四章

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四章

 彼の背の感触と温度、迫るように打たれる鼓動の感覚が僕の手に生々しく遺っている。 昨晩は、窓の外をみることができなかった。 独り寂しく昇っていく煙をみてしまうと、僕はきっと後悔に溺れてしまうから。 そんな卑怯な理由で、僕は目を閉じた。 「ごめんね、イリア」  そう呟く僕をみて『謝るなんて卑怯だね』と、彼は言ってくれるだろうか。 あと五日、そして五人。 僕と世界を隔てていたはずの扉は、僕と誰かを繋げてしまう扉となってしまった。 呼吸を整える、どれだけ吸っても肺を埋めることができない。 『……こんにちは、どなたかいらっしゃいますか』  立ち尽くす僕の前の扉の奥から、微かに、それでも確かに声が聞こえる。 アイラとは違う、少し大人びた女性に近い声。 「初めまして……ノエルです、貴女は……」 「申し遅れました、私はランせと申します」 「どうして僕の部屋に……?」 「噂を耳にしまして……ノエルさんも、毎朝誰かの扉を緊張しながら開けることは億劫かなと思って」 「ランセさん……でしたよね、お心遣いありがとうございます」 「いえいえ、時間も限られていますしできるだけゆっくり時間を過ごしたいなと思ってしまったので」  アイラ、イリアと初めて顔を合わせた時には感じることのなかった穏やかな雰囲気が漂っている。 ウェーブのかかったミルクティーベージュの髪に、すこし垂れた目、棘のない言葉に添えられる表情に、警戒心が解かれる。 「僕の支度がまだ終わっていないのでランセさんが嫌じゃなければ……すこしの間、僕の部屋でお話しませんか?」 「支度中に押しかけてしまってすみませんでした……お言葉に甘えてお邪魔しますね」  律儀な正座を崩さぬまま、彼女は僕の部屋を見渡した。 きっとこの屋敷に住む八人の部屋には何か偏った特徴があるのだろう。 「すごいですね……ノエルさんのお部屋、すごく豪華……」 「確かに溢れるほど楽器があるよね、あと呼び方『ノエル』でいいよ。なんとなく呼び捨ての方が話しやすいような気がするから」 「それなら私も『ランセ』って呼んでほしいな」  受け答え、距離の詰め方、所作の端々から飾らない温和さが滲み出ている。 「ねぇノエル」 「どうしたの?」 「私ね、最後の選択、もう決まってるんだ」 「え……」 「生き続けるか、世界と共に終わりを選ぶか。私の中で、この決断に揺らぎはないと思うの」 「ランセの意思はどっちに傾いてるの……?」  彼女は小さな鞄から何かを取り出す。 古びてすこし茶色くなった紙、見覚えのある形に彼女の答えを察してしまった。 「夜想曲の楽譜、最初に返しておくね。これで私の答え、伝わったかな」  相手の選択を拒むことは許されていない。 僕は数分前に出逢った人間の生死を間接的に、拒否権もなく、受け入れるしかないのだ。 「私、きっと今日が最期だから……どうしても連れて行ってほしいところがあるんだ」 「……連れて行ってほしいところ?」 「そう、ノエルはあんまり興味がない場所かもしれないけど一緒に行ってくれたら嬉しいなって思う」 「もちろんだよ、それが僕の役目だからね」 「ありがとう、これで悔いなく私自身の決断を受け入れられそうだよ」  哀しい言葉を吐く彼女の表情は明るい、微笑みを絶やさない。 不思議とその表情に違和感はなく、彼女自身の心がそのまま映し出されているような、彼女はそんな顔をしている。 「そろそろ行こうか、場所はランセに案内を任せてもいいかな」 「ちょっと迷っちゃうかもしれないけど、私に任せて」 「ランセは道に迷うことあるの……?」 「わからないけどね、部屋の外に出ること自体が初めてだから迷っちゃうと思う」  僕が想像していた人間像に彼女が重なる。 