終章

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終章

 僕の唇には、彼女の温度が残っている。 二十二時、目を瞑った僕の耳に届いた夜想曲の旋律は三つ。 そして軋む音を立てて開く扉と、そこからの微かな風に僕は彼女の選択を知った。 『     』  言葉にもならない一瞬が、僕達に永遠を授けた。 数秒の暖かさの後、僕達は瞑っていた目を開け世界をみた。 爆音も、光線も、崩壊もなく、世界の終わりは奇妙なほどに静寂が夜の中を駆けるものだった。 その夜、僕達は屋敷の壁にもたれて眠った。 正確に言うのならきっと、眠ったフリをしていた。 手を繋いだまま、誰かが生きていることを感じながら。 独りの世界にならないように、世界が独りにならないように。  目を瞑っている数時間で僕は、ずっと夢のようなものをみていた気がする。 十七年間生きた僕の、たった七日間のこと。 音楽に溢れてきた僕は知っている、全ての瞬間に『主人公』という存在があることを。 僕達が奏でていた夜想曲の主人公は、旋律がアルト様、副旋律はスピカ様だという逸話がある。 世界の主体を創った、全ての事象においての中心的存在だった『アルト』をスピカ様が紡いだ旋律。その裏側で慎ましく、謙虚に、献身的に世界を慈しんでいた存在『スピカ』の姿を映し出すようにアルト様によって綴られた副旋律。 この曲には、ふたつの主人公が存在した。 そしてこの話には続きがある。  七つ存在する旋律の、残りの五つについて語り継がれる逸話。 それは五つそれぞれが、この世界の人間の断片だというもの。 旋律と相性のいい、高く澄んだ旋律は『掟に従順で、真っ直ぐに幸福を求める人間の姿』を。 鋭い金属に近い鍵盤で奏でられる旋律は『調和を忘れずして芽生えた僅かな反抗心』を。 一つ浮いた低音が伸び続ける静かな旋律は『形あるだけの愛で沈む、退廃的なこの世界の未来』を。 耳障りの心地いい音で旋律と副旋律を行き交う旋律は『揺れ動く中で誰かへの想いを棄てきれず護る情』を。 途切れながら奏でられる不定期な高音を打つ旋律は『絶望と希望を彷徨う、人間の強かさ故の愚かさ』を。  そうして完結する一曲の意味を、僕は七日間で理解した気がする。 所謂『主人公』と称される七人。そして『断片』と分類される、数えるための指を折る行為すら失礼に感じてしまうほどの人々の意味を。 ー*ー*ー*ー*ー  明るくなった空をみて、僕は彼女の手を揺らした。 その合図に目を開けた彼女は、きっと初めて目を開けた僕と同じ表情をしている。 「ハルク」 「……ノエル」 「これが、僕達の新しい世界なんだね」  屋敷から望めるはずの教会のシンボルも、昨晩まで人の影があった住居もない。 ただ色鮮やかな草木と花、妙に透明な空気と、蒼すぎる空が僕達を包んでいる。 「ノエル」 「どうしたの、ハルク」 「私ね、やっぱり世界を続けた選択間違ってなかったと思う。今、そう思えた気がする」 「理由が聴きたいな」 「昨日の最後の十五分間で、話をしたんだ」 「誰と……?」 「私の世界で、唯一のお母さんと」 「え……」 「初めて『母親と娘』としての話ができたの、ずっと言葉にできなかったことも全て伝えてきた」 「そうだったんだね」 「そこで言われたんだ……『世界を創ることは苦しいことだ』って」 「……」 「それでもね、私の中に終わらせるっていう選択肢はなかったんだ」 「どうして……?」 「本当はお母さんがなりたかったんだと思う、世界の創始者に。スピカ様とアルト様が、世界をどれだけ愛していたかを誰よりも知っているからね」 「……そうなんだ」 「でも、それは叶わなかったから……だから、私がお母さんと……お姉ちゃんの想いを叶えたかったんだ」  確信した。 この世界は、僕とハルクが創る世界は、紛れもない愛から始められたものだと。 形式的な義務でも運命でもない、人間が生み出した想いから生まれたものだと。 『ノエル、ハルク』  屋敷の扉の奥から、聞き覚えのある優しい声がした。 彼女と目が合う、頷く、扉にかけた手を引く。 「え……」  姿はない、遺された光だけが宙を舞っている。 それだけでも、その声の正体を察してしまう。 光が薄くなっていく、下へ堕ちていく。そして白いゆりかごの存在に気づく。 「ハルク、これって……」 「……そうだよね、きっとこれが」 『世界の始まりと共に訪れた新しい生命』  震えた手で、慎重にゆりかごにかかっている布を解く。 姿を現した生命は、触れたら壊れてしまいそうなほどに神秘的で、繊細なふたつの生命だった。 僕はそっとそのひとつに触れ、胸の辺りで抱える。 「初めまして……なのかな……」  青く綺麗な瞳をしている、知らないはずの僕に笑いかけている。 意味ありげに小指を立ててながら、僕から目を離さない。 「ノエル、どうしたの?」 「ねぇ、ハルク」 「ん?」 「生まれ変わりって……あると思う?」 「……否定はできないんじゃないかな」  彼女の言葉を借りて、僕は僕の妄想を信じたい。 彼女が約束を果たしてくれたという妄想に心を満たされていたい。 「……」  隣の彼女の目が潤んでいる、今にも溢れそうなほど。 僕と同じように抱えているもうひとつの生命の頬を撫でながら、視線で語りかけるように。 「ノエル……」 「……どうしたの?」 「さっきの答え、やっぱり違う」 「え……」 「生まれ変わり、やっぱりあるよ」 「どうして……?」 「私の愛する人の雰囲気によく似てるんだ……」 「それは……」 「世界を跨いで、私は生まれて初めて……数千年前一緒に創られた愛に逢えたと思う」  彼女が抱いている生命と、僕が抱いている生命にふたりで笑いかける。 少し緊張しながら、ふたりは笑い返してくれた。 時々僕達の手を掴もうと、小さな手を伸ばす。その一瞬ずつが可愛らしくてしかたがなかった。  僕達が創っていく世界の行方は、僕達自身もまだわからない。 それでも明確にあるこの世界に生きる生命が愛に溢れていてほしいという願いは、前世界からの引き継ぎものなのだと思う。 「ノエル」 「ん?」 「私、この屋敷を壊したい」 「どうして……」 「名残惜しいけど、本当に零から私達の世界を創ろうよ」 「それは……」 「ノエルは知ってるでしょ、前世界が終わりを迎えた理由。私は終わることなく引き継がれた『世界』を全く違う色に染めたいんだ」 「だから……壊すの?」 「そう、私達は私達の世界を創る。私は前世界が本当に好きだから、きっとこの屋敷があったら……縋って前に進めないような気がするんだよね」  彼女の数千年、僕の十七年が詰まった屋敷を僕達の手で壊す。 その言葉に僕は今、手を結んだ。 時間を掛けて、前世界への未来を消しとばすために。 そしてまっさらな僕達の世界を創り出すために。  時計もない、音もない、きっと本当に僕達だけの世界。 ここから際限なく愛が生まれ、それだけの恨みと絶望が生まれる。 いつか終わりを迎えることが約束された世界を僕達は始める。 そんな残酷を生み出した理由を、生み出す瞬間の感情を、景色を。 始められることに詰め込まれた光を、目を開けた瞬間の心の動き方を、数世紀後の創始者が感じ取れるような世界で在りますように。 そんな想いが込められた生命(いっしょう)を賭けた曲。  これは僕達が奏でる、世界寿命と幻想曲(ファンタジー)。    
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