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九章
扉を開けた先で、彼女は窓の外をみつめていた。
僕が出逢う、七人目の遺伝子。
そして、僕と共に世界の創始者となる人間。
「初めまして、ノエル」
「初めまして、ハルク」
その声は澄んでいて、美しい。
それでも鋭く挑発的な要素が隠れていて、触れてはいけないような気高さを持っている。
「いつまで扉の外に立っているの、そのままじゃ何も始められないじゃない」
「そうですよね、失礼します」
「硬い床で申し訳ないわ、でもすこしの間だから許してね」
「いえ、ご心配なく」
「ごめんね、私『愛想』とかよくわからないの。でも敵意はないわ、だから身構えないで付き合ってくれると嬉しい」
「そうなんだ、じゃあ一つ訊いてもいい?」
「ええ、いいわよ」
「さっきからずっと、何をみてるの?」
「テラの跡よ」
「え」
「私の一つ隣に住んでいたの」
「それは知ってるけど、どうしてみてるの?」
「彼から頼まれたから」
「頼まれた……?」
「そうよ『僕が飛べたら、その勇姿の跡をみて思いを馳せてくれ』って頼まれたの。報われた気持ちになれるんだって」
「そうなんだ」
「よくわからないわよね」
「え……」
「テラの言葉の意味、私はよくわからなかった。みるだけで報われるなんて、私なら思えないから」
呆れたように呟き、彼女は窓を閉めた。
彼の最期に手を振るように会釈をし、浅い溜息を吐く。
「顔も合わせずに挨拶なんて無礼なことをしてしまったわね、ごめんなさい。改めて、私はハルク」
「僕はノエル、ハルクと同じ世界の……」
「一旦肩書きは放置しようよ」
「え」
「囚われて考えることなんて、囚われた結果しか生まないような気がするから」
「そうだね、そうしようか」
僕のほんの数メートル先に彼女がいる。
初めて目にするはずの彼女は、どこか僕の記憶の断片と重なった。
一人の幼さを宿した青い瞳、一人の純粋さが憑依したように白すぎる肌、一人の優しさを閉じ込めたようなミルクティーベージュの髪、一人の鋭い思想を詰め込んだような言葉の端。
僕が顔を合わせ、心を通わせた五人の影を彼女は持ち合わせている。
そしてきっと、僕が通わすことのできなかった一人の影すらも抱えてしまっているのだろう。
「ノエル」
「どうしたの」
「私にはきっと、生きるか死ぬかを決める選択肢は与えられていないと思ってる」
「どういう意味?」
「ノエルと同じよ、与えられた選択肢を全うする。それが私に与えられた唯一の選択肢だと思っているの」
「それは違うよ」
「え……?」
「昨日、ヨミ様という、この屋敷の管理者を務めている女性と話をしたんだ」
「そうなのね」
「そこで言われたんだ『世界という概念すら終わらせても構わない』って」
「それ、本当なの?」
「本当だよ。だから僕にもハルクにも、生きるか死ぬか、その選択肢が与えられてしまったんだよ」
「今更その選択肢の正しい使い方なんて私にはわからないよ」
「僕もそう思うよ、でも拒むわけにはいかないでしょ」
「それはそうだけど……私は本当に何も知らないのよ、ノエルは六日間屋敷の外の世界をみてきたのかもしれないけれど、私は何も知らない」
「テラさんから話を聴いたこととか、ないの?」
「ない、それどころか彼と話をしたのは彼が飛ぶ前日の数秒間だけだったから」
「え……」
「一方的に、さっきの頼み事をされただけの時間だった。だから私は何もわからない」
「そっか、それなら知りに行こうよ」
「どういう意味」
「そのままの意味、知らないままハルク自身の生死を決めるなんて難題すぎるでしょ?」
「じゃあ、ノエル」
「ん?」
「私を連れ出して」
「そのつもりだよ、知らない世界をみにいこう」
崩すことのできない事実に怯むことは許されていないと、僕は無自覚に知ってしまっていた。
彼女を創始者にするために、あるいは悔いなく終わらせるために、それは僕自身のためにも。
彼女の手を取らないという選択肢を、今の僕は持っていない。
「私ね、連れて行ってほしいところがあるんだ」
「僕がわかるかどうかはすこし自信を持てないけど、その場所がどこか教えてよ」
「ノエルが行った場所、全て」
「え」