「ちなみにどこに行こうとしてるか教えてもらってもいいかな」 「孤児院だよ、あの山を登ったすこし先にある孤児院」 「孤児院……?」 「簡単に言うなら……身寄りのない子供を保護する施設のこと。子供は独りじゃ生活するのが難しいからね、集団で生活する場所なんだよ」 「そっか……どうしてランセは最期にそこを選んだの?」 「きっと着いたらわかるよ」  孤児院という場所を僕はまだ想像で語ることしかできないけれど、最期と決めているのならもうすこし煌びやかな場所を望むものではないかと思ってしまった。 「ノエル、ごめんね」 「何が?」 「最後には死ぬってわかりきってるのに、ノエルの時間を割かせてしまっているから」 「いいんだよ、最期くらいランセの思い描くままに生きようよ」 「ありがとう、ノエル」  申し訳なさそうに、彼女はすこし頭を下げた。そうしてすこしだけ笑う。 彼女は最期、あの階段を降る瞬間、どの言葉を遺し、どんな顔をしているのだろう。 「ノエル、着いたよ」 「……ここがランセが最期に来たかった場所?」 「そう、ここ以外は私の記憶に要らないから」  酷く廃れた古屋に、狭い花壇に植えられた花。連なって干されている洗濯物と、袋で縛りまとめられた生活廃棄物。 どこを切り取っても『綺麗』とは感じ難い。 「とりあえず施設の中に入る?」 「ノエル待って、ここは施設じゃなくて子どもたちの二つ目の家って思ってほしいんだ」 「二つ目の家……?」 「そうだよ、ここに住む一人一人に生活と人生があるからね」   「そうなんだ……失礼なことを行っちゃったよね、ごめん」 「謝らなくて大丈夫だよ、そこの柱にベルがあるから軽く鳴らしてくれるかな」  促されるままベルを握り、左右に軽く揺らす。 木製の扉が開く。賑やかな雰囲気と温かい風が、僕と彼女を包む。 「あら、お客さんが来るなんて珍しいわね」 「突然すみません……初めまして」 「初めまして、お兄さんの名前はなんて言うの?それと……奥のお姉さんも」 「僕は……」 「ランセです、こちらは私のお友達のノエルです」 「ランセちゃん……!ちょっと待ってね、ロス先生に伝えてくるから」 「ありがとうございます、私達はここで待っていれば大丈夫ですか?」 「ランセちゃんとノエル君が嫌じゃなければ室内へ入ってもらって大丈夫よ、どうする?」 「お言葉に甘えてお邪魔させていただきたいです、ノエル君は大丈夫?」 「僕もお邪魔させていただきたいな」 「それならふたりとも、私についていらっしゃい」  エプロン姿の女性に招かれ、暖炉のある広間へ連れられた。 扉の奥の部屋からは、子供達が騒がしく笑う声が聞こえてくる。 「ランセ……本当にランセなのよね……?」 「ロス先生、正真正銘、私はランセですよ」  そう言い、深く頭を下げる彼女に倣って頭を下げる。 『頭なんて下げないで、しっかりお顔をみせて』と柔らかい言葉が響く。  「ランセは何歳になったの?」 「十五歳になりましたよ、すこしは大人になれてますか……?」 「随分綺麗に、大人になっているわ。隣のお兄さんは、お友達?」 「私にとって初めてのお友達ですよ、すごく優しい人なんです」 「そうなのね、素敵な人に出逢ったのね。初めまして、この孤児院の管理人を務めている『ロス』と申します」 「初めまして、ノエルです」 「礼儀正しいのは素敵だけど、あまり緊張しなくて大丈夫よ」 「初めましてなのに優しくしていただいて……ありがとうございます」 「ふたりとも、今日はどうしてここへ来たの?」 「実は……私、もうすこししたら遠くへいってしまうんですよね」 「あら、お引越し?」 