三章

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三章

 昨晩、僕の部屋の窓からみえた煙が、彼女『アイラ』という存在の最期だった。 彼女は僕へ『素直』という言葉を貼り付けた。今思えばそれは、僕がただ安直な思考しか持っていないということの証明のように思える。 彼女に未練を残しながら、僕は二つ目の扉を叩く。 「初めまして、イリア……です。あの、お兄さんのお名前は……」 「初めまして、ノエルっていいます」 「あの……敬語外して話したいな、おたがいに気を遣っちゃうと思うからさ」  彼は何かに怯えているように、僕より高い背を丸める。 絵画のように美しい白髪と、前髪の分け目からみえる瞳は僕が知っている白の域を超えている。 「イリアって呼んでもいいかな、僕のことも呼びやすいように呼んでよ」 「ありがとう、じゃあ……ノエル、ノエルって呼ぶね」  彼の脚が臆病に動く、俯きながら、僕の手をとる。 「よかった……ちゃんと触れられる、ノエルは死神じゃないね」 「死神……僕が?」 「そう、だって僕達死んじゃうんでしょ?」 「いや、絶対にってわけじゃなくて……だから今日はその選択の手伝いを……」 「嘘つかなでよ……六日後にこの世界が滅んだら、僕達はそれと同時に死んじゃうんでしょ?」  六日後、確かにこの世界は終わる。 彼がどこでその情報を得たのか、僕にはわからないけれど、その情報に誤りがあることは知らせなければいけない。 そして切迫する彼に落ち着きを取り戻してもらわなければ、話を始めることすらできない。 「そうだよ、確かにこの世界はあと六日で滅ぶ……でもイリアが死ぬかどうかは……」 「知ってる。僕が生きるか死ぬか、それは僕自身が決めることだ。ノエルと一緒にね」  彼の豹変ぶりに、視界が揺らいだ。 弱々しく怯えていた彼の瞳に、ほんの数秒で生気のないままの鋭さが宿った。猫背のまま、細すぎる身体の彼が僕の手を離さない。 その姿が狂気じみていて、目を離すことができない。 「どういう意味……?」 「僕はノエルがここに来た理由を知ってる、だから難しい説明は要らないよって教えてあげたの」 「そっか……」 「何をそんなに引き攣った顔をしてるの?」 「いや、急にイリアの態度が変わったからさ」 「僕が怖い?」 「そういうわけじゃ……」 「自己紹介をしてあげただけだよ。ゆっくり僕を知っていく時間なんてないだろうから効率よく僕を知ってほしくて」  よくわからなかった、ただ困惑が生まれただけの数分間に彼は何の意味を見出しているのだろう。 「大丈夫、僕は怖い人じゃないから。ノエルと会えること、すごく楽しみにしてたから気持ちが昂っちゃってね」 「そう思ってくれていたならよかった」  先程までの狂気を一切感じさせない、温和な微笑みを浮かべる。 心なしか柔らかく感じる掌の感触に安心してしまう。 今から僕達が行うのは、生死の選択だというのに。 「行こうか、場所は僕が案内するよ」 「どこへ行くの、それだけ先に聴いておきたいな」 「きっとノエルも知ってるはずだよ、嫌なくらい聞き飽きた……そんな場所」  そう言うと彼は部屋へ戻ってしまった、戸棚を引くような音がした後に再び扉が開く。 舞い込む風と景色に理解が追いつかない。 「さぁノエル、入って」 「えっ……わかった、でもどうして」 「あのロープがみえない?」 「いや、だからそのロープの意味を訊いてるんだけど……」 「ここから降りるんだよ、外に出るためにね」 「イリア、ここが何階か知ってて言ってるの?」 「七階、でも命を丁寧に扱う必要なんて僕達にはないでしょう?」 「それはイリア次第だけど……」 「僕は命より感情が欲しい」 「え……?」 「命が要らないってことじゃないよ、でも今は味わえなかった感動を味わいたいんだよ。