六章

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六章

 仕方なく瞑ってしまった目は、規則正しく、空に光が指す頃に開いてしまう。 僕はまた着慣れすぎた服に袖を通し、意味もなく空をみつめる。 この朝を迎えるまでに、二人の人間が死を選んだ。そのうちの一人は、僕の手によって死を迎えたと言っても過言ではない。 憂鬱を抱えた朝の空気は重い、できるならずっとこの部屋の中にいたい。 そんな情けない欲望を潰すように、僕はシャツのボタンを留めた。 「おはようございます、扉を開けてくださいますか」  四番目の扉を叩く、無許可に扉を開けて名乗るほどの気力はない。 ただ応答を待ち、何かの間違いでこの部屋には誰もいないという真事実が降ってこないかと祈る。 「……」  扉が開いた。 僕よりすこし大人びた彼は朝に弱いのか酷く無気力で、目には生気が無い。 僕を呆れたような目で睨んだまま、彼が言葉を発する素振りはない。 「おはようございます……初めまして」 「どちら様」 「……え」 「名前すら名乗らないまま、他人の部屋に押しかけることなんてありますか。それもこんな朝から」 「……すみません、僕はノエルという者です」 「ノエルさん……使用人の方ですか」 「いえ、僕は四部屋隣に住んでいる者で……」 「いくつ?」 「え……?」 「ノエルさん、歳はいくつですか」 「僕は……十七です」 「十七歳、お若いんですね」 「すみません、お名前を教えていただいてもいいですか……?」 「申し遅れました、ミスタです。今年で二十になります」 「ミスタさん……僕のことは『ノエル』で大丈夫ですよ」 「どうしてですか」 「三歳も先輩なんですし……気を遣わせるわけにはいかないので」 「早く生まれただけで、人間の上下が決まるのですか」 「どういう意味ですか……?」 「たった三年、早く生まれただけで相手の本質も知らないまま敬称を外していいという判断になるのですか」 「それは……」 「すみませんね、せっかくのお気遣いだったのに申し訳ない。僕、朝は大抵機嫌が悪いんです。僕のことも『ミスタ』でいいですよ」 「……ありがとうございます」 「でも」 「……はい」 「さっきノエルに尋ねたことは本当ですよ」 「尋ねたこと、ですか……?」 「生きた年数とその人間の本質、価値についてです。僕はどれだけ歳を重ねていても、生産性のない人間に価値はないと思っているので」 「そうなんですね……」 「聞き忘れていた、御用件は」 「ミスタは既にご存知かもしれないのですが、四日後にこの世界は終わるんです」 「この世界が……?」 「はい、世界が終わってからは新たな世界が創られます。そこへいくか、この世界とともに終わりを選ぶか、ミスタには選択していただかないといけないんです」 「随分唐突で壮大な問いですね」 「すぐに信じていただこうとは思っていません。ただ僕は嘘をついていないので、ミスタにはその二択のどちらを選ぶか決めていただきます」 「……理解はしました」 「ありがとうございます。その判断材料として、この一日の過ごし方をミスタに委ねます」 「僕に、ですか」 「はい、そこに僕が同行して、最後に導き出した答えを聴かせてもらうということとなっていて……」  眉間に皺を寄せながら、彼は僕の言葉を咀嚼する。 僕が何か言葉を発することで、彼の脳内を掻き乱してしまうのではないかと視線の置き場すらも迷子になってしまう。 「判断材料というのは、例えばどういう?」 「ミスタが望む場所へ行ったり、触れてみたいものに触れたりですかね」 「行きたい場所?」 「世界が終わる最後にみたい景色、逢いたい人、際限はないですよ」 「それは僕への皮肉ですか」 「……どうしてそう感じるのですか」 「何も知らずに二十年間ここにいる僕の虚しさを抉る皮肉かなと勝手に変換してしまって」 「そんなつもりはないですよ、誤解を招いてしまってすみません」  目の前にいるはずの人間から、不思議なほど何も読み取れない。 