「そんなところですかね、だから最後にお話がしたいなと思って」 「寂しくなるわね……またいつでも顔をみせに来てくれたら嬉しいわ」  ロスと名乗る女性と、彼女の関係性に追いつけないまま話が進んでいく。 部屋の外に出たことがない彼女に、屋敷の外の知人がいるという結びつかない事実が僕の前で繰り広げられている。 「ロスさんはお変わりないですか」 「良くも悪くも当時のままよ、それでも子供達の笑う顔をたくさんみれるようになった気がする」 「それはよかった……みんな、ちゃんと大きくなれますかね」 「なれるわ。それに、今ここでランセが証明してくれてるでしょ」  そんな僕の疑いが小さく思えてしまうほどの愛が、僕の前に広がっている。 きっと僕の知らない彼女を、この女性は知っているのだろう。そして暖炉の炎よりも温かい何かが、ふたりを繋いでいたのだろう。 「ロスさん」 「どうしたの?」 「私とノエルも今日の昼食を一緒にいただいてもいいですか」 「ええ、もちろんよ」 「ありがとうございます、じゃあ手を洗ってきますね」  彼女に導かれるまま、無数の蛇口と白衣が並ぶ部屋へ足を踏み入れる。 殺風景な空間に、彼女の白い息が放たれる。 「ノエル、お昼勝手に決めちゃってごめんね」 「大丈夫だよ。誰かと食事をするなんて初めてだから緊張もするけど、楽しみな気持ちが大きいからさ」 「そう思ってくれているならよかった」  口元を布でおおい、深く帽子を被る。 足首あたりまで丈のある白衣に袖を通し、ビニール製の手袋を着ける。 僕も真似をして、同じ姿になる。 「ねぇランセ」 「ん?」 「こんな服を着て……これから何をするの?」 「これからみんなでご飯を作るの」 「みんなで?」 「そうだよ、ここで暮らす子達と先生達全員でご飯を作るんだ」 「そうなんだ……初めてだよ」 「これはね、ここで暮らす中での唯一のルールなの」 「ルール?」 「一緒にご飯を作って、それを一緒に食べること」 「それがルールなの?」 「そうだよ、ノエルからしたら違和感があることかもしれないけどね」 「どうしてそんなルールがあるの?」 「ここで暮らす前は、みんな独りだったから」 「……え?」 「来る前にも話したように、ここには身寄りのない子供達が暮らしてる場所なの」 「……うん」 「だから、ここへ来てからは『独り』を感じさせないために、食事は絶対にみんなで過ごす時間って決められてるんだ」 「ここは二つ目の家だもんね」 「覚えてくれたんだ……ありがとう」  部屋からすこし出た廊下の壁には子供達が描いたであろう絵が貼られている。 花壇に咲いている花の前で、子供が笑っている絵。 楽しげに遊ぶ自分自身を描いているのか、駆けながら笑う友人を描いたものなのか、どちらにしても微笑ましいことに変わりはない。 なんとなく、彼女が最期にここを訪れることを望んだ理由がわかり始めた気がする。 「今から部屋に入るから、作り方とかわからないことは子供達に訊いてね」 「僕が突然話しかけてびっくりしないかな……」 「大丈夫だよ、ノエルの優しさは雰囲気から伝わるから大丈夫」  根拠のない自信を抱えて、扉を開ける。 十数人の子供が、僕と彼女の姿をみて手を止める。 「先生、あの人達……誰?」  ひとりの少年が指を刺し、呟く。 顔の下半分は確認できないけれど、きっと僕の想像通りの表情をしている。 物怖じにせずに彼女は進み、少年の前にしゃがんだ。 「初めまして、私はランセっていうんだ」 「ランセちゃん……?」 「そう、ランセ」 「じゃあ……その人は?」  彼女の横にしゃがみ、少年に目線を合わせる。 僕の緊張が少年に伝わってしまって、なかなか言葉を発することができない。 「ノエル」 「何?ランセ」 「ノエルが話し出さないと、この子は怖がっちゃうよ」 「そうだよね、ごめん……緊張しちゃって」 「大丈夫だから、名前だけでも伝えてみて」  彼女の囁きで引き戻された。 