結果が幸福でも不幸でもいい、それでも僕は感情が欲しくてたまらない」 「……」 「大丈夫、ノエルも僕も絶対安全に下へ降りられるようになってるからさ」  返事を待たず、彼は僕の手を引いて駆ける。 窓際で立ち止まった僕の目をみつめたまま、ロープを僕の左手へ握らせた。 「ほら、もう片方の手も掴んでよ。僕はノエルが拒んだとしてもここからノエルを落とす、生きるためにちょっとロープを握るだけだからさ」 「落とすって……どうやって落とすつもり……?」 「そんなの決まってるでしょ、ノエルの背中を押すだけだよ。ポンって押せば、ノエルなんてすぐに落ちちゃうんだからさ」  悪びれもせずに言葉を吐く彼は、どこか倫理観が僕とはズレているのかもしれない。 僕は何を間違ったとしても初対面の相手を窓から落とそうという思考には至らない。 「……掴んだけど、ここからどうすればいいの?」 「足をいい感じに絡めてさ、そのまま自然に落ちていけば大丈夫!手さえ離さなければ頭から落ちる心配もないからさ」 「自然に……」 「怖かったら僕が先に行こうか?」 「いや、それはいい。もう一回掴み直す方が億劫だし」  仕方のないことだと言い聞かせる。 目を瞑って身を丸め、言われるがまま自然に落ちる。 「ノエル、初めて落ちた感覚はどう?」 「えっ今、僕が降りてきたばっかりじゃ……イリア、もしかして慣れっ子……?」 「ずっと想像してたからね、イメージトレーニングの効果って本当にあるんだね」 「……呑気な奴だな」 「で、ノエルの感想は?」 「感想……でも思ったより気持ちよかったかも、風が肌に当たる感覚とか」 「命とどっちが大事?」 「そんなこと簡単に天秤にかけるなよ」  破天荒な言動に霞んでしまいそうになるけれど、彼の容姿は美しい。 美しいなんて単語で片付けられないほど、造り物のような整い方をしている。 「それじゃあ行こうか、僕が行かなければいけない場所に」  逞しく光る瞳に誘われ、僕はすこしだけ見慣れた街へ出る。 昨日より人が少ないような気がする、それでも何故か騒がしくて重苦しい雰囲気がそこにはあった。 「イリアは道に迷ったりしないの?」 「どうして?」 「いや、初めて屋敷の外に出るはずなのに何の戸惑いもないからさ」 「僕が育った環境のせいかもね」 「環境……」 「ノエルの部屋には、何があった?」 「僕の部屋には、無数の楽器と五線譜……それくらいかな」 「随分偏ってるね、退屈しない?」 「退屈は……しないかな、ずっとあの空間にいたから嫌でも慣れちゃってね」 「ノエルは素直だね、良くも悪くも」 「素直なんかじゃないよ……」 「そう?」 「そうだよ、素直なんかじゃない。イリアは、イリアの部屋には何があったの?」 「僕の部屋は……この世界の地図と系図、読めない文字で書かれた文書とかがあるかな」 「地図……?」 「賢くなるための道具かもね、僕を賢い道具にするための」 「どういう意味?」 「深読みはしなくていいよ、そのままの意味だからさ」  アイラの部屋は数え切れない本で溢れていた、そんな彼女は自身の世界を逃げるように創った。 そして目の前のイリアは、溢れるほどの知識の中で時間を過ごした。 彼のことを僕はまだ詳しく知らないけれど、賢く鋭利な思考の持ち主だということはなんとなく察している。 二人の共通点をあえて言葉にするのなら、きっとそれは生きてきた環境が十分過ぎるほど影響しているというところ。 「ノエルはないの?最期を決めるために行きたい場所」 「僕は生きることを強いられているからね、行く必要なんてないよ」 「そういうことか……わからなかったことが重なったよ、ありがとう」  僕自身の顔を僕はまだみたことがないけれど、彼より劣っていることは確かめなくてもわかる。 全体的にバランスのいい頭身、きっと誰がみても見惚れてしまう顔立ち、色素の薄い瞳と髪、その美しさは彼の意識を超えて生み出されているものだと思う。 