「ノエルがわからないはずないよ、だって記憶に深く刻まれているだろうから」
「どうして、僕が行った場所へ行きたいの?」
「それがこの世界の象徴のような気がするから」
「どういう意味」
「ノエルは私と顔を合わせるまでに、五人と一日という時間を過ごしたはず」
「そうだよ」
「その五人も、私やノエルと同じように『神の遺伝子を継ぐ者』だという私の妄想は間違っていないかしら」
「間違ってないよ」
「屋敷の外の世界を知らない五人が、ノエルとの一日に選んだ場所。それは五人にとって何を基準に選ばれたと思う?」
「そんなこと、僕にはわからないよ」
「私にもわからないわよ、だから考えることを辞めないで。正解なんて求めていないのだから」
「……そこへ行けば、何かがわかると思ったからだと思う」
「私もそう思う、あえて言葉を変えるのなら『その場所へ行けばこの世界がわかるから』とか」
「だから、ハルクもそこへ行きたいの?」
「そう、初めにも言ったけど私は何も知らないから。だから全てを吸い込みたいの」
彼女の瞳と言葉が僕に刺さる。
そこへ足を踏み入れてしまえば、五人との記憶が蘇ってしまいそうで、この世界への未練が残ってしまいそうで。
それでも拒むことはできない、僕は彼女に時間と感情を割く義務があるから。
「五人と、どこへ行ったか教えてほしい」
「スピカ様とアルト様が数千年前、棲んでいたと言い伝えられている家。教会。山の奥の孤児院に、行ってきたよ」
「そう、三ヶ所なら一日で触れられそうだね」
「ねぇ……ハルク」
「何」
「一つ、僕から卑怯なお願いがあるんだ」
「受け入れられるかはわからないから、まず聴かせてもらおうかな」
「教会には、行きたくない」
「どうして」
「わからない、理由は明確なはずなのに当てはまる言葉が見当たらない」
僕にとって教会は、復讐と信仰が混沌としている空間。
逃げるという選択が冒涜的な行為となってしまうことは充分すぎるほどわかっている。
それでも僕に、もう一度あの場所へ行く勇気はない。
「そういうことね」
「だから、残りの二つに……」
「それなら、私だけ連れていって」
「え……」
「ノエルは離れたところで待ってて、私はノエルがそこまで避ける場所をみなければいけないような気がする」
「……でも、本当に」
「綺麗な場所だけみて、世界を知ったような気になりたくないの」
彼女の言葉を受け取り、僕達は屋敷の外を歩き始めた。
聞き慣れた芝生を踏みしめる音も、きっと今日で最後になる。
そう思ってしまうと妙に一瞬が寂しく感じる、全てが終わりに向かっていく瞬間に息をする意味すら疑ってしまいそうになる。
閑散とした路地には、生活の跡が転がっている。
数日前の空き家は荒らされていて、整備されていた花壇は踏み荒らされて廃れている。
僕がみていた景色が、もうここにはないことを知った。
「ノエル、教会はどんな場所?」
「複雑な場所だよ、数えきれない感情が渋滞しているような場所」
「そっか、深くは聴かないでおくね」
このレンガ棟の隙間を通って、廃工場の地下を歩けば、教会へ繋がる道へ出る。
そこにはちょうどよく教会からの死角がある、僕はそこに隠れていたい。
「ここの角を左に曲がって、そのまま進めば硝子で造られた建造物がみえる。それが教会だよ」
「教えてくれてありがとう、行ってくるね。だからすこしだけ待ってて」
「ハルク」
「何?」
「気をつけてね」
「……え?」
「危ないって思ったら、すぐにここに戻ってきて」
「わかった、約束する」
彼女の遠くなっていく背をみつめて、僕は目を瞑る。
何の建物かもわからない外壁に寄りかかり、記憶の焦点を逸らす。
清掃員だと人生で初めて嘘を覚えたあの日も、そこで出逢った男性が『神に見捨てられた』と零したあの夜も、復讐としてここへ訪れたあの人も、本当の信仰を全うした行方の知らないあの人も全て、僕の記憶から消えてしまえばいい。
でもそれは、本当に消えてしまった瞬間に悔やんでしまうような僕にとっての手離したくないものだったりもする。
『何かを信じることに、愛することに縋って、それを離さないんだ』
二日前、ここで出逢ったある人が言っていた生きる方法。
生い立ちすら知らないその人の言葉が、僕の頭に深く刻まみ込まれている。
