一章

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一章

 軋む音と重さを僕の腕に残し、僕と世界を隔てていた扉は開いた。 知らない空気と景色が僕を刺す。動く景色に萎縮しながら、真紅に染まった柔らかい廊下を三歩ほど前を歩く使用人を追うように歩く。足音を立てぬよう、呼吸音の一つすら漏らさぬよう、神経を尖らせながら。 数メートル経った頃、顔を布で覆った使用人が足を止めた。腕を伸ばし、律儀に頭を下げている。 先程よりも重い鉄の扉を指示通り三度叩くと、閉鎖された鉄格子の奥から光を纏った影が姿を現した。 「久しぶりね、ノエル」  下を向いていても感じる、神々しい衣を纏った存在感に息を呑む。 「ヨミ様、本日は対談の機会をくださったこと感謝いたします」 「そんなに堅くならなくて大丈夫よ。それに礼を伝えるのなら、それは私の方よ」 「こうして言葉を交わしていただけること、心から嬉しく思います」 「ノエル、顔を上げて。せっかくの機会なの、目をみて話をしましょ」  躊躇いながら目線を上げる。彼女の瞳は無数の宝石が埋め込まれているように美しく、色素の薄い睫毛がかかっている。 微笑むたびに、その瞳は柔らかく細くなる。 彼女は、僕が生まれて十七年間住み続けているこの屋敷の管理者。 ただ、彼女と顔を合わせる期間は生後二週間まで。そこから先は彼女の信頼のもとに雇われている使用人の手によって育てられることとなる。 当然ながら、僕に当時の記憶はない。 「綺麗な瞳は変わらないのね、ノエルという名に相応しいわ」 「お褒めの言葉をありがとうございます」 「窮屈な敬語はいいわよ。ずっと部屋に独りだったのだから、この瞬間だけでもノエルの想いを飾らずに伝えてほしいの」  物心ついた頃から、僕は独りだった。 異様なほどに大きい窓から望める景色は、誰もいない屋敷の敷地。 最初は寂しさを感じていたのかもしれないけれど、年齢を重ねるごとにその感覚すら無いものとなった。 「ノエル」 「はい」 「私が今から話すことは十七歳のノエルに背負わせるべきことでは、きっとない」 「ヨミ様からの言葉を受け取れるのなら、僕は本望です」 「十数年ぶりに顔をみた貴方の本心を今の私は知らない、だからその言葉を信じさせていただくわね。私が今すごく無責任なことを言っているということは、よくわかっているわ」  丁寧に動く陶器のような唇から放たれる言葉は、どこか棘がある。 奇妙なほどに神聖な空気を刺すような言葉と視線に息を殺す。 『七日後、この世界は終わる』  止まる、時が、全ての流れが止まった。 彼女の表情に変化はない、躊躇いも不安も宿さない無機質な綺麗さのまま。 僕だけが、僕の心臓だけが不規則に打たれている。 「……終わる」 「この世界は終わる、そして新しい世界を始めるの」 「新しい世界……」  『世界が終わる』という意味を、僕は理解できずにいた。 淡々と並べられる言葉を腑抜けた声で繰り返し、呑み込めずにいる。 「ノエル」 「……はい」 「スピカとアルトの存在は、私が問うまでもなく知っているわよね」 「生を授かった瞬間から、敬うべき存在として僕の中に在ります」  『スピカ』『アルト』 この世界は、ふたりのキスによって生まれた。 数千世紀もの間、この世界の絶対的存在として国民の中に在り続ける存在。 「血を注ぐ者として素晴らしい回答ね」 「血に背くような行為はできませんので」 「貴方になら、新たな世界の創始者を託せそうね」 「僕が……」 「血に背く行為は、許されないものね」  薄黒く口角が緩む、綺麗な瞳が僕を睨む。 突き放すような言葉に数分前まで感じていた優しさを疑ってしまう。 「ヨミ様」 「どうしたの」 「どうして……この世界は終わりを迎えるのですか」 「ノエルは、この世界の掟を覚えているかしら」 「掟……」  この世界で生きる者へ課せられる掟。 一つ。この世界の創始者であるスピカ様とアルト様、その存在と好意を讃え、敬うこと。 二つ。全生物の命を重んじ、世界に住む者が残らず幸福であること。 「忘れたことなどございません」 「私達は永く、スピカとアルトによって与えられた愛を抱えて生きてきたわ。その命が自然と尽き、この世界の血へ還るまでね」 「はい」 「不幸を嘆く者などおらず、誰もが生きることを望んでいたわ」 「それが生きていくための掟ですからね」 「ただ、四日前。この世界が始まって初めて、国民が自らの命を棄てたのよ」 「初めて……」  言葉にしたことはなかったけれど、僕は掟を疑いを抱いていた。 