確かに、アイラも整った顔立ちをしている。ただ、それとはどこか違う。 イリアの容姿は人間の美しさを超えた、造形物のような、全て精密な計算のもとに出来上がったようなそんな整い方をしている。 「さっきから僕の顔を凝視して、何か気になることでもあった?」 「いや、別に……イリアってさ自分の顔みたことある?」 「毎朝顔を洗うときに鏡が目の前にあるから嫌でもみるよ、ノエルはそうじゃないの?」 「僕の部屋に鏡なんてなかったから……僕は僕の顔、まだみたことないんだよね」 「そんな人もいるんだ……別に自分の顔がわかったところで得することなんてないけどね」 「そうなの……?」 「そうだよ、特に何も思わないし」 「ねぇ、イリア」 「ん?」 「僕って……どんな顔してる?」  きっと彼なら、真実を教えてくれるような気がする。 鏡なんて道具よりも正確に、僕の顔を教えてくれるような気がする。 「ノエルの顔は……ちょっと僕に似てるかも」 「えっ……イリアに?」 「何、嫌だった?」 「違うよ、イリアの顔……すごく綺麗だから」 「そうかな、僕は自分の顔にそんなこと思わないけど。ノエルをみた時に、似てるかもって直感で思った」 「そっか、なんか嬉しいかも。ありがと」 「よくわかんないけど、ノエルが嬉しいなら僕はそれでいいや」  僕の言葉に、可笑そうに笑う彼に鋭さはなかった。 それと同時に僕は息絶えるまで鏡をみないことを、僕自身に誓った。 彼が教えてくれたことをそのまま信じたかった。つまりは、僕の顔は綺麗かもしれないという可能性に浸っていたいという僕の欲だ。 動機に恥ずかしさはあるけれど、こんなにもくだらない誓いをしたことは生涯忘れないと思う。 「ノエル、さっきより人が多いと思わない?」 「言われてみれば確かに……」 「僕の目的地ももうすこしだよ、ほら目の前にみえるあの建物」  僕の目の前にはガラスで造られた美しい外観の建造物。 透けてみえる内側には無数の人、音は聞こえてこないけれど雰囲気は気味が悪いほど騒がしい。 「イリア、あれ何?」 「教会だよ、知らない?」 「教会……」 「この世界ではスピカ様とアルト様に祈りを捧げる場所だよ」 「祈りか……イリアはどうしてここを知ってたの?」 「それは、小さい頃から何度もみてきたから」 「小さい頃から?」 「なんでもない、いいから裏口から入るよ。ノエルは場所わかんないだろうから僕に着いてきて」  イリアの広がった裾が走った衝動によって捲れる。 その隙間からみえる足首は、僕の小さな手で握れてしまいそうなほどに細い。 「ノエル、ここから真っ直ぐ進んで灯りがみえる方に曲がって」 「ここから……?」 「そう、人目につかないで中に入る通路はここしかないからさ」  慣れた口振りで、僕に指示を出す。 僕が身体を丸めてやっと入れるような通路を、果たして初めて訪れた人間がみつけ、器用に扱うことができるだろうか。 そんな疑いを抱きながら、僕は曲がる目印となる灯りを探す。 「……ノエル、そこ。左側にある穴から灯りがみえるでしょ」 「えっ、左……」 「あんまり大きい声出さないで、静かに」  動かしづらい頭の代わりに視線だけ左へ移す。 確かに灯りがみえた、それと同時に微かな人の話し声と足音が僕の鼓膜を刺激する。 「そしたら灯りの右をみて」 「右……」 「通気口、内側に鍵が掛かってるから外して」 「鍵を……?」 「落ち着いてやれば外れるから、できるだけ音を立てないように、慎重に外して僕に渡して」  言われるがまま、掛かっている四箇所の鍵を彼へ手渡す。 想像以上に簡単に外れた通気口の先には、暖かい光と鍵盤の音が調和した空間が拡がっていた。 どこからか溢れている神秘的な光が『教会』というものがどのような場所か、無知な僕へ教えてくれているような気がする。 「ノエル、怪我はない?」 「僕は大丈夫、イリアは?」 「僕も大丈夫。