ただ機嫌を損ねないように、言葉の端まで神経を尖らせるだけの時間。 三人から幼さと無邪気さを取り払ったような、気難しさと賢さだけが残り、それを拗らせたような。 彼への第一印象は、そんな窮屈なもの。 「あの……」 「どうしたんですか、ノエル」 「もし、思い当たる希望がなければ……ただ外を歩いてみませんか」 「目的も無く?」 「案外いいものですよ。外の景色は綺麗ですし、人の賑やかさは時に五月蝿いですけど聴いていて悪いものではないです」 「四部屋隣に住んでいると言いましたよね」 「……僕ですか?」 「他に誰がいると言うのですか」 「すみません、そうです。僕の部屋は四部屋先です」 「待っていてください」 「え……」 「みてわかるでしょう、僕はまだ支度が済んでないんですよ」 「あ……」 「数分ノエル自身の部屋で待っていただいて、僕の支度が済み次第、扉を叩きますので」 「……わかりました」 「あと」 「はい」 「ノエルが提案してくれた、外を歩くこと。僕も興味が湧きました、僕は外の世界を全く知らないのでノエルの力を貸してほしいです」 「わかりました、僕は部屋にいますね。僕のことは気にせずに支度、ゆっくりで大丈夫ですよ」  彼が扉を閉める最後の瞬間、すこしだけ、本当にすこしだけ、上がった口角がみえた。 そんな些細なことに安堵して、部屋までの廊下を歩く。 僕の部屋の扉を開けて、そのまま座り込んだ。 全身の力が抜けていくようで、全ての圧から解放されたようで。 『   』  扉を叩く音と振動を感じた。 それと同時に情けなく小刻みになる鼓動が、その感覚を再度知らせる。 「はい」 「遅くなってしまって申し訳ない、準備ができました」 「大丈夫ですよ、早速外へ出ましょうか」 「あの……」 「……どうかしましたか」 「遅れた身で口を挟むのは筋違いかもしれないのですが……」 「ミスタ」 「……何ですか」 「そういう堅いやり取り辞めてみませんか、年齢で上下が決まらないのなら対等にお友達みたいに話をしましょうよ」 「お友達……」 「そう、お友達。気を遣い過ぎないで、遠慮せずに笑って、自然と口調が解れていくような、そんな感じです」 「なんだかすごく……楽しそうな関係ですね、僕には友達がいないので」 「それなら僕が、初めての友達になってもいいですか」 「ノエルが?」 「はい、僕がミスタの友達になりたいんです」 「……自然と」 「え……?」 「形式に囚われないで、自然と距離が近くなっていきたい。そしたらそれがきっと、ノエルの言う『お友達』ということになるような気がするので」 「そうですね、そうしましょうか」 「でも、ノエル」 「はい」 「ありがとう、そんなふうに言ってくれて嬉しかったよ」  アイラとも、イリアとも、ランセとも違う。 そんな柔らかい雰囲気が彼の隙間にはある。 隣を歩くことにすこし抵抗は残るけれど、きっと時間を重ねればその感覚すら霞んでいくのだと思う。 「ミスタは、みてみたい景色とか……ありますか?」 「何も知らないからね……目的も持たないまま街を歩いてみたいな」 「なるほど……」 「それだよ、ノエル」 「え?」 「その呟く感じ、その感じで僕に話しかけてほしいんだ」 「と言うと……」 「敬語を外すっていうのかな、ちょっと雑な感じで話したいなって……思っちゃった」 「ミスタ……」 「ごめん。こんな僕みたいな話しづらい人、一緒にいるだけで気を遣っちゃうよね……」 「大丈夫だよ」 「え……」 「僕もそっちの方が話しやすいし、ミスタから提案してくれてちょっと安心した。ありがとう、ミスタ」  僕が造り上げていた『怖い』という先入観は、彼の言葉で溶けていった。 言葉の端々の断定しきれない迷い、躊躇うように口を開く瞬間。 