五章

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五章

「久しぶりね、ノエル」 「お久しぶりです、ヨミ様」  二枚の楽譜を抱え、顔を伏せる。 「顔をあげて、私に緊張感を覚える必要はないのよ」 「すみません、せっかくの機会だと言うのに……」 「大丈夫、それくらい礼儀正しい方が好感よ」  ランセの奏でる音を聴いた後、僕は音のしない廊下を辿った。 僕はこの三日間で、独りを恐れるようになってしまったのかもしれない。 「こちらが、預かった楽譜です」 「これは……アイラとイリアの楽譜ね」 「一目みただけで、わかるのですか……」 「ええ、だってこの楽譜を授けたのは、この私だもの」  動揺した様子を一切感じさせぬまま、楽譜に視線を移す。 五線譜をなぞり、微笑みながらその表情にはすこしだけ寂しさが隠されているような気がした。 「それでも悲しいものね」 「え……」 「小さい頃に一度触れたことを最後に、その人との縁が切れてしまうということわ」  僕は目の前の彼女を、どこか人間とは別の生命だと隔てていたのかもしれない。 きっと彼女の表情。言葉に嘘はない。 僕と同じ温度が通っていて、揺れ動く感情がある。 そう思えればすこしだけ、僕は彼女と生身の人間として向き合うことができるのかもしれない。 「聴かせて……ほしいです」 「え?」 「アイラがどういう人間で、イリアがどんな人間だったか」 「それはノエルがよく知っているはずよ、一瞬しか触れていない私よりも遥かにね」 「その一瞬を、僕に教えていただけませんか」 「一瞬を……?」 「知りたくなってしまったんです……そして、生きることを選んだランセのことも」 「いいわ、全てが終わってしまう前に全てを貴方に伝えるわ」  招かれたレースの奥には、温かい空間が拡がっている。 暖色系の光が高貴なインテリアに反射し、それだけで萎縮していた身体が和らいでいく。 「アイラはね、本当に賢い子だったの」 「生まれた瞬間から、ですか」 「そうね……あの子は笑ったのよ。他の子は皆、初めての環境を感じ取って泣き叫ぶんだけどね、アイラだけは、空気を読んだかのように私の顔をみて笑ったの」 「え……」 「そうして屋敷への入居を境に離れてしまう御両親の涙を小さな指で拭って、手を振った。それが、私が初めてみたアイラの姿」  生まれてすぐにここを訪れたとして、彼女の知能は既に四歳に達している。 「ノエルがこの話を聴いているか、わからないけど……アイラの知能は一般的な人間の四倍の速度で発達していくの」 「……はい」 「私はその話を聴くまで、アイラの特性に勘づくことはなかったわ」 「……」 「それがどういう意味かわかる?」 「僕には……わからないです」 「ずっと演じていたのよ」 「演じていた……?」 「言葉だって発せたはず。それでも声を出さずに笑った理由は、せめてもの普通を辿るためのアイラなりの優しさだったと思うの」  生まれたばかりの彼女は、父親と母親から離れるという状況をよくわかっていなかったのかもしれない。 それでも目の前で涙を流す人間に、言葉ではない感情を注いだ。 想像するだけで息が詰まってしまう。 「アイラは、確かにすごく優しいですよね」 「ノエルもそう思うのね」 「僕と離れる最期に、アイラが僕に言ったんです『私は絶対生まれ直して、ノエルの創った新しい世界へいくから』って」 「……そうだったのね」 「きっと優しすぎたから、優しすぎたアイラには苦しかったのかもしれない……なんて勝手なことを僕は思ってしまいます」 「そうなのかもね、あながちノエルの考えは正しいのかもしれないわ」  彼女の影が脳裏を過ぎる。 あの置き手紙を置いた後。彼女がどんな表情で、あの階段を降り、吸魂室の扉を開けたのか。 そして目を瞑った瞬間、誰の顔を思い浮かべたのか。 笑っていなくてもいい。ただ、思い浮かべた人だけは、どうか彼女にとって大切な誰かであってほしいと願ってしまう。 「イリアには……申し訳ないことをしてしまったと心の底から悔やんでいるの」 「ヨミ様がですか……?」 「そうよ。彼にはあまりにも羽を伸ばして生きられる時間がなかった、ずっと彼を縛ってしまっていたからね」 「縛る……」 「物分かりのいい子だったのよ、だからイリアが拒むまで私は知識を与えようと思ったの」 「イリアが拒んだことは……あったのですか」 「無かったわ。