人のいない通路を通って、そこから先は人混みに紛れよう」 「みつかっちゃいけないの?」 「みつからない方が、面倒な目に遭わなくて済むんだよ」  気づかずにいたけれど、彼は靴を履いていない。 長過ぎる裾に隠れた白すぎる肌色がみえる、床に張り付くような足音が人々の話し声に馴染んでいく。 それほど彼は、人の目につきたくないらしい。 『なんだ君達、みない顔だな』  僕の背後からそんな声がした。 僕が聴いたことのない、低く鈍い声。 「えっ……」 「最近は悪戯で教会へ来る餓鬼が多いんだよ、君達も不純な目的ならここへは立ち寄らないでもらえるかい?」 「それは……」  言葉に詰まる僕の横で、顔色一つ変えずに彼は男の目をみている。 その表情はどこか蔑んでいるようで、冷めているようで。 「黙ってないで何か言ったらどうだ、君達はどこの誰なんだ」 「僕達は……」 『ノエル』  声ではない、彼は視線で僕の名を呼んだ。 僕の発する言葉を遮るように、鋭く数秒僕を睨んだ目は男へ向けられた。 「僕達はこの教会の清掃員です」 「清掃員?」 「おっしゃる通り、最近は安全管理不足が要因となる事案が多くみられましたので。治安維持のためにも、不定期に警備と清掃を行っている者です」 「それは失礼なことを……申し訳なかった」  弱々しい謝罪を残し、男は恥ずかしさからか足早に去っていく。 淡々と嘘を並べた彼の表情は、全くと言っていいほど動かない。 「どうして嘘を……?」 「どうしてって、逆にノエルは何て言うつもりだったの?」 「正直に僕達のことを話せばよかったのに」 「そんなことをしたら僕達の身の安全が危ないよ」 「え……?」 「ここにはスピカ様とアルト様を盲目的に信じてる人しかいないんだよ」 「だから、僕達はスピカ様とアルト様の遺伝子を継ぐ者だって伝えれば危害が加えられることは……」 「全員が、言葉が通じる人じゃないんだよ」 「どういう意味?」 「ここを訪れる人間は疑うことを知らない、生まれた瞬間から『スピカ』と『アルト』というみたこともない存在を信じて、崇めてるんだよ」 「それの何がいけないの?」 「裏を返せば、その二つの存在以外は信じない。たとえ正しかったとしても受け付けないってことなんだよ」 「それは……」 「わかったでしょ、僕が嘘をつく前の態度と清掃員を名乗った後の態度。ここへ集まる人は、自分自身が感じて、信じたもの以外を徹底的に排除していくような人達なんだよ」 「それは、僕達も同じじゃない?」 「……え?」 「自分自身が信じたこと以外を信じるって、きっと簡単なことじゃないよ」 「それは、そうだけど……」 「それなら嘘をつく必要なんて……」 「ノエル」 「何?」 「世界の創始者になるなら、もっと卑怯になってよ」 「どうしてそれを……どうして、僕が創始者になることを知ってるの?」 「そうやって疑って、もっと捻くれた見方をしてよ。そんなに嘘一つすら吐けない素直なままじゃ、世界を創るなんて我儘なこと、できるわけがない」 「我儘……」 「都合よく、人間を駒のように扱って、パーツを組み替えるように一つの空間を創るなんてこと……真っ直ぐな人間にできるわけがない」  数分前まで彼が纏っていた余裕を、今は感じない。 何かに刃物を突きつけられているように切羽詰まった、言葉を発さなければ息が止まってしまうような、そんな様子で彼は僕への主張を止めない。 「ノエルも思うでしょ……?」 「何を?」 「スピカ様とアルト様は傲慢で、我儘な存在だって」 「そんなこと、僕は一度も思ったことないけど……」  彼は僕に問いかけながら、僕からのたった一つの言葉を欲しがっているのだと思う。 『僕もそう思ったことがある』という共感の一言を、独りだった彼はたった一人の僕に求めているのだと思う。 ただ、今僕がその言葉を口にしてしまえば、それは共感ではなく同調になってしまう。 