もう一度、少年の目をみる。疑問を宿しているけれど、少年の目に濁りのなく可愛らしい。 きっと恐怖心など、僕が抱く必要はない。 「怖がらせちゃってごめんね、僕はノエルだよ。ランセの友達なんだ」 「ランセちゃんとノエル君は友達、わかった」 「ありがとう、僕にも名前を教えてくれるかな」 「僕はナル。僕もノエル君とランセちゃんと、お友達になりたい」  そう言い、手を伸ばす少年と手袋越しに手を握った。 手を離した少年は、彼女とも手を握った。 満足そうに笑う少年の後を追い、鋭利な道具と板を受け取る。 「ナル、これは何?」 「これはナイフ、今から僕が渡す物をこの尖ったところで切って」 「こんなので物が切れるんだ……」 「ダメ!そっち側は触っちゃダメだよ!ノエル君の手が切れちゃうよ」 「そうなんだ……教えてくれてありがとね」 「気をつけてね。はい、これ切って」 「この方向に切って大丈夫?」 「机の上で直接切らないでよ!さっき渡したボードの上で切って!」 「ごめん!料理するの初めてで……」 「そうだったんだ、ごめんね僕も強く言いすぎたかも」 「ねぇナル」 「何?」 「僕に切り方とか教えてくれないかな、一緒にやろうよ」 「いいね!ノエル君と料理するの楽しそう」  まだ小さい少年は踏み台の上に立ち、器用に色鮮やかなものを刻んでいく。 均等な大きさに、形を崩すことなく、別の皿に移される。 「ランセ、これなんていうの?」 「野菜だよ。ノエル君、食べたことない?」 「そうなんだよね、どんな味がするの?」 「難しい質問だから僕は答えられない!ノエル君が食べて確かめてみてよ」  渡された野菜を刻み、白い殻に包まれた黄色の液体と混ぜ合わせる。 熱い窯の中にいれ、すこし待つと初めての匂いを感じた。 そこで初めて僕は、食欲を覚えた。 『いただきます!』  白衣を脱ぎ、全員が席につく。 覆われていた顔の半分が明かされる、その表情に心が温まる。 『みんな独りだったから』そんな理由が、彼らの笑顔を生み出しているのかもしれない。それはすこし、皮肉な話のようにも感じる。 「ノエル君、美味しい?」 「うん、すごく美味しいよ」 「そっか、それならよかった。ランセちゃんはどう?」 「暖かくて、すごく美味しいよ。やっぱりみんなで食べるっていいね」  彼女の目が、心なしか潤んでいるようにみえる。 口に運ぶ度、その瞬間を噛み締めるように彼女は笑う。 時折、話し掛ける子供達の頭を撫でながら『頑張ったね』と返すのだ。 「ねぇノエル君」 「どうしたの?」 「ノエル君は『食事』ってどういうものだと思う?」 「難しい質問だね、急にどうしたの?」 「僕がここに来て、初めてご飯を食べた時に訊かれたことなんだ。だからノエル君の答えも聴きたくて」 「僕は……生きるためのものかな、難しいからナルの答えを聴かせてほしいな」 「僕もノエル君と同じように答えたんだよ、でもね今は違う答えがみつかったんだ」 「違う答え?」 「食事は、人の温かさを知るものなんだよ。きっと」 「人の温かさ……?」 「独りで何かを食べるなんて、生きていられても虚しいような気がしたんだよね」  少年の言葉に気づかされる、今までの僕の『食事』。 定められた時間に届く粒状の味のしないものを、噛み砕くだけの時間。 何も乗っていない食器をみて、睡魔に襲われるだけの作業。 そこで感じていた違和感は、虚しさだったのかもしれない。 「そうだね、ナルの答えを僕の中の正解にしてもいいかな」 「いいよ、お揃いだね」  そう笑う少年の汚れた口を拭き、懲りずに笑う。 食器を運び、擦り、汚れを濯いだ後、隙間のある台へ乗せる。 隙間から落ちる水滴が、異常なほどに綺麗に映った。 「ノエル、みんなで食べるご飯はどうだった?」 