それどころか私がイリアに対して考えていたことは全て、私のただのエゴだった」 「エゴ……」 「ノエル」 「はい」 「イリアはノエルと過ごした一日、どんな顔をしてた?」 「イリアは……数え切れないほどの表情を僕にくれましたよ」  不審そうに僕をみる目、揶揄って弄ぶように上がる口角、何の企みもない無邪気な笑顔。 表情だけじゃない。僕の名前を呼ぶ声も、息を上げて伝える必死さも、何かを強く恨み刺すような声色も。 彼は僕に、数え切れないほどの心情を注ぎ、感情を揺さぶった。 「そう……それならすこしは、後悔を払拭できたのかもね」 「どうして、ヨミ様はそう思うのですか」 「私ね、イリアが十歳の時に一度だけ会ったことがあるのよ」 「え……」 「本当にすこしの間だけどね、イリアの目にも表情にも、一切正気がなかったのよ」 「そうだったんですか……」 「イリアのことを私が話すことは、きっと失礼にあたってしまうと思う。それくらい、私はイリアに申し訳ないことをしてしまった」 「どれだけ悔やんでも、イリアの選択を変えることはできませんもんね……」  重苦しい沈黙が漂っている。 彼の声が、僕の脳に呼び戻される。 教会の通気口への通路を導く声、嘘をつく時の冷静すぎる声、詰まりながら伝えようとする人間臭い声。 その全てがきっと、紛れもない『イリア』の深層だった。 「ヨミ様」 「何、ノエル」 「ランセは生きることを選んでますよ、ふたりの生命は終わってしまったけど……生きる覚悟を持った生命もありますよ」 「ランセ……そうね、本当に彼女には頭が上がらないことばかりよ」 「そうなんですか……?」 「ノエルはランセが三年前に、ここへ来た話は聴いたかしら」 「はい、経緯と共にランセから聴きました」 「屋敷の敷地に入ってすぐの扉の前で待っていた私に、ランセは何て言ったと思う?」 「言葉まではわからないです……でも、きっと礼儀正しくて柔らかい何かを言葉にしたのかなと思います」 「ランセは『長い間、申し訳ございませんでした』って立ち止まって、深く頭を下げたのよ」 「え……」 「きっとその時のランセは、私が誰かもわかっていなかったと思うわ。それでも目の前の人間の地位すらも気にせずに、自らの非を認めて頭を下げたの」 「……」 「それが、当時大切な人と引き離された彼女にとってどれだけ苦痛を伴うことだったか……私には計り知れないけれど、胸が痛むことだけは確かよね」  彼らの全ての始まりに立ち会った彼女からの言葉は生々しく、内側を抉るものばかりだった。 彼女が妙に無感情にみえてしまう理由はきっと、感情を表に出す行為すら追いつかないほどの何かが溢れているからなのかもしれない。 アイラ、イリア、ランセ。 もし、この三人が神の遺伝子を継ぐ者ではない、平穏な人間として生きられていたら、この世界の寿命を惜しむことができただろうか。 「ノエル」 「……はい」 「感傷に浸るのはここまでよ」 「……」 「涙を拭って、まっすぐに私の目をみなさい」 「はい」 「一つ、ノエルに考えてほしいことがあるの」 「考えてほしいこと、ですか……」 「そう、ノエルが三日間で感じた『ズレ』の正体を突き詰めてほしいの」 「『ズレ』ですか」  僕が感じていた『ズレ』早すぎる時間の中で見過ごしていた違和感。 「思い当たることがみつかったかしら」 「一つだけ、正解かどうかはわからないですけど……」 「感じ方に正解なんてないわ、私に教えてくれるかしら」  僕の中の『ズレ』、それは。 「全員、この世界が終わることを知っていたんですよ。僕が話をする前から」 「私が求めていた『ズレ』をなぞるような気づきをありがとう」 「ヨミ様は、その『ズレ』の答えを知っているのですか?」 「答えを知っている者なんていないわ、でも考える過程を共にすることできる」  彼女がここまで僕に手を差し伸べる理由は、僕にはわからない。 それでも逃げてはいけない何かが、手を振り払ってはいけない理由が、きっと僕には授けられているのだと思う。 「噂……」 「どうしたの、ノエル」 「ランセの話を聴いた時『噂』の存在を知ったんです。誰が発信元かもわからない、それでも誰もが信じてしまうような不思議な力を持つ言葉の存在を」 「それならノエルは、その『噂』の中には何が埋められていると思う?」 