その行為は彼の言葉を無碍にしてしまいそうで、僕は彼への正解を知っていながら口を噤んだ。 「イリアがそう思っても僕は否定はしない、でも共感もできないよ」 「それは、建前?」 「違う、これが僕の紛れもない本心だから」 「ノエルは救いようがないくらい、優しい人だね」  そう吐き捨て、彼は床へ寝そべる。 腕を広げ、空間全てを吸い込むように息をする。 真っ白な床と彼の身体が、恐ろしいほどに同化している。このまま消えてしまいそうな彼を、僕はただみつめることしかできなかった。 「僕は死ぬ気がない、死ぬには未練があり過ぎる」 「イリアにとって未練になりそうなものって何?」 「全部かもしれない。普通に笑うこと、生み出されたままの空気を吸うこと、味のある何かを食べること、誰かと言葉を交わすこと……言い始めたらキリがないね」 「普通か……」  僕にとって、あの狭い空間での生活は普通だった。 疑うこともなく『きっとそういうものなのだ』と、いつの間にか現状を受け入れていた。 今更、言葉にされて気が付く。 僕は普段、あの部屋で笑うことはない。泣くことも、何かを睨むこともない。空気は温度を調整された人工的なもので、食べるものは粒状の味のしないもの。 この世界で限られた八人が辿ってきたであろう普通は、数千万といる国民にとっての異常。 そんなことにすら気づかないまま、僕は十七年間、閉鎖的な普通の中にいたことに気付かされる。 「イリア、この傷……どうしたの?」  袖からはみ出ている傷に、目がいく。 自然についたものとは考えづらいソレに、僕は自然と手が伸びてしまった。 「怪我くらいするでしょ……ノエル、急に僕の腕なんて掴んでどうしたの」 「嫌だったらごめんね、でも僕は初めて我儘になろうと思う」  根拠もなく、その傷から嫌な予感がした。 躊躇ってしまう本心を抑えながら、知らなければいけないという義務感に従う。 彼の細い左腕を掴み、袖を捲る。 「イリア、これ……」 「だから言ったでしょ、怪我くらい自然にするって」 「違う。あんな狭い部屋にいて、こんなに深い怪我を何箇所も負うわけがないよ」 「それはノエルの想像だよ……」 「僕はこんな深くて故意的な傷としか考えられないような傷を自然にできたものだなんて言い張ることが、イリアの嘘だと思う」 「どうして……」 「イリア」 「……何?」 「反対の腕、みてもいい?」 「いいけど……綺麗だよ、こっちは怪我してないから」  彼の言う通り、右腕には全く傷がついていない。 細く、白い。そこに生きていることを証明するように血管の影が透けてみえる。 「イリア、僕の質問に答えて」 「質問……別にいいけど」 「イリアの利き手ってどっち?」 「利き手、右だけど……それがどうかしたの?」  彼の傷が自ら故意的につけられたものだという僕の想像が確信に変わった。 「イリア……教えてよ」 「教えることなんて何もないよ」 「どうして、イリアは左腕に傷をつけるの」 「僕は……ごめん、やっぱり言葉にできないや」 「言葉にならなくてもいいからさ、これから先も生きるイリアには素直さを覚えていてほしいから」 「……」  何一つ言葉を零さないまま、彼は自ら左腕の袖を捲る。 俯いていた視線を僕へ向ける。 僕より大きいはずの彼が、小さく弱々しくみえてしまう。 「僕の傷をみた時……汚いって、醜いって思ったでしょ?」 「思ってない、嘘じゃないよ」 「そう思ってくれるのはノエルの優しさだね、僕は心の底から醜いと思っちゃうから」 「……」 「でもそんな醜い僕でもね、神の遺伝子を継ぐ者なんだ。ノエルと同じ、抗えない血が流れてる」 「そうだね」 「僕の体内から少しでもいい、血が体外へ流れていけば、僕はその血と縁を切れるような気がしたんだ」 「それが、イリア自身に傷をつけた理由……?」 