何かを信じること、愛すること、それを離さないこと、その対象が彼らにとっての神様だった。
神や仏を信じて安らぎを得ようとする心のはたらきを『宗教』というらしい。
これは三日前に出逢った哲学的な思想の持ち主が教えてくれたこと。
僕が記憶に縋りつくことは、記憶が僕の中の宗教になっていることの証明なのかもしれない。
生まれて初めての宗教、僕にとってそれは形など無く、曖昧な『記憶』という幻想だった。
「ただいま、ノエル」
「ハルク、おかえり。怪我はない?」
「大丈夫、そんなこと心配もしなくていいくらい綺麗な場所だったから」
「綺麗……?」
「そうだよ、教会内に立ち入ることはできなかったけど敷地内の庭は綺麗に整備されてた」
「それ、本当……?」
「遠目からでも、みてみることを勧めるわ」
「ごめん、ハルク。すこしここで待っていてくれないかな」
「もちろん。私のことは気にしなくていいから、気の済むまでノエルの目で確かめてきて」
角を曲がるたびに、鼓動が早くなる。
怖かった。また違う『教会』をみてしまうことが、ふたりへの失礼にあたってしまいそうで。
「嘘……」
廃棄物の浮いた噴水の水は透明で、荒らされていた花壇は花はないものの綺麗に整えられている。
建造物に傷は無く、不思議と荒んだ雰囲気はない。
「お前……ノエルか」
「え……貴方は……」
「失礼なやつだな、でも忘れるのも無理はないか。パルラだよ、二日前ここで会ったおじさんだよ」
「あ……でも、どうして」
「教会の整備に来たんだよ、ずっとお世話になってたのに荒らすなんて恩知らずが過ぎると思って」
「……そうだったんですね」
「ノエルはどうしてここに来たんだ」
「様子が気になって……」
「そうだよな、怖いものをみせてしまって申し訳なかった。でももう大丈夫だ、俺だけじゃない、交互にここを訪れて教会の復元作業をしてるからな」
「そうだったんですね……」
「相変わらず死人は絶えないけどな……俺もいつまで生きられるか、本当に信じ続けるって怖いな」
「怖いですよ、本当に」
「ノエルも外では背後に気をつけろよ、法律がない。いつ刺されてもおかしくないような世界だ、命だけは奪われないようにな」
彼の不器用な優しさを受け取り、僕は彼女のもとへ駆けた。
信仰心というものは、人間の思想、言動すらも変えてしまうらしい。
「ノエル、どうだった?」
「ハルクが言うように、本当に綺麗だった」
「そうよね、奇妙なほどに綺麗だった。それほど、この世界にとって『スピカ』と『アルト』という存在は偉大なのね」
「そうみたいだね」
「次は、どこへ行くの?」
「距離に大差はないから……先にスピカ様とアルト様の住処に行こうか」
「そうね、ありがとう」
行き道に通ったスラムに、人の影は無かった。
その代わりに投げ棄てられたように置き去られている銃と、変わらず廃棄物を突く黒い鳥の姿が悪目立ちしている。
異臭はすこしだけマシになっている。
共に生きる相手がみつかったか、人工知能に『不要』と判断を下されたか。
後者であってほしくない、すくなくとも言葉を交わしたあの人だけは。
「スピカ様とアルト様の姿を、ノエルはみたことがある?」
「僕はないかな、一度だけ絵画をみせてもらったことがあるんだけど……あまりにも抽象的な描き方だったからよくわからなかったけどね」
「そうなんだ」
「ハルクは、みたことあるの?」
「一度だけね、ヨミ様と話をした時に写真をみせてもらったことがあるの」
「どんな人だった?」
「変な意味に捉えないでね」
「……わかった」
「アルト様の顔が、ノエルにそっくりだった」
「え……」
「本当に、そのまま映し出されたように綺麗に一致するの」
「……そうだったんだ」
「遺伝子って残酷だよ、ノエルとアルト様は別の人間なのに。抗えない条件って嫌だね」
頷くことしかできない。
『そうだね』と呟くことすら、罪に問われてしまいそうで、冒涜だと指を刺されてしまいそうで。
「……ハルクは、どうして創始者に任命されたの?」
「私は、ヨミ様の遺伝子を最も強く引き継いでいるから」
「え……でも、ヨミ様には」
「そうよ、ヨミ様には娘がいる」
「じゃあ……どういう関係?」
「本当は『ヨミ様』なんて呼んでいることにも違和感があるんだけどね」
「え……」