触れてからわかる人間性、もしかしたらこれが彼が言っていた『価値』なのかもしれない。 「右と左、どっちに行きたい?」 「ノエルはどっちが好き?」 「僕もわからないよ、だからミスタが好きな方が僕の好きな方ってことにする」 「じゃあ……左で」 「わかった、左ね」  本当は何があるか、僕は知っている。 右は教会で、左はスピカ様とアルト様の住処。そしてどちらにも当てはまらず真っ直ぐに進めば、あの孤児院に辿り着く。 「ノエルはどこに行きたいと思うの?」 「僕?」 「ノエルだって選ぶでしょ、生きるか死ぬか」 「僕は選ぶ必要が無いんだよね」 「最初から確固たる意思があるってこと?」 「そうじゃなくて、僕は生きないといけないんだ」 「どういう意味?」 「この世界が終わったら、新しい世界ができるって話を最初に僕がしたこと、ミスタは覚えてくれてるかな」 「覚えてるよ」 「その新しい世界の創始者に僕が、ならなくちゃいけないんだ」 「どうして?」 「え?」 「どうしてノエルが創始者になるって決まってるの?」 「ミスタが『神の遺伝子を継ぐ者』だっていうことはわかるってるよね」 「わかるよ、だからずっとあの屋敷の中にいたんだからね」 「そうだよね、この世界にはその『神の遺伝子を継ぐ者』が八人いるんだ」 「もしかして、ノエルもその一人なの?」 「そう、そして僕はその遺伝子を最も強く継いでしまったんだよ」 「だから、ノエルはその血に従って生きるの……?」 「そうすることで世界が廻るなら」 「言葉にされると悲惨だな……」  死を選択した二人と、生を選択した一人。 彼らには『生きる』『死ぬ』理由があった。 それが誰かへの想いからの選択か、失望故の希望か、綺麗なものか、醜いものか、僕には分類できないけれど意思があったということは確かなことだと思う。 僕はただ、意思もないまま『生きる』という選択肢に頷いていた。 深く疑うこともないまま、愚直な理解をした先で、『素直』の次に貼られた言葉は『悲惨』というものだった。 「ノエル」 「どうしたの」 「八人いるって言ったよね」 「そうだよ、僕とミスタを含めて八人」 「ノエルは僕と出会うまでに、何人の生死を見送ってきたの?」 「三人だよ」 「何人が死を選んだの」 「それは、言えないよ。ミスタの選択に影響を及ぼしちゃうかもしないし」 「それは、死を選んだ人間もいるってことだね」 「……」 「悪い、意地の悪い質問をした」 「そうだよ。死を選んだ人も、生を選んだ人もいたよ。全員が、しっかり意思を持って僕に最後の選択を告げた」 「告げられる側にも荷が重い選択だな」 「軽いものではないよ、だからちゃんと選んでほしい」  『ミスタ』という人間の内側を、僕は選択を受け入れる前に知りたい。 僕の思考の半歩先を回ったような話し方、小狡くてどこか冷めたような口ぶり。 つかみどころのない彼の奥底に触れてみたい。 「ミスタ」 「どうしたの」 「ミスタは部屋でずっと何をして過ごしてきたの?」 「積み重なった哲学書を片っ端から読み倒していたよ」 「哲学書……?」 「人生とか世界とか、事物の根源の在り方とか原理を求めようとする『哲学』っていう学問があるんだ。哲学書っていうのは、そのことについて記された本のこと」 「なんだか難しそうだね……」 「暇を潰すには丁度良かったよ、退屈する暇がないくらい脳内が五月蝿くなる」 「そっか、それなら……」 「何?」 「ミスタが一番好きな哲学の話してよ」 「一番好きか……」 「僕は哲学を知らないから、ミスタに教えてもらいたくて」 「それなら今の状況に相応しい題が一つだけあるよ」 「何?」 「『この世界は誰のものか』っていう話」  不敵に上がった口角が、彼の企みを映し出している。 「ノエル」 「何」 「ノエルは、誰のものだと思う?」 