「『噂』は『噂』じゃないんですか……」 「言葉は多面体なのよ、裏と表があれば、転がさなければみることのできない面もある」 「それなら『噂』は……」 「ノエルの答えでいいわ、きっとこの問いにも正解なんてないのだから」 「真実と嘘が、埋められていると思います」  きっと、僕は正解なんて導き出せない。 それでも僕が感じたこと、知らぬ間に伝わっていた情報には確かに『真実』が大半だった。 でもその中には必ず『嘘』が混じっている。 誰が造り上げたかすらわからない話に感情が芽生えてしまうことで生まれる、嘘。 それがきっと『噂』に埋められたもの。 「それが、ノエルの答えだと私は受け取っていいかしら」 「……はい」 「真実と嘘ね……なかなか鋭いところを突くのね」 「……」 「ノエル」 「この話の最後に大切なことを一つだけ伝えさせてほしいの」 「はい」 「それは、この世に真の嘘なんてものは存在しないのよ」 「それは……どういう意味の言葉なのですか」 「例えば、ノエル」 「……え?」 「もし、この世界で最も腕のいい医師が『神の遺伝子なんて存在しない架空のものだ』って言ったとしたら、ノエルの遺伝子への自認は嘘になるかしら」 「それは……ならないと思います、その医師が出鱈目を言っていると疑ってしまいます。きっと」 「そうね、私もきっと同じことを思ってしまうわ」 「……」 「でもその医師が数日後に大量のデータを根拠に講演会を開いたら、どうなると思う?」 「僕は外に出れないからわからないですけど……屋敷の外で暮らす人々は、その医師の言葉を信じると思います」 「ねぇ、ノエル」 「はい」 「これは、医師とノエル、どちらが真実でどちらが嘘になると思う?」 「それは……すごく、答えを出すことが難しいです」 「そうよね。だって、どちらも真実なのだから」 「え……」 「医師は根拠を持って遺伝子の存在を否定している。その根拠を信じた人の中で、その医師の言葉と提示された根拠は紛れもない真実」 「そうですね」 「でもノエルは幼い頃から背負ってきているものがある、それは一種の洗脳なのかもしれない。それでもスピカ様とアルト様の存在を信じてきたということは、否定できない真実なの」 「それなら僕は……誰を、誰の言葉を信じればいいのですか」 「ノエル」 「はい」 「私は今から、すごく都合が良くてズルい言葉を使うわ」 「……はい」 「誰を信じるかは、貴方次第なのよ」 「え……」 「ノエルが信じたソレは、誰かにとっての真実で嘘になる」 「はい……」 「だから本当に大切なことは、真実か嘘かなんて二択に収るようなことじゃないの」 「それなら、何が大切なことなのですか……」 「意思を持つことよ」 「意思……」 「状況が変わっても、対立の方向へ世間が傾いたとしても揺らがずにノエル自身の考えを持っていること。それができないのなら、初めから真実も嘘もその人は持つ資格なんてない」 「僕は、しっかり意思を持てているでしょうか」 「ノエルは信じているでしょう」 「え……」 「自分が新たな世界の創始者になる存在だと、自覚していなければ人の生死が決まる瞬間になんて立ち会えないはずよ」 「それは……」 「大丈夫だから、ノエル自身を信じることだって立派な意思でしょう」  彼女の膝に律儀に揃えられていた手が、僕の頭に触れる。 その掌は柔らかく、不要な力が抜けていく。 そんな感覚を抱いてすぐ、その手は膝へ戻った。そして鋭い瞳が僕を射る。 「ノエル」 「はい」 「明日から、貴方を取り巻く環境は大きく変わることになるわ」 「どういう意味ですか……」 「それはノエル自身の目で確かめなさい。そして何を真実とするのか、貴方が見定めなさい」 「……」 「怯える必要はないわ、私は見込みのない人間に試練を与えたりしないから」 「僕は……」 「ノエル」 「はい」 「まずはそのすぐに俯く癖を直しなさい、下をみていても真実は浮き上がってこないのだから」 「すみません」 「そして、明日からの四人の選択に恐れることなく付き合いなさい」 「はい」 「わかったら今夜はゆっくり眠って、眠れなかったら目を瞑って。そして朝を待つこと、これは私との約束よ」  僕は言葉の代わりに、首を縦に振った。 我が子をみるように微笑む彼女に礼をし、部屋へ戻る。 眠れるはずもない夜に目を瞑ることに、何の意味があるのだろう。 目を瞑って襲ってくるのは、残酷なほどに笑っている三人の姿だというのに。    
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