「私は、ヨミの娘。双子の娘の、『サラ』の妹」
「そんな……でも、生まれてすぐに離れ離れになったって……」
「母はね、私と姉を産んだ時、母自身の部屋で産んだの」
「それって……」
「そうよ、私の父親である当時の使用人との計画的犯行」
「……」
「姉が産まれて、すぐに私が産まれて、父とヨミはすぐにその場の処理をした」
「え……」
「跡形もなく処理をして、姉を当時の父と一緒にスピカ様とアルト様の元へ連れて行ったの」
「それなら、その間……ハルクはどこに」
「ヨミの部屋には防音の隠し扉がいくつもあって、そこに入れられていたの」
「それで……?」
「ヨミが姉が血の繋がった娘であること、使用人が子供の実の父親であることを明かした、私のことは隠したままね」
「バレなかったの……?」
「ヨミは最初から知っていたのよ。子供のことがバレたら、ヨミ自身の部屋から出ることが一切許されなくなることを」
「だから、その部屋の中で……ハルクを……」
「そう、そして私が産まれた十年後。屋敷の全ての使用人が一掃される日を境に、ヨミの部屋を私に受け渡したの」
「だから、ヨミ様の部屋だけ……」
「そういうことよ。一人下のフロアに住んでいるのは、私との秘密を隠し切るため」
彼女達の秘密に、言葉が詰まる。
全ての事実が、綺麗に、奇妙なほどに紐解かれていく。
「ノエルは聴いたことがないかもしれないけどね、世界の始まり方は、本当に奇妙なの」
「奇妙……?」
「世界はキスで始まる、そこまではまだ理解が追いつくの。でもね」
「……うん」
「キスをして沈んだ夜のあと、創始者の遺伝子を継いだ生命が訪れるのよ」
「……どういう意味?」
「私達の遺伝子を継いだ、言うなら……次の世界の創始者がその夜に世界に降りてくるの」
「え……どうして?」
「わからない、でもそれが世界ができる決められた最初なのよ」
「じゃあ……ヨミ様は」
「そう、ヨミはその世界のシナリオに従って誕生した生命。スピカ様とアルト様の娘」
「ハルクと、サラさんは……愛によって生まれた、孫」
「そう言うことになる。創始者であるふたりは愛を持って世界を創り出すから……不可抗力で子孫が誕生することは割にあっているのかもね」
僕と彼女が今夜、世界を創るという選択肢をとった場合、明日の朝には新たな生命が誕生しているらしい。
住処の前で、僕は新事実を知った。
「ここが住処?」
「そうだよ、数千年前の話らしいけどね」
「そうなんだ……私もみたことないからさ」
「そっか……そうだよね、言い伝えだから本当かどうかはすこし怪しいけど」
「本当なんじゃないかな、そうじゃなかったらこんなにたくさんの供物が集まらないと思うし」
住処の門の端に、無数の花束が供えられている。
言葉が添えられているものも少なくない、中身を知ってしまうことを躊躇い僕はすぐに目を逸らしてしまったけれど。
その一つ一つを丁寧に掴み、彼女は凝視する。
止めようとしたけれど、仕方がない。彼女にとってスピカ様とアルト様は血の繋がった家族なのだから。
「ねぇ、ノエル」
「どうかした?」
「これ、みてよ」
「僕がみていいものなの……?」
「孫の私がいいって言ったら、たぶん誰も怒れないでしょ」
差し出されたメッセージカードに渋々焦点を合わせる。
淡い色の小さな紙に、規則正しい字が並ぶ。
『私達を、幾千と傷つけることなく救ってくださり、護ってくださった』
そんなありふれた言葉が。
「これが、どうしたの?」
「これって、本当なのかな」
「え……?」
「傷つけることなくって、なんとなく嘘のような気がして」
「それは……」
「私はあんまり覚えてないけどさ、お姉ちゃんを里親に受け渡す時、お母さんは部屋で哭いてたよ」
「……」
「人は救ったことしか覚えてない、人を傷つけたことなんて、救った回数が上回れば忘れていくだけなんだよ」
「否定はできないけど……」
「私、ここの中はみなくていいや。なんか世界を嫌いになっちゃいそう、取り返しのつかないくらい」
彼女はそう言い、メッセージカードを刺さっていた花束へ戻す。
僕の手を取り、次の場所への案内を訴える。
「次は……孤児院だっけ」
「そうだね」
「孤児院ってどんな場所?」
「身寄りのない子供達が一緒に生活をする第二の家だよ。すごく暖かい場所で、優しさに溢れている場所」