「この世界がってことだよね」 「ノエルがこの世界以外の世界を知っているのなら、そこでもいいよ」 「……」   「そんなにすぐ堅くならないでよ、僕が虐めてる気分になるでしょ」 「ごめん、ちょっと質問が難しくて」 「いいよ焦らないで、哲学なんて熟考するほど価値がつくようなものだから」 「この世界は……」 「うん」 「僕は、スピカ様とアルト様のものだと思う」 「それはどうして?」 「この世界は二人によって創られたものだから」 「その理論が正しいと考えているなら……ノエルはかなり傲慢な人間だね」 「傲慢……?」 「確かにこの世界を創ったのはスピカ様とアルト様だよ」 「そうだよね、それと傲慢がどうして結びつくの?」 「新しい世界を創るのは他でもないノエルだよ、それなら新しい世界はノエルのものになると思って」 「……それはまた別の話だよ」 「どうして?」 「スピカ様とアルト様はこの世界においての絶対的存在、でも僕はそうじゃない」 「ノエル」 「何」 「ノエルがノエル自身をどう思っているか僕にはわからないけど、僕からみたノエルはあの二人に重なってるんだよ」 「え……」 「あと四日後に、ノエルはあの二人のような存在にならないといけない。それはノエルもわかっているでしょ」 「それはわかってるけど……」 「僕ね、朝のノエルの態度に違和感を抱いたんだよ」 「違和感?」 「誰かの、僕の機嫌を伺うように謙っていく態度」 「それは……」 「ノエルは神の遺伝子を最も強く継いだんでしょ」 「でも、そんなことに僕の意思は一切含まれてないよ。ただの運、本質もないまま付いてきた結果みたいなもの……」 「それでも結果を受け入れたのは、ノエル自身なんじゃないの?」 「それは……」 「ごめんね。昨日までの三人がどんな性格か知らないけど、僕はきっと誰よりも優しくない」 「……」 「無駄な優しさなんて与えたところで、窮屈な人間になるのはノエル自身だからね」 「……どういう意味?」 「スピカ様とアルト様が世界を創る中で、誰かに頼ることなんてきっとできなかったでしょ」 「そうだね、きっと」 「ノエルもそうなるんだよ」 「僕も……?」 「誰にも頼る当てが無いまま、この世界をなぞるような退屈な世界しか創れない。創造力も知恵も未熟なまま、重圧を背負うだけの窮屈な人間になる」 「だからミスタは優しさを与えないようにしてるの?」 「そうだね、優しさなんかよりも正しさを与えようとしてる。僕が正しいかどうかはわからないけど、寿命が宣告された世界で傷の舐め合いをするような言葉は与えてたくない」  無知が露呈するようで恥ずかしいけれど、彼の言葉の大半の真意を僕は理解することができなかった。 彼が考えていることを正確に捉えるほどの知能を、僕はきっと持っていないから。 それでも伝わったことは、彼が僕へ向ける棘の先端は丸いということ。 正しさを注ぐ彼の言葉さえも、僕は優しさと感じてしまう。 「ミスタ」 「何」 「ありがとう」 「え」 「いや、ミスタが優しさとして言葉を発してなくても、僕を想っての言葉だってことに変わりはないと思うから」  『この世界が誰のものか』結局、僕にはその問いの答えはわからなかった。 そして『哲学』がどのようなものかも、あまりよくわからないまま。 それでも僕は、本当に知りたかったことを少しだけ知れたような気がする。 本当の正解なんてしれなくても、中途半端でも、僕自身の終着点がみつけられればそれでいいような気がした。 この酷く無気力で、無愛想で、何を考えているか掴みづらい彼がどのような人間か。すこしだけその答えの隙間をみれたような気がして、僕には妙な達成感が残っている。 「ノエル」 「何?」 「なんか、ここ治安悪そうじゃない?」 「え……言われてみれば、ちょっと危ない雰囲気だよね」  彼との話に視野を奪われていたけれど、目の前の光景で我に返る。 