「そうだよ、こんな傷で全てを無かったことにできるわけがないのに……馬鹿馬鹿しいでしょ」 「そんなことない」 「ノエルがこの話をどう受け取ってもいいけどさ、僕はずっと、遺伝子を継いでしまった事実を恨んで生きてきたんだよ」 「イリアの話、ゆっくりでいいから聴かせてよ」 「僕の部屋の壁一面にモニターがあったんだ、この世界を十六箇所に切り抜いたモニター」 「モニターか……」 「表情も声も動き方も、そこには残酷なほど鮮明に映されるんだ。誰と言葉を交わすことも、表情を変えることもない僕の部屋に知らない誰かの日常が永遠と映し出される」 「……それを、イリアはずっとみてきたの?」 「それが僕に与えられた使命だった。無数の地図と世界を重ねて、屋敷の外で息をする人間の生活を知ることだけが、僕が生きている理由」 「それは何の目的があるの……?」 「わからない、けど……目的すら考える隙もないほど、僕は何かに追われていたんだと思う」 「……そっか」 「使用人がね、時々褒めてくれるんだ」 「え?」 「表情はみえないよ、布で覆ってるから。でも声でわかる、僕が屋敷の外の生活についての話をすると『イリアは賢いね』って褒めてくれるの」 「……」 「最初は嬉しかったよ。でもその言葉を聴くと僕が『賢い』と思われなくなったら、僕自身の存在自体が否定されてしまうような……認められないような気がして怖かったんだ」  『僕を賢くするための道具』という言葉の意味が、不確かにでもわかった気がする。 「僕は、賢くなんてなりたくなかった。なれていたのかすら、わからないけど」 「イリアはきっと賢いよ、僕はそこまで考えられないから」 「その『賢い』は僕への皮肉?」 「違うよ。もし本当に賢く在ることがイリアの存在価値だったとしたら、僕はそれを否定したくないから」 「僕は賢くなんてない……きっと愚かで、醜い」 「賢くなくてもいい、愚かでも、醜かったとしても、イリアがイリアとして生きられれば……それだけで『イリア』という存在に理由がつくよ」 「本当にそうなのかな……」 「僕は、そう思うよ。イリアは、どうしてそこまでイリア自身を卑下するの?」 「だって……僕が生きてきた時間の中で褒められたところは、容姿と賢さしかなかったから……羨まれちゃうのかもしれないけど、僕は僕自身をちゃんとみてほしかった」 「イリア自身を、か……」 「容姿と賢さを軽視してるわけじゃないよ。でも僕は何かが掛け違えていたら無くなってしまうようなものより、そこに在るままの僕をみていてほしかった……我儘だよね、ごめん」 「ねぇ、イリア」 「……何?」 「イリアは、どんな風に生きたいの?」 「どんな風に……」 「死ぬ気がないのなら、これからもきっと永く続いていく命を、イリアはどう生きてみたい?」 「僕は……」  涙の流し方すら知らないほど賢く育てられた彼は、ただ息を途切れさせながら僕の問いへの答えを探している。 「僕は……人間として生きたい」 「人間として……?」 「僕がモニター越しにみてきた普通を辿る人間になりたい。悲しい事があってもいい、だから常に隣に誰かがいてくれるような……僕自身に何もなくても『生きていい』って、僕自身が認められるように生きたい」 「イリア……」 「ノエル」 「何?」 「ノエルは新しい世界を創るんでしょ……?」 「そうだね、僕は新しい世界を創らないといけない」 「僕がここで生きることを選んだら、僕はその世界で生きられる?」 「そうだね。この世界は終わってしまうから生きることを選んだら、僕が創る世界で生きることになる」 「ノエルは……」 「え?」 「ノエルは、新しい世界で僕を人間として生かしてくれる?」 「……どういう意味?」 「零から、僕が誰の遺伝子を継いでいたとしても『イリア』を『イリア』として、生きさせてくれる?」 「それは……僕の力では、約束することができないんだ……」 「どうして、だって世界の基準は……絶対的存在はノエルになるんでしょ」 「そうだよ……でも無責任にここで約束をして果たせないなんて悲しいことを僕は、したくない」 「……じゃあ、僕と終わりを選んでよ」 「え……?」 