「そっか、最後を飾るには相応しいね」
これは僕の身勝手な願いだけれど、あの場所で暮らす全員が今も生きていてほしいと思う。
誰一人苦しむことなく、怯えることなく、彼女の渡したアップリケにくるまりながら生きていてほしい。
そして全員で手を合わせて美味しいものを食べていてほしい。
世界が終わる瞬間まで、何も知らぬまま新しい世界へ行けるように。
「ノエル……ここがその孤児院?」
「そうだよ、ここが僕が言っていた孤児院」
僕の願いは、その光景で打ち消されてしまった。
「……ロス先生、ですよね」
「貴方は……ノエル」
「はい、四日前にお邪魔したノエルです」
「あら、またお友達も連れてきてくれたのね」
「そうなんですよね、ランセは今日は用事があって……」
「歓迎したいところなんだけどね、今……ちょっといろいろ大変で」
「え……」
「何日か前からね、亡くなっちゃう子が多くいて……」
「……そうだったんですか」
「それに、法律が無効になってから……不当に子供を引き取る親が多く押しかけてきてね」
「え……」
「子供達に訊くと、みんなお父さんとかお母さんについて行くことを選ぶのよ。無条件に親を愛してしまう、それが子供という生き物なのかもしれないわね」
「……」
「だから、今は中には招いてあげられないの」
「忙しい時に、すみません」
「いいえ、ノエルの顔をみてすこし元気が出たわ。来てくれてありがとうね、お友達さんも……お名前はなんていうの?」
「ハルクです……初めまして」
「可愛らしい子ね、またいつでも遊びにいらっしゃい」
「……ありがとうございます」
「ノエル、そしてハルク。一つだけ目印にしてほしいものがあるの」
「目印……ですか?」
「そう、今後この孤児院にどんな変化があっても変わらないものがあるわ」
「……教えてください」
「あの花壇よ」
「花壇……?」
「あれはね、ナルが造った花壇なの」
「ナルが……」
「ええ、ナルが最初に種を植えて……そこからは子供達が思ったままに手入れをして、花に名前をつけて話しかけて、見守って……そんな私達にとっての大切な想い出になっていったのよ」
「……そうだったんですね」
「実はね、ナルはもうここにはいないの」
「え……」
「でも、この花壇はナルだけじゃない。ここで生きた子供達の証だから、だからこれからも守り続ける」
「教えてくださってありがとうございます。僕もハルクも、絶対に忘れません」
「そう言ってもらえて嬉しいわ、それじゃあ気をつけてね」
花壇の影を、僕はまた記憶という宗教に刻んだ。
忘れぬように。仮に明日、世界という概念すら失われてしまったとしても、ここに生きていた生命の存在を脳裏に遺していられるように。
何度も辿った屋敷への帰り道、僕と彼女を隔てている沈黙を無視したまま進む。
時間が経ってしまう、選択への猶予が擦り減っていく。
「ねぇ、ノエルは選べた?」
「え……」
「世界を創るか、終わらせるか」
「僕は……まだすこし迷ってる」
「私もなんだよね、どちらを選んだとしても恐怖が隣に着いてきそうで」
「わかるよ、でも選ばないといけないんだ……」
「何が正解なんだろうね」
「正解がないから、難しいんだよ。きっとね」
正解があれば、どれだけ楽なことだろうと僕は選択肢を恨む。
どちらかを選べば、選んだ先での不都合に嘆き、反対を選んでいたとしても、きっとその結末は約束されている。
結局、悔やむ先のない選択なんてないのかもしれない。
「ノエル」
「何」
「私に一つ、考えがあるの」
「聴かせて」
「二十二時、それは夜想曲が鳴り響く時間」
「そうだね」
「その時間に、世界を創ることを選んだら今いる、屋敷の扉の前に来てほしい」
「終わらせることを選んだら……?」
「終わらせることを選んだら、最期の夜想曲を奏でよう。この世界の美しい終わりのために」
彼女からの残酷な提案が、今の僕達への最適解のような気がした。
最終選択までに残された時間は十五分、僕達はまたここへ集まることができるだろうか。
「それじゃあ、ノエル」
「ハルク」
『また、世界の終わりで』
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