散らばった無数の産業廃棄物、それを突く黒い不気味な鳥、廃れた廃ビルの外壁にもたれ掛かる項垂れた人。 なんとも表し難い鼻を刺すような臭いが漂っている。 「ノエル、ここがどこかわかる……?」 「いや……ごめん、僕もここに来るのは初めてで……」 「そっか……とりあえずはやく抜け出そう」  彼は酷く困惑しながら、僕の袖を掴む。 どこにも抜け道のないような空間に身動きが取れない。 「お兄ちゃん達、どこから来たのさ」 「え……」 「随分小洒落た服を着て、どこの金持ちの家の子なんだ」  至る所に穴の空いた服を着た男性の嗄れた声が響く。 男は気味の悪い目で僕をみて、曲がった腰を動かし、後ずさる僕と彼を追いかける。 「僕達は……」 「ちょっと待てよ、お兄ちゃん、俺と一度会ったことがあるね?」 「いや……僕の記憶には……」 「お兄ちゃん、教会の清掃員の一人じゃないか?」 「え……」  数秒の戸惑いの後、消えかけていた記憶が繋がる。 あの日、僕とイリアを不審者かと問い詰めた男性の影と重なった。 すこし釣り上がった目尻や、不自然に伸びた髭、思い当たる特徴がいくつも当てはまる。 それでもたった数日で変わり果てた雰囲気に、僕はその特徴と記憶に確証を持てない。 「お兄ちゃんはここに何をしに来たんだい、また違うお友達も連れて」 「いや、その……街を歩いていたら迷い込んでしまって……」 「じゃあここがどんな場所かすら知らないのか」 「そうですね……無知ですみません」 「ここは、この世界のスラムだよ」 「スラム……」 「そう、スラム。金が無かったり家が無かったりする、俺みたいなどうしようもない奴が集まるんだ」 「……故意的に集まるのですか」 「違う、自然に行き着いた先で集まったっていう結果があるだけ。ここは孤独の集まりだからな」 「……」 「お兄ちゃん、数日前より廃れた俺をみて不思議に思ってるんだろ」 「そんなこと……」 「俺は神に見捨てられたんだよ」 「え……」 「スピカ様とアルト様に見捨てられたんだ、愛を注ぐ価値もないって」 「どういうことですか」 「教会が封鎖されたんだよ、門も施錠されて一切立ち入れなくなった」 「だから……ここへ?」 「昨晩着たんだ、同じ境遇の奴に誘われてな」 「そうだったんですね……」 「そしたら元からここを仕切ってた奴に目をつけられてしまって、すぐ近くの廃棄物処理場に埋められたんだよ。一緒に来た奴は抵抗したがために銃で撃たれてそのままだよ」 「え……大丈夫だったんですか」 「なんとかな、どうにか出てきたけど……服は無いし、当たり前だけど金も盗まれて無い。だから人間としては終わったも同然かもな」  困惑した彼と袖が繋がったまま、僕は男との話を続けた。 口調は相変わらず角があるものの、その目はどこか助けを求めているように感じた。 「なぁ、お兄ちゃん。そして奥のお友達さんも」 「……はい」 「ここへ来たらな、人間として終わったも同然になっちまう」 「……」 「金が無い者、家が無い者、酒と薬に溺れた者、無償の愛を注ぐ神にさえも見捨てられた者、そんな者と同じ人間になってしまうんだ」 「それは……」 「俺はな、まだ未来のあるお前達にはそうなってほしくないんだよ」 「え……」 「俺はいつまで生きるかわからんが『隕石が降ってきて世界ごと終わってしまえばいい』なんて身勝手なことを願いながら、生きていかなくちゃいけないんだ」 「そんな残酷なことを、どうして……」 「人間は願って死ねるほど簡単に造られてないからだよ」 「死ねない……」 「だから、こんな俺から偉そうに言えることなんてないけど、一つだけ」 「はい」 「今すぐここから出るんだ。そこの角を曲がって、そこから三回左へ曲がれば出ることができる」 「……そしたら、貴方は」 「俺のことはいいんだ、俺に未来は無い。生きた屍のような奴のために、命を棄てるな」  その場での正解が僕にはわからなかった。 