「生きてる感覚があった、初めて……美味しいって感じた」 「それはよかった、その言葉が聴けて私も嬉しいよ」 「もう、ここを出るの?」 「そうだね。次に行きたい場所もあるから最後にロス先生に渡したいものがあるから、それを渡したら出ようかな」  彼女の表情は柔らかい。 この世界の残酷な結末を全て忘れたような笑顔に胸が締め付けられる。 「ランセもノエル君も、手伝ってくれてありがとうね」 「いえいえ、こちらこそ一緒に食べさせていただいてありがとうございました」 「私達はいつでも待ってるわ、来たくなったらまたふたりでいらっしゃいね」 「ありがとうございます、それでは私達はこの辺りで失礼しますね」 「あら、もう帰っちゃうの……?」 「はい、でも最後にこれを渡したくて」  彼女の鞄から大きな布が取り出される。 「これ……何?」 「アップリケです、厚めの布なのでみんなで使ってほしくて」 「これ、ランセが作ってくれたの?」 「所々不恰好なんですけどね……頑張ってつくりましたよ」 「そんな……嬉しすぎて使うのを躊躇ってしまうわね」  そう呟き、微笑む。 彼女と柔らかい手を堅く繋ぎ、通じ合うように頷きあっている。  「ロス先生」 「何、ランセ」 「五日後の夜、すごく冷えるんですって」 「そうなの?」 「そうみたいです、だからみんなで一緒に暖かくして眠ってくださいね」  五日後の夜。 告げられたことが本当なら、それはこの世界が終わる日。 ここで暮らす子供達が全員、新たな世界でも笑っていてほしい。そんな傲慢な我儘を心に閉じたまま、僕は手を振る。 「ノエル、付き合ってくれてありがとね」 「僕も連れてきてもらえてよかったよ、素敵な出逢いをありがとう」 「本当に優しいんだね。今からすこし歩いたところにもう一つの行きたい場所があるの、付き合ってもらってもいいかな……?」 「今日はランセの日だから、ランセの行きたい場所へならどこへでも行くよ」  すこし早足で、彼女は孤児院の奥へ向かう。 背の高い草をかき分けた先に、一つだけ、名前のようなものが刻まれた石に一輪の花が供えられていた。 「ランセ、ここは……何?」 「お墓、亡くなった人が眠っている場所だよ」 「亡くなった人が……」 「そう、ここを訪れれば逢えるような気がするんだ」 「ランセは、ここで誰に逢いたいの……?」  無神経なことを尋ねてしまったと、後悔が襲う。 躊躇いながら彼女は口を開く。 「私の、お父さんとお母さん」 「……え」 「私のお父さんとお母さんが、ここには眠ってるんだ」  彼女の言葉に理解が追いつかないまま、立ち尽くす。 彼女に返す気の利いた言葉もわからぬまま、次に伝えられる言葉を待っていた。 卑怯な僕の沈黙。 「私の話、ノエルは聴いてくれる?」 「……聴かせてほしいな」  この言葉を待っていた、彼女の流れに乗りたかった。 僕自身が、誰かの、彼女の悲しみを生んでしまうことが、最期を迎える彼女に失礼を被らせてしまうことが怖かったから。 だから僕はせめて、彼女の全てを受け入れ、抱えていこうと僕自身に誓ったのだ。 「私ね、十五歳なの」 「うん」 「でも、あの屋敷に暮らしてまだ三年しか経ってないんだ」 「どういう意味……?」 「生まれてからの十二年間は、屋敷の外の世界で生きてたんだ」  堅く誓ったはずの覚悟すら揺らぎそうになってしまうほどの衝撃が、僕に走る。 彼女の優しさと気遣いだろうか、僕の目をみずに、どこか遠くをみて言葉を並べ続ける。 「私が生まれた頃にね、屋敷に関する噂が世間に広まったんだって」 「噂?」 「そう『屋敷では苦痛な労働と精神的拘束が強いられる』っていう噂」 「何それ……」 「私にもわからない。