数千世紀と紡がれてきた世界の中で、自ら死を望む者がいないという事実を信じきれずにいる。 「掟に従順なノエルからしたら、信じ難いことなのかもしれないわね」 「だから……この世界は終わりを迎えるのですか」 「え……?」 「掟に背いた国民が現れたことが、この世界を終わらせる理由ですか」 「物分かりが良くて助かるわ」  世界が終わる理由を知った。 何万と存在する人間の一人の息が止まったこと、それはこの国にとってそれ程重い事らしい。 僕には理解できなかった、抗うことはできないけれど。 「そしてもう一つ、ノエルに話さなければいけないことがある」 「……」 「世界が終わるまでの七日間で、国民の選別をするの」 「選別……?」 「新たな世界へ引き継ぐ生命を選択するのよ。情や地位は関係ない。本当に必要な人間だけが、新たな世界へいけるようにね」 「その国民は、誰の基準によって選ばれるのですか」 「人工知能」 「え……?」 「私達人間よりも遥かに優れていて、無駄な情を持たない。私達の価値は、人工知能によって見定められ、未来が選択される」  僕の知っている彼女は、架空の暖かい存在だった。 存在そのものが愛であるような、そんな理想像を彼女に重ねていた。 そして今、冷酷な瞳と淡々と連ねられる言葉で、それが僕の思い込みだったと知らされた。 「私達は人工知能が選出した限られた人間と共に、新たな世界へ進むの」 「……」 「そして今から告げることが、ノエルが創始者になる最初で最後の準備」 「僕が創始者になることは……避けられないのですか」 「どうして?誇らしいことなのに、それを逃すというの?」 「僕が……何一つ世界を知らない僕が、そんな大きな存在になることが許されるのでしょうか」 「何も知らないからよ」 「え……」 「ノエルが何も知らないから。何も知らないまま、新しい、まっさらな世界を創ってほしいの」  拒む意思に反して、断る言葉は浮かばない。 真っ直ぐに向けられた彼女の視線に、酸素すら澱んでいるように感じてしまう。 「ノエルは特別な存在なのよ」 「僕が……」 「スピカとアルトの遺伝子を引き継ぐ、貴重な生命なの」 「もし……もし僕が、人工知能によって『不要』と選別されたら、新たな世界はどうなるのですか」 「だから言ったでしょう、貴方は特別な存在なの」 「それは……」 「ノエルが生き続けるということは、生まれた瞬間から決められていたことなのよ」  僕は、命を棄てることができない。 意思も望みも抱けぬまま、遺伝子を継いだという形式的な理由に流されるだけの虚しい生命。 「ノエル」 「……はい」 「私と庭へ行こうか」  二十二時、この時間は僕にとって欠かせないことがある。 「でも……二十二時は……」 「たまには別の視点へ移ることも大切よ、今夜は私について来なさい」  屋敷の扉を開けると、風が僕の身体を包んだ。 人工的な冷たさではない、容赦なく突き刺すような温度。生々しく草木が揺れ動く音も、硬いコンクリートとは違う足裏の感覚も。 僕にとっては、全てが初めてだった。 「部屋の外へ出るのは初めてよね」 「はい、生まれてからずっと部屋の中の記憶しかなくて」 「十七年間、あの部屋の中で育ったなんて私からしたら上手に想像もできないわ」 「あの部屋にはスピカ様とアルト様の魂が遺されているので、離れることは許されていないと……」 「ノエルはそんな呪いを信じてきたのね」 「呪い……」 「素直でいい子だと思うわ、でも本当に疑うことを教えられなかったのね」  皮肉めいた言葉、表情はみえない。 「ノエル、上をみて。灯りがついているのがわかるかしら」 「はい、あれは……僕の部屋の辺りですよね」 「そうよ、ノエルの部屋から左に七部屋。全てに灯りがついているの」 「何か意味があるのですか」 「この屋敷に住んでいるのが、ノエルの他に七人いるということよ」 「それって……」 「使用人の部屋じゃないわ、この意味がわかるかしら」 「……わからないです」 「ノエルと同じ、スピカとアルトの遺伝子を継いだ者が七人いるということよ」  僕は永く独りだった。 完璧に調節されている温度の中で、窓から見えるを木々眺める。 数えきれない程の楽器と楽譜に囲まれながら、言葉を交わすのは食事を届けにくる使用人との数分のみ。人の話し声や生活音は聞こえず、響くのは硬いコンクリートを踏む僕自身の足音だけ。 壁の向こう側に人がいることなんて、想像すらしていなかった。 「それは……僕の兄弟ということですか」 「そういうわけではないのよ、少し複雑だけどね」  どうやらこの国で息をする者は皆、生まれてすぐにある検査を受けるらしい。 