ここから出たいという願いと、目の前の人間を見殺しにしてしまうという罪悪感、進むのを躊躇う足。 僕はただ、頭を下げることしかできなかった。 「ミスタ」 「……ノエル」 「ミスタ、そのまま手を繋いでいて」 「え……」 「一緒に逃げよう」 「……じゃあこの人は」 「大丈夫、生きてたらまた逢えるから」  彼の手を掴み、半ば強引に路地を抜けた。 指示された通りの角を曲がり、穏やかな空気の漂う街へ駆ける。 「ノエル、ありがとう……」 「え……どうして?」 「ずっと部屋にいた僕と違って教会の清掃をしてたんだろ、世界のために奉仕を捧げていたから命拾いできたんだと……」 「ごめん、あれは嘘なんだ」 「……え」 「最後の選択の前に教会を望んだ子がいてね、僕が『神の遺伝子を継ぐ者だ』ってバレないように咄嗟についた嘘なんだ」 「そうだったんだ……」 「ねぇ、ミスタ」 「何?」 「ミスタはさ『優しさ』ってなんだと思う?」 「どうしたんだよ、急に」 「僕、優しい創始者になりたいんだ」 「どうしてそう思うの?」 「さっき話をして思ったんだよね。これは理想論でしかないけど、どんな絶望の淵にいる人にも優しさを捧げられる存在になりたいって」 「ノエルが優しさを捧げた先に、何があるの……?」 「生きている人間から『未来が無い』なんて哀しい言葉を聴かなくて済む」 「……」 「だから教えてよ、優しさって何か。きっと僕の頭だけじゃロクな答えも出せないと思うから」 「優しさ……僕にもわからないけど、ノエルがその人の想いを知ること。そこから始まると思う」 「知ること……?」 「そう、ノエルは創始者になる、それは『遠い存在』になるということなんだよ」 「……それは正しいけど、ちょっと寂しいね」 「遠いからこそ、全てをみれるんでしょ」 「……」 「あんな狭い屋敷なんかじゃない。空の上か、それよりも上なのか、僕にはわからないけど、ノエルは全てをみれる」 「全てをみた後で、僕に何ができるのかな……」 「それはノエル次第だと思う。何を想って、どう伝えるか、手の差し伸べ方も、愛情の掛け方も、それは全てノエル次第だから」  意思を持って動くこと、それが四日後の僕に求められていること。 無償の愛は、時として残虐な惨状を生むことを知った僕に強いられた課題。 それなら今の僕にできることは、目の前の人間にすら手を差し伸べられない臆病な僕を脱ぎ捨てること以外無い。 「ミスタ」 「どうしたの」 「すこしの間、ここで待っていてくれるかな」 「ノエルはどこへ行くの」 「察してくれると嬉しいな」 「……自ら危険な場所へ行く必要はないよ」 「大丈夫、僕は絶対にミスタの元に帰ってくるから」  意思が揺らがないように、僕は彼を置き、来た道を駆けて辿った。 路地への道の正解を知らせるように異臭が鼻を刺す。 陽が落ちた路地では、昼間には飛び交っていなかった罵声や銃声、硝子の割れる音が鳴り響く。 どうか無事であることだけを祈り、人目につかない路地裏を駆ける。 「あの……」 「……どうしてここに、ここに来てはいけないとあれほど言っただろ」 「すみません、助けていただいたのに、申し訳ないです」 「謝るなら、どうしてここへ来たんだ」 「どうしても伝えたかったんです」 「え……」 「貴方にどれだけ怒られたとしても、多少怪我を負ったとしても、僕は貴方に伝えたいことがあったんです」 「……俺に?」 「そうです、だから一つだけ僕の言葉を受け取ってくれませんか」 「……」 「昼間話をした時、貴方は貴方自身のことを『未来が無い』『生きた屍』だと言いましたよね」 「ああ、言ったよ。事実だからな」 「違いますよ」 「え……」 「未来が無いのは、貴方だけじゃないんですよ」 「どういうことだ」 「この世界だって、いつ終わりを迎えるかなんてわからないんです」 「それは……」 「貴方が明日から、思い描くようなキラキラした生活ができたり、何不自由無い生活を送ることは、確かに難しいことだと思います」 「ああ、俺もそう思うよ。