事達にキツイ事を言われた直後の、嫌な感じはなくなっていた。
彼らが疑いの目を向けるのもあながち間違いではない。
と言うのも私の中にある、父を排除する気持ちは
日を追うごとに増していったのだから。
もしかしたら、父は私の嫌悪感を、疾うに気づいていて、それで、私に突き飛ばされるよう、仕向けたのではないだろうか?
例えそうだとしても、それを問いただす相手はもういない。
ならば、考えない事にしよう。
そして、両親の思い出がつまったこの家を、何とか守り抜いていかなければ…
恭子は
刑事なんかに、負けてたまるか
という気持ちで、立ち上がると、
スタスタと洗面所まで行き、備え付けの鏡で
くたびれた顔の隅々まで観察した。
‐刑事だって、生身の男。くすんだ肌の冴えない女が必死になって何かを訴えた所で、何も響いてこないのではないだろうか‐
恭子は、自室の机の引き出しから某有名エステサロンの会員証を見つけると、一つ、武器を手に入れたような気分になり、それと共に沸々と闘志が湧いてくるのを自覚した。
了
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