その検査で過度な反応があった者は『神の遺伝子を継ぐ者』とみなされ、この屋敷へ隔離される。 「神の遺伝子……」 「スピカとアルトはこの世界において神様だからね」 「…… 」 「ノエルに頼みたいことがあるの」 「頼みたいこと……」 「世界が終わるまでの七日間で、この七人の生死の選択を手伝ってほしい」 「僕が……」 「同じ国民であっても神の遺伝子を継ぐ者の生命を選別することは、スピカとアルトへの冒涜になってしまうのよ」 「どうして、僕が……」 「え?」 「どうして僕が、七人の選択に手を差し伸べるのですか。同じ遺伝子を継ぐ者なら、等しく個人が選択すればいいと思ってしまって……」 「それは、ノエルが最もふたりの遺伝子を濃く、継いでいるからよ」 「僕が……そんな」 「変えられない事実なのよ、血に抗えないことはノエルもよくわかっているでしょう」  沈黙を裂くように、灯りの方から音が聞こえる。 僕がいつも奏でているもの、スピカ様とアルト様が唇を重ねる前に共に紡いだと語り継がれる大切な音の羅列。 夜の情緒と静けさが頭に浮かぶ、夜想曲。 ただ、今夜の音はどこか何かが欠けている。 「ノエル、初めて聴いたでしょ」 「……」 「防音機能の備わっているノエルの部屋へは届かないのよ、この音達は」  わかった、足りないのは僕の旋律だ。 重低音、耳を劈くような高音、裏で揺らいでいるような音、その中に僕の旋律だけがない。 「この夜想曲は、八人の奏でる音が重なって初めて、一つの曲になるのよ」 「僕が奏でていたのは、その一部……」 「そういうこと、貴方達は知らぬ間に繋がっていたのよ」  顔すら見たことのない誰かに、根拠もなく情が湧いてしまう。 人工知能に選別を託す理由がわかってしまった気がした。 「ノエル」 「はい」 「明日から、この七人一人ずつと一日を過ごしなさい」 「一人ずつと……」 「一日過ごして、相手の生死の選択に掛ける時間に付き合うのがノエルの役目」 「……わかりました」 「そして一日の終わり、相手に問うのよ」 「……」 「新たな世界で生きることを望むか、死を迎えることを望むか」 「それを聴いた僕は、何をすれば良いのですか」 「相手が死を望んだ場合、その人の持つ夜想曲の楽譜を受け取るの」 「楽譜を……」 「そう、そしてノエルが私の元へ楽譜を届ける。その過程を経て、その人の選択が認められる」  初めて言葉を交わす人間に対して、最後に生死を問わなければいけない。 それが世界の創始者になってしまう僕に託されたこと。 「ヨミ様」 「どうしたの」 「生き続けるという選択をした場合、新しい世界ではどのような存在になるのですか」 「そのまま遺伝子を継ぐ者としても使命を果たしてもらうことになるわ、高潔な血を汚すわけにはいかないからね。そもそも自ら死を選ぶなんて冒涜的な行為に及ぶ者がいるのか、私には想像もできないけれど」 「それなら……」 「ん?」 「死を選んだ者は……どうなるのですか」 「どういう意味?」 「最後は、どのような終わり方を迎えるのですか」 「苦しむことはないわ、この屋敷の地下に吸魂室という部屋があるの」 「吸魂室……」 「数分目を瞑れば、魂が吸い取られる。身体への負担はなく、綺麗な容姿のまま最期を迎えることができるわ」 「国民は……」 「え?」 「人工知能によって不要とみなされた国民は、どうなるのですか」 「私にはわからないわ、きっと酷い終わり方を迎える者もいるでしょうね」 「……そうなんですね」 「ノエル」 「……」 「貴方は、世界の創始者になる者なのよ。この世界を終わらせることに力を貸してくれないかしら」 「それは……」 「ノエルの手で誰かを殺めるわけではないのよ。この七日間は世界の仕組みを感じるのに、悪い機会ではないと思うわ」  きっと拒否権はない、認められていない。 この世界は二つの絶対的存在を中心に廻っていて、その血を引き継ぐ僕は、どんな不条理にも頷くことしか許されていない。 そんなことは、独り部屋で息をしていた頃から知っていたはず。 「ヨミ様」 「何」 「明日から、世界の終末作業に加わらせていただきます」 「頼もしいわ、ノエル」  この瞬間、必要とされているものは僕が継いでしまった遺伝子であって、僕自身ではない。 臆病で誰かの生死に怯えている人間らしい僕ではなく、薄情で絶対的存在に従順な神の遺伝子を継ぐ者としての僕。 抗うことのできない空気に、僕は自らに選択を下した。   僕は今、僕自身を殺すことを選んだ。
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