だから……だから何だって言うんだよ」 「だからこそ、一日ずつを……一瞬を、大切に生きて欲しいんです」 「それは……未来がある若者だから言えることだよ」 「僕だって、未来は無いも同然ですよ」 「え……」 「だから、僕が貴方の未来になりますから……だから……」 「わかった、詰め寄ってしまって申し訳ない。余裕のなさが出てしまった」 「謝罪は大丈夫です、だから僕と約束してくれませんか」 「約束……」 「はい、一緒に未来を生きるって」 「理想論を並べたような言葉を……でもそれくらいが清々しいな、わかったよ。約束な」  僕は男性に手を振り、彼の元へ駆けた。 きっと誰よりも一人を恐れている彼の元へ。 過激さを増す罵声と銃声を掻き分けながら、夜街の暖かい灯りを目指して。 「ミスタ」 「……ノエル」 「ごめんね、すこし遅くなっちゃった」 「怪我はしてない?誰かに殴られたりとか……遠くから銃声も聞こえたし、本当に大丈夫だったの……?」 「大丈夫、僕はどこも怪我なんてしてないよ」 「よかった、それなら本当によかった……」 「ミスタは?」 「え?」 「怖くなかった?一人で待ってる時、怖くなかった?」 「……すこしだけ、怖かった。おかしいよね、二十年間も独りでいたのに」 「おかしくなんかないよ。僕もその感覚、わかるから」  そのまま暖かい光の中を、僕と彼は手を結んで歩いた。 すこしだけ遠回りするように、欠けた夜想曲に浸りながら、最後の選択までの数分を過ごす。 彼が僕との一日に見出した価値と心情の全てが二択に当てはまってしまうことへの違和感は、僕の中でまだ完全に拭い切れているわけではない。 「ミスタ、最後の選択はもうできた……?」 「これだけ僕の中で揺れ動かされたものがあるのに、選ぶ選択肢は増えないんだね」 「そうだね……でも、どちらを選んだとしても未来はあるよ」 「僕が死んだ先の未来は、誰が創ってくれるの?」 「え……」 「僕が生きていく未来は、ノエルが創ってくれる。それじゃあ、僕が死んだ先の未来は誰によって創られるの?」 「それは……ミスタ自身だよ」 「僕自身……」 「ごめんね、荷が重いよね。でも生きていたとしても、そうじゃなくても、ミスタの人生だという事実は変わらないはずだから……変わっちゃいけないはずだから」  屋敷の扉の前で、彼が俯きながら何かを呟いている。 誰へ宛てた言葉なのかはわからない。 彼が何を想い、決断を下すのか、それを僕は受け入れることしかできない。 「ノエル」 「うん」 「僕は、やっぱりまだわからない」 「え……」 「明日の朝、ノエルに伝えようと思う」 「朝に……」 「直接顔を合わせる度胸はないだろうから、僕が死を選んだ後にどうすればいいかだけ教えてほしいな。生きることを決めた時には、どんな手を使ってでも伝えるから」 「ミスタが死を選んだら……この扉を開いてすぐの階段を降って、地下にある吸魂室に入る。そこから先は……」 「わかった、ありがとう。僕は悔いなく未来を決める、だからどっちを選んだとしてもノエルには背中を押してほしい」 「……」 「ノエル、僕と約束してくれるかな」 「え……」 「僕が生きたとしても、死んじゃったとしても、ノエルはノエルを生きるって」 「わかった、約束しようか」  堅く小指を結び、誓いと共に解いた。 彼ならきっと、約束を守ってくれる。何があっても、きっと。 四部屋隣の彼は、扉の前で手を振った。 「おやすみ、ノエル」 「おやすみ、ミスタ」  そんな言葉を最後に自部屋へ戻る。 扉を静かに閉めた後、僕は届くはずもない声で嘆いた。 『またね』    
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