「僕はノエルに出逢ってしまったから『生きてみたい』って思ちゃったの、だから一緒に終わりを選ぼうよ」 「僕に出逢ってしまったから……?」 「扉を開けてノエルにあった瞬間、僕の頭には死の選択肢しかなかった。だからここへ来たんだよ」 「教会とイリアが死を選ぶことに何の関係があるの?」 「この国の掟、全ての生命を重んじること。それに反することはスピカ様とアルト様への冒涜になるでしょ」 「……それがどうしたの?」 「僕なりのアンチテーゼだよ、僕の生命を蝕んだ存在への小さすぎる復讐。それが、僕が今日ここへ来た理由」  彼の考えていることの動線が僕の中で繋がった気がする。 十数年間の彼の人生は、今日という日のために続いてきたのかもしれない。 抗うことのできない存在への、命を懸けた復讐と皮肉の拡散。 彼が死ねずにいた理由も、生き続けてきた理由も、その全てが今日だった。 「イリア」 「何、ノエル」 「ふたりで終わりを選んだ先に何があるの……?」 「そんなことは僕にもわからないけどさ、きっと誰かが創った新しい世界に人間として生まれ直せるよ」  冗談だと思いたかった。 扉を開けた瞬間と同じように、僕を弄んでいるだけだと思いたかった。 そんなことを疑う隙すら、今の僕には与えられていない。ただ、彼の強引な提案に同意する言葉を欲している目が曲がることなく僕をみる。 「ノエルに創始者なんて似合わないよ」 「え……」 「救いようがないほど素直で優しくて、疑うことを知らない。そんな綺麗な人間が、世界の創始者になんてなれるわけがない……なったとしたらその時は、ノエルがノエルじゃなくなるよ」 「そんなこと言われても……」 「僕に言われなくてもノエル自身が、きっと一番よくわかってるでしょ」  彼の言葉には一切の容赦がない。 頷くこと以外の選択肢を奪い去られた、僕はこんな時に限って素直になれない。 「わかった、イリア。僕と一緒に終わろうか」 「本当に……?」 「……本当に。きっと生まれ直せることを信じながらね」  屋敷の庭を、彼は安堵した表情で歩く。 過去の全ての孤独が埋められたような表情で、僕と手を結びながら。 「この階段を降ればいいの?」 「そう、イリアがこの選択に本当に後悔がなければの話だけどね」 「僕の中では決まりきってることだから、この選択が揺らぐことはないよ」 「ねぇイリア」 「ん?」 「もしこの階段の先で、僕だけが終わりを迎えられなかったらどうする?」 「どうして今更そんなこと訊くの?」 「例えばの話、僕が新しい世界の創始者だってことがバレたら終わりを迎えたい希望を拒まれるかもしれない……」 「大丈夫だよ。もし僕だけが先に終わったとしたら、絶対ノエルのこと待ってるから」 「イリアは、寂しくないの?」 「ノエルは絶対来てくれるから、だから僕は大丈夫。ここで終わらせることが僕の本望だよ、そして僕は僕自身を生き直すんだ」 「そっか……急に変なこと訊いちゃってごめんね、それじゃあ降りようか」  彼の手は、冷たく、それでもどこか暖かかった。 僕達は今、吸い込まれるように終わりへ向かっている。 一つ足を進めるごとに、心臓が五月蝿く鳴る。 隣には奇妙に微笑む彼の顔、上手に目を合わせられない僕。 「イリア」 「何?」 「ごめんね、ありがとう」  結んでいた手を解き、彼の背中を押す。 ゆっくりと落ちていく彼の手を慌てて掴もうとする手は、自然と僕自身が止めていた。 人工知能によって選別される生命を悔やんでいた僕は、消化しきれない感情で人を殺めた。 『ごめんね』という免罪符を掛けながら、卑怯に頬を濡らして、僕はその場を去った。        
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