時間が経つごとに収まったみたいだけど、当時はかなり酷い言葉と嘘が飛び交ったらしいよ」 「そうなんだ……」 「それを私の両親も知ってたの、それと同時に私が『神の遺伝子を継ぐ者』だっていう事実がわかった」 「そんなの複雑すぎるよ」 「私もそう思うよ、きっとお父さんとお母さんもそう思ったと思う」 「……」 「優しい人だったから、私に子供らしく笑って過ごしてほしかったんじゃないかな」 「それで、ランセのお父さんとお母さんはどうしたの?」 「私の検査を担当した医師とお父さんが幼い頃からの友達だったの」 「それって……」 「そう、私の検査結果を隠蔽してもらった。数値を書き換えて、それを教会へ提出したの」 「どうして教会に?」 「この世界の決まりなの、誕生した生命をスピカ様とアルト様に証明するっていう意味があるらしい」 「そうなんだ……」 「私が十一歳の頃、この世界で八番目の『神の遺伝子を継ぐ者』が誕生したことがわかった」 「今から、四年前……?」 「そうだね、時間にすると本当にすこしだけ前の話」 「そうだね」 「気づかれたんだ、報告を偽装した人間がいることがバレたの」 「え……」 「それはそうだよね、だって八人目がみつかったっていうのに七人しか集まってないんだもん」  彼女の頬が酷く引き攣っている。 俯きがちな目で、震えを抑えるように彼女自身の手を握っている。 「どうして、ランセが『神の遺伝子を継ぐ者』だってわかったの?」 「私の検査を担当した医師が、報告したの」 「そんなこと……」 「その検査を受け持てる医師は、この世界に三人しかいない。これは私の想像だけど、虚偽の報告をしたことを名乗り出なければ、医師自身の首が飛んでしまうような状況だったんだと思う」 「……」 「私は何を言うこともできず、両親と引き離されて独りになったの」 「すぐに屋敷に入れられたの?」 「屋敷に入るまでに検査があったから、すぐに入ることはできなかった」 「じゃあ……入るまでの間をどうやって生きたの?」 「ロス先生が、引き取ってくれたの」 「え……」 「独りで夜道を歩いていたら、声を掛けてくれたんだ。両親がいないことを話したら『一緒に帰ろう』って」 「それで行き着いた先が、さっきの孤児院……?」 「そういうこと」  僕の中の疑問符が、すこしずつ消し去られていく。 その度に沈む彼女の表情に複雑な感情を抱きながら、迫ることなく真実を聴く。 「私ね、引き取ってもらってる間、ずっと申し訳なく思ってたんだ」 「それはどうして?」 「あの孤児院は、スピカ様とアルト様に救いを求めているところなの」 「え……?」 「肉親からの愛情を知らずに育ったから、信じることで愛を与えてもらえるスピカ様とアルト様を『親』のように慕っている場所だった」 「……」 「でも私は、知ってるから……お母さんの優しさもお父さんの強さも、それが紛れもない愛だということも全部」 「……そうだよね」 「それに」 「それに……?」 「その愛から私を引き離したのは、スピカ様とアルト様だと思っていたから。だから私は、周りの子のように、その存在を慕うことができなかった。すごく我儘で、身勝手な理由だけどね」 「そんな過去を背負ってたんだ……」 「屋敷に入ってすぐ、あることを知らされたの」 「あること……?」 「お父さんとお母さんが処刑されたって、それだけ聴かされて私はあの部屋に入れられた」  僕の想像を優に超える残酷を、彼女は抱えていた。 その微笑みの奥で、投げ捨ててしまいたいほどの記憶を重ねている。 「仕方のないことだったんだと思う、今ならすこしだけ理解はできるんだ。納得は到底できないと思うけどね」 「理解か……」 「誰かが誰かを、理由を持って殺めてしまうことについてね」 「……」 「世界にとって必要な遺伝子を継ぐ存在を隠していたんだもん……世界に都合を合わせるのなら、背く者を消すしかなかったんだよね、きっと」 「都合を合わせるために……」 「きっと心が傷んだと思うんだ、処刑人も人間だから。自らの手で、小さな子供と親を引き裂くなんて残酷なことだもん」 「そんな……」 「全人類が幸せになるなんて不可能だからね。大半の人間の幸福を叶えるために設けられて規範に従うためには、一つの生命を犠牲にすることなんて仕方のない摂理なんだよね」  僕がイリアの背を押した瞬間の心情と重なる。 不謹慎な共感だということは、充分過ぎるほどわかっている。 「それじゃあ、このお墓は……」 「そう、最期に娘の顔をみせてあげたらすこしは恩返しできるかなって思って」  それでも彼女は優しく、まっすぐに育った。 「ねぇ、ランセ」 「何?」 「もしかして、孤児院を訪れたのも恩返しのため……?」 「そうだよ、ノエルの言う通り。最後に渡したアップリケは、私がこの三年間でつくったものなんだ」 「そうだったの?」 「私の部屋には、何一つ物が無くてね。隠し持ってきたお母さんから貰った裁縫道具と、私の衣服だけが私の持ってる物だったんだ」 「じゃあ、あれは……」 「私の全てを詰め込んだ物、どこの人間かもわからない私を無償の愛で受け入れてくれたことへの最大限のお礼かな」 「そうだったんだ……」 「ありがとう、ノエル」 「え……」 「話せてよかった、秘密を抱えて逝くなんて絶対に苦しいから」  笑った、目から滴が溢れているけれど、それでも彼女は笑っている。 彼女が生きられた理由はきっと、残酷と愛情を嫌になる程、与えられてきたからだと思う。 愛情が残酷と化し、残酷から愛を見出してきた、それは彼女自身が生きていくための宿命だったのかもしれない。 『お父さん、お母さん、私を生んでくれてありがとう』  そう言い、彼女は僕を手招く。 『この人、私に最期の優しさをくれた、大切なお友達なんだよ。お父さんとお母さんみたいに、すごく優しいの』  僕の話をして、彼女は深く頭を下げた。 そのまま振り返らずに、僕の手を引き、駆ける。 彼女は優しく、素敵な人だ。 最期の瞬間まで、誰かへの恩と温かさを返すことへ時間を費やした。 僕が世界を創ったらその時は、優しさを護れる世界にしたい。 『愛』なんて概念に縋ってしまう前に、僕はまっすぐに感じた優しさに素直な世界で在ってほしい。 「ランセ、そんなに急いでどうしたの?」 「ノエル」 「何?」 「まだ、間に合うかな……」 「え……?」 「二十二時、夜想曲を奏でる時間」 「僕の時間は気にしなくて大丈夫だよ、だからランセもゆっくりで……」 「違うよ」 「……どういうこと?」 「朝、ノエルに渡した楽譜。返してほしいって言ったら、もう遅い……?」 「ランセ、それって……」 「私もわからないよ、それに怖い。新しい世界なんて、この世界が苦しくて仕方のない私からしたら期待なんてできない」 「……」 「それでも、私は……ここで止まっちゃいけない気がするんだ」 「え……」 「生かされた私の生命、たくさん幸せを与えてもらった時間を、身勝手に終わらせることは……あまりにも無礼な気がしちゃうから」 「ランセ……」 「だからごめんね、こんな言葉しか言えないけど私は……」 「……うん」 『この世界が終わっても、生きていくよ』  彼女の言葉に返すように、楽譜を手渡す。 屋敷へ駆ける彼女の背を見送り、二十二時を待つ。  聴こえる、彼女の音が僕を包むように響く。 僕の奏でる旋律に重ねるように、一オクターブ下を奏でる彼女の音。 冷たすぎる夜風に刺されながら、耳にした酷すぎる事象に胸を抉られながら、彼女の音がその全てを埋めていく。          
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